新型コロナウイルスワクチン接種券が来た

 私のところにも65歳以上を対象とする新型コロナウイルスワクチン接種券が京都市から郵送されてきた。ではすぐに接種できるのかといえば、それはまだで、未定。同封されていたチラシには「後日、京都市から順次、〈予約開始のお知らせ〉をお届けします。予約方法や接種場所等の詳細は、〈予約開始のお知らせ〉で御案内しますので、しばらくお待ちください」とある。
 これで行くと、次に予約開始のお知らせが来て予約し、予約してから接種を受けることになる。つまり、接種券を受け取る(今回)、予約する、接種を受ける、という3段階の手続きを経ることになる。予約と接種の2段階はまだしも理解できるが(これもそうでないほうがいいのだけれど)、よく分からないのは、予約も接種実施も未確定の今、なぜ接種券だけ先行して送付するのかという点である。こんな二重に手間をかけることに意味があるのだろうか。予約開始に合わせて接種券を送付すればよいのではないか。ひょっとして、老人たちを少しでも早く安心させたいという配慮からか!? 私なんかはむしろ、予約のお知らせが来た時点で接種券を失っている年寄りもいて、混乱を招くことになりはしないかと心配になる。チラシにはさらに、「京都市LINE公式アカウントに友だち登録すると…最新のコロナに関する情報を受け取れて便利!」だから、ぜひ友だち登録をしてねというおすすめも書かれている。でも、65歳以上の年寄りでLINEを使いこなす人ってどれくらいいるのか。ちなみに私は使いこなしていない。LINEがどのようなものであるかもよく分かっていないけれど、それでいいと思っている。興味関心(あるいは利害)を同じくする人たちとサークルを作って、文字とスタンプで気軽にコミュニケーションをとるのも面白いかもしれないし、それに電話も無料でかけられ、さらにお互いの顔を見ながらの通信も可能であるらしいが(以上が私のLINE理解で、多分でたらめ)、メールで文字を打てて、写真を同封できれば、それで十分である。という私の気持ちに共感する老人は多いはず。まさか、予約はWEBで、なんてことにはならないと思うが。
 簡素さを欠いた手続きや焦点のぼけた案内が、政府首脳が最近よく口にする「国民に寄り添った」「機動性を持った」コロナ対応なのかと疑問に思う。地方自治体としては一所懸命に取り組んでいるのだろうけれど、何かちぐはぐである。もちろん、一番問題なのはワクチン確保(自力でのワクチン開発ができなかったことについては今さら何か言う気もしないが)において日本政府が後手に回り、その結果として4月22日時点での既接種者が2%にとどまり、OECD加盟37ヵ国中最下位であるという惨状である。今日から東京、大阪、京都、兵庫で「緊急事態宣言」が発令される。これで3回目。一定の効果は見込まれるであろうが、コロナ収束は期待薄。感染者数や重症者数、病床の逼迫度合いが一定の水準にまで減少すれば宣言を解除することになるのだろうが、それでいいのか。そうこうするうちにワクチン接種も行き渡るのでなんとかなるのではないかと、その程度の期待で為政者は動いているのではないか。科学的な施策と明瞭なメッセージが欠けていて、とにかく心もとない。国民は自粛お願いされ疲れ状態である。誰がやったって同じようのものだから政府を批判しても仕方ないという考えの人もいるだろうが、そんな政府免罪論はやはりだめだと思う。もっと政府の尻を叩こう。 

お伊勢さんと伊勢うどん

 伊勢に行ってきた。伊勢に行くといえば伊勢神宮にお参りすることとイコールであると考えるのが普通であって、「お伊勢さんに行く」という言い方をすれば、それは伊勢神宮参拝を意味する。今回、私も伊勢神宮にお参りすることはお参りした。しかし、第1の目的はそちらでなくて、伊勢うどん。ん、伊勢うどんてどんなうどん? 私も知らなかったが、とても柔らかくてフニャフニャのうどん。あの讃岐うどんと正反対。太さは讃岐うどんなみとか。家内が一度食べてみたいと言い出して私もそれに乗り、陽気にも誘われ、出かけた。
 京都から琵琶湖線草津まで、次に草津線で柘植まで、そこから関西本線で亀山まで、さらに紀勢本線で途中、津で快速に乗り換えて、伊勢市まで行く(多気から伊勢市までは参宮線に入るが乗り換えの必要はない)。そしてバスで内宮へ向かうという道筋。乗り換え時間を含めて片道約4時間。京都から伊勢志摩方面へは近鉄を使うのが通常の行き方で、それも特急でなら伊勢市まで2時間。わざわざJRで乗り換えを繰り返しつつ時間をかけて行くなんて酔狂かもしれない。今回は敢えてその酔狂を青春18切符を使ってやってみた。
 草津から津までの区間は新快速なども走っていなくて各駅停車のみ。それでも駅の数はあまり多くないので辛気臭いという感じはしない。昔、豊橋から飯田線で長野方面を目指したらどうなるのか興味をもち、時刻表を調べたら、駅の数は多いし電車の本数は少ないしで、およそ青春18切符各停の旅の対象ではないことが分かった。それに比べると、草津線関西本線紀勢本線の旅は、1時間に1本の割合で電車は走っているし、乗り換えの待ち時間が10分から30分程度で、乗り換えのために走る必要もなく、トイレ時間には十分というわけで、のんびり旅にはおあつらえ向きといってよいかもしれない。
 草津駅で柘植行き電車は通勤通学の乗客であふれるが、2つか3つ先の駅で大半が降車し、柘植まで乗る人は少ない。柘植から亀山への車内には、JR西日本亀山鉄道部一同という名の入った手作りの「入学おめでとう」というポスターがぶら下がっていたりしてローカル線の雰囲気をかもし出している。亀山といえばかつて、といってもそれほど昔ではないかつてだが、シャープの液晶テレビ生産拠点であって、ここの生産品は亀山モデルなどともてはやされたものだが、その後シャープが台湾企業の資本下に置かれたりして今はどうなっているのか。気になって帰宅後調べたら、今も工場はあってスマホ用の小型液晶を生産しているとか。経済のことはまったく分からないが、工場が閉鎖されていないのは多分良いことなのだろう。少なくとも亀山の町にとって。少し時間があったので駅を出て歩いてみたら、駅前は再開発中で、図書館とテナントと集合住宅の入ったビルを作るために地面を掘っているところであった。
 さて、お伊勢参りは今回が3回目。最初は小学校の修学旅行だから60年ほど昔のこと。大昔と言うべきかもしれず、記憶にあるのは五十鈴川の水をきれいだと思ったこと、二見浦に泊まり夫婦岩を見たということくらいである。2回目は8年前で、私の定年退職記念と銘打って酒飲み仲間4人で賢島に一泊した翌日にお参りした。その顔触れでの旅行はまず昼から飲み始め、夜は旅館で夕食から寝るまで飲み、翌日も昼から夜にかけて飲むという酒飲みお馬鹿旅行が恒例になっているのだが、このときもそれを順守し、内宮にお参りした後、おはらい町通りのどこかの店で楽しくやった。今回は時間にゆとりがなく、外宮には寄らず内宮のみであったが、それでも宇治橋から正宮まで行って戻って、おはらい町通りとおかげ横丁をぶらついていたら思いがけず時間が過ぎて、酔っぱらっている暇はなさそう。手近の店で伊勢うどんとてこね寿司のセットを注文。伊勢うどんの味や如何に? 確かに柔らかい。濃い色の醤油状のたれがかかっていて、それを絡めて食べる。まずくもないが、特別旨くもない。うん、こんなものだろう、という味。家内も同じような思いらしい。ともあれ、これで目的達成。
 バスで伊勢市駅まで戻ると電車が出るまでに20分ほど時間がある。赤福餅の2個入りを買ってその場で食べたが、驚いたことに、この駅のホームにあるすべてのベンチの背には赤福の文字。いや、駅だけではない。伊勢の町中至る所で赤福の文字を見かける。徹底している。かつての小学校での修学旅行では事前に土産物を注文することになっていて、注文用紙にあらかじめ印刷されたなかから選び出し、個数と金額を記入して担任の先生に提出したものである(多分お金もいっしょに)。土産物の定番は生姜板と赤福とお福であった。赤福とお福は同じようなあんころ餅でどう違うのか今も昔も私には判然としないが、ともに伊勢の名物で、注文用紙には必ず両方が候補として挙げてあり、同等の扱いであった。ところが現在では見かけるのは赤福ばかりで、伊勢だけでなく京都や大阪の駅の売店などではどこでも売っている。一方、お福は見かけない。どうなったのかと、これまた帰宅後に調べてみたら、健在であった。今も製造販売している。よかったね、お福さん。生姜板はどうかというと、おはらい町通りで1軒だけ売っている店があった。近くのプリン店には客が立ち寄っていたが、この生姜板屋さんは閑散としていた。生姜のしぼり汁と砂糖を混ぜて御札の形に固めた生姜板をおやつにする人は今や少ないか。
 2時過ぎの電車に乗り、6時過ぎに京都帰着。今年は桜の開花が早く、4月8日だというのに沿線はほぼ葉桜ばかり。息をのむような景色には出くわさなかった。それでも関西本線草津線鈴鹿山脈の南の端、少し高くなった土地を走っていて、亀山柘植間は山中を走っている趣がある。紅葉の頃には楽しめそうである。

コロナウイルス第4波?

 和田アキ子がラジオ番組「ゴッドアフタヌーン アッコのいいかげんに1000回」で次のように発言したと報じられている。(「スポーツ報知」3月27日)
 「番組で和田は、首都圏1都3県の緊急事態宣言の解除で感染者が再拡大していることを受け、東京都の小池百合子知事が26日に都庁で〈東京の場合、2週間後は1000人にいってもおかしくない〉と警戒感を強めた発言に触れた。この発言に和田は〈私に言わせれば、言うだけ言って、ウチら手洗いしているし、消毒しているし、うがいしているよ、マスクしているよ。何なの〉と憤りを露わにした。さらに〈経済動かすためには、しょうがないけど、わかりきっていることじゃない? 人が動けば感染の確率が高いって〉とし〈だって言っていることがおかしいもん。密を避けるため、感染予防のためにって、じゃあ聖火ランナーやるなよ〉と訴えた。続けて〈ごめんなさいね、走っている方には申し訳ない〉とし、〈辞退増えてるもんね。密を避けるって言ってGoToイートが始まるかもわからない。何を言うてはるのか分からへん〉とコメントしていた。」
 和田アキ子の言っている事は変哲もない事といえば変哲もない事、愚痴といえば愚痴ではあるが、現在の国民の最大公約数的な気持ちを率直に代弁したものであり、深い分析や専門的知見なんかとは関係のないぶん、とても分かり易い。政治家や専門家はタレントの無責任な放言垂れ流しとして歯牙にもかけないだろうが、私は素直に共感する。
 ほんとうにそうなのだ。マスク、うがい、手洗いと、私たちは個人的にできることはやっている。不要不急の外出は控え、密を避けている。飲食店の自己犠牲を伴う営業時間短縮や感染防止対策は涙ぐましいほどである。これ以上自覚と自粛を呼びかけられても、国民ひとりひとりができることはもう何もない。あとは政府と行政の施策にかかっている。一朝一夕にウイルスを封じ込めるような手段はありえないにしても、できるだけ有効な対策を講ずるのは政治の責任である。ところが、あの「Go To トラベル」「Go To イート」キャンペーン。加えてオリンピック・パラリンピック開催への固執。これらが人と人との交流や接触を構造的に増長させるものであって、密を避けるのとは逆のものであることは子供でも分かる道理である。感染防止対策を十分に取りながらなどという枕詞を並べても、密を生み出すという基本的な性格に変わりはない。一時的に飲食業界や旅行業界を活性化したとしてもコロナ感染が拡大すれば結局はより大きなダメージを招き、角を矯めて牛を殺すことになりかねないというのが当初から現在までの私の感想である。去年7月に小池東京都知事がこのキャンペーンを冷房と暖房を同時にかけるようなものと呼んで揶揄したのを聞いたときは、ズバリ核心をついている、言い得て妙だと感心した。
 ところがである。その小池知事も2ケ月後には「Go To トラベル」推進派へと変身(変心)。感染者が多いことを理由に当初このキャンペーンから対象除外されていた東京都が加えられることについて記者から質問され、次のように答えている。「〈Go Toトラベル〉でありますけれども・・・東京が対象に加わりますと、経営が厳しい都内の観光関連事業者にとりまして、事業の回復などにはずみがつくのではないかと考えております。また、都民の皆さんも待ち望んでおられると思います。とはいえ、外出される際は、くれぐれも感染防止策に万全を期していただきたい。また、〈Go Toトラベル〉による観光施策が円滑に進むように、東京における感染防止対策などについて、国と協力して発信をしていきたいと考えております。」(2020.09.11 記者会見)。なんだ、小池さん、あなたも冷房と暖房を同時にかけているじゃないですか。ほんとに、何を言うてはるのか分からへん。
 どうしたらいいのだろう。コロナを抑え込むという観点だけでなら社会的活動、経済的活動を全面的に停止すればよい。日本をしばらくお休みにするのである。もちろんこれは不可能。経済をストップさせるわけにいかないことぐらいは私ごとき者でも理解している。経済活動の維持ないし活性化は必要だし、そのためには人と人との交流、出会いは不可欠。矛盾はいかんともしがたい。人間が外出することを止められないのであれば、コロナウイルスの外出を阻止するしかない。つまり、ウイルス感染者が外へ出かけ、他の人々と接触するのを止めるしかない。発症した人は外出どころではないのだから、問題は無症状のままウイルスを持ち歩く人である。「健康な」無症状者によるウイルス拡散をどう防ぐかが肝要になってくる。そのために必要な処置としてはPCR検査の徹底以外にないのではないか。厚労省資料によれば昨年2月18日から今年の3月27日までにPCR検査を受けた人は10,007,344人で、総人口の1割に満たない。何らかの症状の現れた人か、医療現場や介護施設、接待を伴う飲食店やイベント会場など、クラスターの発生する危険性の高い場所で働く人が中心なのだろう。対象者を拡大して健康な人にもチェックをかけることはできない相談なのか。同じ厚労省資料には現時点での日本全国全体の1日のPCR検査能力は175,200件分だとの数字が挙がっている。これ、10倍くらいにならないのだろうか。日本居住者全員検査というのが理想だとは思うが、それはあまりにも現実離れしているというのであれば、職場や通勤、就業形態などを考慮した優先順位をつけて実施していくのはどうだろう。無症状の人が数千円以上の自己負担で自発的に検査を受けるとは考えにくい。ならば無料の検査を、とりあえずは毎日公共交通で通勤せざるを得ない人たちあたりまで対象を広げて実施することぐらい政府の主導でできないものなのか。
 2月末に緊急事態宣言が解除された大阪や兵庫などでは感染者数の増加がみられ、3月30日の大阪では432人まで増加している。さらに増えることは火を見るよりも明らか。この21日に宣言の解除された首都圏でも関西圏の後追いをして、東京の感染者数が近々4ケタになり、全国的に第4波襲来も時間の問題とおそらく誰もが感じているはず。政府は3度目の緊急事態宣言で事に当たるつもりなのか。ワクチン接種の始まっていることに望みをつないでいるのか。多分そうなのだろう。もちろんワクチンはワクチンで結構なことである。ただし、私みたいに外出する必要のない老人よりも若い人を優先すべきだと思うけれど。それに加えてPCR検査の対象を飛躍的に拡大する措置を取るべきだと思う。以上、まったくのド素人が真面目に考えた新型コロナウイルス問題。

日生と岡山と児島

 海産物で冬の味覚といえばカニとカキ。カニは身をほじくり出すのが面倒で手も汚れるし、それになんといっても高価。口にすることはめったにない。その点、カキは安くて私の大好物。そのカキのシーズンもそろそろ終わりに近づいてきたので、食べ納めに日生まで出かけた。あと、どこへ行くかは気分しだいということで、青春18切符での安上がり旅行に出発。
 京阪神から新幹線を使わずに瀬戸内へ出かける道筋は、姫路から相生を経由して岡山まで行き、その先は、さらに瀬戸内海沿いに西へ向かうのか、それとも瀬戸内海を渡って四国へ向かうのかのどちらかになる。姫路までは新快速で京都からだと約1時間半で到着。その先のルートは2つあって、山陽線経由と赤穂線経由。姫路から播州赤穂行きに乗り相生まで行くのは同じだが、相生で岡山行きに乗り換えると山陽線経由、乗り換えずに播州赤穂まで行き、そこで岡山行きに乗れば赤穂線経由である。姫路岡山間のおよその所要時間は山陽線経由だと1時間20分、赤穂線経由だと2時間で、大半の乗客は短いほうを選ぶ。ただし時節によっては座れないことも覚悟しなければならず、相生乗り換え時の駆けっこは恒例となっている。それに比べて赤穂線のほうはのんびりしたもので私はだいたいこちらを取る。今回はまず日生に立ち寄るのが所期の目的であるからもちろん赤穂線
 正午近くに日生到着。ごくごく小さな湾と岬(湾とか岬とか呼んでいいものか疑問)を海沿いに30分ほど散歩。「五味の市」という海産物と野菜の並ぶ観光施設に入ってみる。カキフライは大きくて旨そうで安い。自宅の近所でこんなカキフライを売っていれば3日に一度は買うだろう。旨そうでないのはカキフライソフトなるもの。カキフライとソフトクリームなんてどう考えてもミスマッチ。誰が食べるのだろう。カキフライが好きでソフトクリームが好きな人に違いなかろうが、そんな人でもこの二つを同時に食べておいしいと思うとはどうもイメージが湧かない。カキのバーベキューもやっていて、いい匂いがしているが、私の食べたいのはいろんなカキ料理なので、そこはパス。少し戻り、心づもりしていた店「秀吉」に入る。この店は食べログなどの評価はけっして高くないのだが私は気に入っている。「牡蠣づくし」を注文。酢がき、天ぷら、焼きがき、土手鍋、にぎり寿司と、カキのオンパレード。すまし汁と茶碗蒸しにもカキが入っている。さすがにデザートには入っていないが。1時間余りの滞在で日本酒も堪能したし、今シーズンのカキの食べ納めとして完璧。また来冬もたらふくカキを食べよう、生きていたらね!
 お腹いっぱいでほろ酔い加減の身を遠くまで移動させるのは、たとえ電車で運ばれて行くだけとはいえしんどいというわけで、宿泊地に選んだのは岡山。日生岡山間は1時間5分。岡山は、倉敷、竹原、尾道、高松、琴平などに行く途中の中継地点としてこれまでよく乗り降りして待ち時間を食事に充てたりしたし、2年前には四国からの帰りに後楽園に立ち寄ったりもした。ところが意外にも一晩泊まってゆっくりしたことがない。もっぱら乗換駅としてのみ利用していたことになる。しかし実は40数年昔に初めて教職に就いたのが当地の岡山商科大学で、ここは3年間務め、3年間暮らした町なのである。住んだのは岡山駅のほど近くにあった賃貸マンション。1階が銭湯になっていた。ギターを習い始めたのも岡山。お酒を覚えたのも岡山。初めてのボーナスをはたいて買ったステレオスピーカーは今なお現役である。
 そのなつかしい町を今回はゆっくりぶらついてみた。まず商科大学までバスで行ってみる。大きく変わっていた。立派な校舎や研究棟が立ち並び、昔の面影は皆無。近隣もすっかり様変わりしている。よく行った食堂もない。次に町中に戻ってくる。住んでいたマンション。見つからない。銭湯もない。それらしい建物はあるが確信が持てない。隣にあったはずの小さなパン屋もない。では、角を曲がったところの洋食屋はどうだ。あった!奇跡的。他に見覚えのある店はあるだろうかと注意しながらそこらじゅうを歩いてみる。道筋そのものに変化はなさそうであるが、記憶にマッチングする光景はなかなか見つからない。昔はなかった高層マンションがそびえていたりする。西川緑道公園はあまり変わっていないような気がする。駅前から東へ伸びる、路面電車の走っている大通りは桃太郎大通りと名付けられているが、以前からこんな名称であったかどうか判然としない。この大通りの一筋北側に並行して走る通りは小さな衣料雑貨店などが雑然と並んでいたと記憶するが、今は食べ物屋が中心の繁華街になっている。反対側の一筋南側に並行して走る通りはめぼしい店などなかったはずだが、今はこれまた飲食店が目白押し。中心になる駅の近辺が大きく変貌するのは全国の多くの都市の共通点なのだろうか。
 翌日はよく晴れてうららかな陽気。海を見たいが、どこがいいか。尾道は海と坂道が寄り添うようにしてあり、私の好きな町だが、ここ暫くご無沙汰している。最後に訪れたのは確か5年前の春で、桜の満開の下を千光寺から西國寺まで散策した。岡山尾道間は約1時間半。そうなると、尾道から比叡山坂本までの帰路に要する時間は待ち時間も含めて6時間くらいは必要になり、神戸大阪あたりでラッシュアワーに重なるのは明らか。これは避けたい。それで今回は尾道は諦め、児島に出かけた。こちらなら岡山から30分。児島といえばジーンズで有名な町。しかし私にとってはボートレース場があるので親しみ深い町。全国にボートレース場は24カ所あるが、私が好きなのは湖か海辺にあって眺望が広がり、昼間にレースをする所。すなわち、びわこ、浜名湖、宮島、そして児島。他にも海辺のレース場はあるが、ナイター専門の所や見晴らしの良くない所は興味がない。要するに、昼間は広々した景色を背景に気に入ったレースに賭け、夜はゆっくり魚と酒を味わうのが眼目なのである。
 せっかくだから児島ではジーンズ・ストリートと名付けられた一角を訪れて、そのあとでボートレース場に向かうことにした。で、このストリート、どうだったかといえば、寂しかった。活気が感じられない。これでいいの? もっとも、私が行ったのは朝の9時過ぎという早い時間帯であったし、コロナ禍の現在でもあり、また、ジーンズに関心もない私が通りがかりに眺めただけの印象なので、活気不足という印象は間違っているのかもしれないし、たまたまの一過性のものであるのかもしれない。是非そうであってほしいと思う。
 ボートレース場では女子選手のみによるヴィーナスシリーズを開催中であった。1Rも2Rも3Rも賭け心をそそられるようなレースではなく、眺めているだけ。レースの合間にはスタート練習やら調整確認やら足合わせをしているボートがたくさんあって、見るともなく見ていると、守屋、大山、平高、田口といったビッグネームもあるが、盛んに試運転しているのが金子とか冨名腰といった若いB級の選手たち。これはきっと調整なんかではなく、基本的な練習そのものなのだろう。何しろ彼女たちは早くA級に上がることを目指しているはずだし、そのためには練習を積むしかなかろう。といったことを考えるともなく考えながら海を眺め2時間ほど過ごし、お昼頃にボート場を出、児島駅へと向かった。来る時はバスですぐだったが、これが徒歩だと意外と遠く、思っていたより時間がかかりそう。1本逃せば次の電車まで30分待たなければならない。小走り加減の急ぎ足でなんとか3分前に到着。あとは岡山で遅めの昼ご飯を取り、今度は山陽線回りの相生経由で姫路まで。そこからは新快速長浜行きで山科まで乗り換えなしの一目散。山科で湖西線に乗り換えて比叡山坂本へ夕方5時頃帰着。

 

長浜大通寺と木ノ本地蔵とビールとパン

 近くのスーパーへ食材を買いに出かけるのと夕方の散歩以外に外出することはほとんどない。コロナ自粛下でとくに外出を控えているわけではなく、定年退職後のもっぱら家の中で過ごす生活をそのまま続けているだけである。それでも、春めいてくると少し遠出をしてみたいという気になることもある。遠出といっても自転車で行ける範囲をちょっと超える程度だけれど。
 それで先日、青春18切符を使って琵琶湖半周の遠出をしてきた。青春18切符は5回分で12050円。1回乗車あたり2410円。JRの全線、普通列車なら乗り放題という格安切符。乗り放題ということは降り放題ということでもある。特急や急行に乗れない点と、第3セクターの路線には別途料金が必要という点は不便であるが、乗り降り自由の利用価値はかなり高く、私も春と夏の期間にはよく使う切符である。この切符の使い方のひとつに、ひたすら距離を稼ぎ、一日でどこからどこまで行った、普通の乗車賃なら1万円以上かかるところを2410円で行った、ラッキー!という楽しみ方もあるらしいが、たぶんこれは少数派、あるいは例外派だろう。切符使用期間に車内やプラットホームで見かける同好の士(であることはすぐ分かる、ほんとうです)は多くが中年から初老の人たちで、距離を稼ぐことに関心も体力もなさそうな人たち。私と同じくちょっと遠出派のはず。なぜか、女性はグループが多く、男性はひとりが多い。
 で、先日の私の遠出は比叡山坂本10時3分発、近江塩津乗り換え、長浜11時28分着の琵琶湖北側半周。長浜の盆梅展は以前見たことがあるので今回はパスし、当てもなく店の立ち並ぶ町筋をぶらついていると、中心街の途切れるあたりにみごとな山門を発見。真宗大谷派長浜別院大通寺とある。広い境内には鳩の群れと日向ぼっこの母子連れ一組だけ。本堂はどなたでもお参りいただけますとの掲示を見て、さっそく靴を脱いで本堂にお参り。本堂から左側には大広間や書院が続いており、なかなか立派なたたずまい。拝観料500円が必要だが、円山応挙狩野山楽狩野山雪の襖絵が見られるし、枯山水の庭園もあるという。折から馬酔木(あせび)の盆栽展もやっている。見ずに帰るわけにはいくまい。という訳で拝観料を納め、渡り廊下から大広間へと向かう。大広間ってほんとに大きくて広いなどと素直に感心。冬はさぞかし寒かろうと余計な心配もする。襖絵では、応挙、山楽、山雪のものは色あせていて、いまいち訴えてこない。むしろ、書院の片面(多分西側の12枚)の襖全部に描かれた岸駒筆の老梅の図の雄渾さに感じ入った。(でも、実は私、日本画の歴史や画家について完全に無知で、岸駒は「がんく」と読み、江戸時代に京都で活躍した著名な絵師であったことは帰宅後調べて初めて知った)。この寺に嫁いだ井伊直弼の娘、砂千代が使っていた駕籠が展示してあって間近に見られたが、中を覗くと後方の左側に肘掛けがしつらえてあって、なるほど駕籠の中では斜め左後ろにもたれるように座っていたのかなと推測した。枯山水の庭は伊吹山を借景にしているとのことで、なるほどそのとおりなのだが、ちょっと遠慮気味なのではと思った。もっと大胆に伊吹山を取り入れたほうがよいのではというのが、これまた庭園美など理解しない私の勝手な感想。拝観していたのは私だけで、途中で出会ったのは寺の誰かお一人だけ。
 昼食は地ビールレストランの長濱浪漫ビールで。ここのビールは、いつぞや、長濵ビールが飲める大津市内の店は当店のみとうたっていたレストランで飲んだ時においしいと思ったビールで、去年の夏には注文して取り寄せもした。店訪問は今回が初めて。私は迷うことなく1980円90分飲み放題を選択。これは飲み物代だけで、別に料理を2品注文すべしという条件があるが、ひたすらビールをがぶ飲みするというのならいざ知らず、普通に食事してビールもいろいろ味わい、最後にウイスキーで仕上げをと考える呑み助にはとてもありがたい。この日、私は料理を3皿注文し、ビールを3種類(290ml入りグラスで3杯)とウイスキーをストレートで2杯飲み、ちょうどよい加減。
 朝、出かける時には長浜からの帰路をどうするか、北陸線東海道線を南下し、山科で湖西線に乗り換えて比叡山坂本へ戻るか(琵琶湖一周コース)、それとも来た時の経路を逆に辿るか(琵琶湖北側半周往復コース)は決めていなかった。しかし、長浜駅へ向かう時点では逆戻りコースに決めていた。決め手となったのは長濱浪漫ビールで食べたアヒージョについていたパン。木ノ本のつるやというパン屋さんのものだという丸くてふんわかしたパンがおいしかった。木ノ本には有名な地蔵さんがある。途中下車して、まずそこへお参りする。駅から徒歩で数分のはずで、道に迷ってもせいぜい10分かそこら。ついでにパン屋さんを探す。もしそのパン屋さんが見つかればよし、見つからなくてもダメ元である。木ノ本は小さな町だからあてずっぽうで行っても見つかるかもしれない。次の電車までの1時間という待ち時間はそんな散歩にちょうどよい。
 木ノ本北陸線で長浜から北へ4つ目の駅、所要時間14分。まずは木ノ本地蔵を目指す。迷いたくても迷えないわかりやすい道筋。本堂(地蔵堂)でお参りするが、本尊は秘仏とてお顔を拝むことはできない。その代わりに御戒壇巡りというのがあり、本堂の下に張り巡らされた真っ暗な通路を50メートル余り手探りで歩く。入口に、右手を腰の高さにし、右側の壁に常に触れながら一歩一歩進めと指示が書いてある。300円の志納冥加金を木箱に入れ、銅鑼をばちで叩いてから歩き始める。途中に「御結縁の鍵」というのがあって、これが本尊の地蔵大菩薩の手と結ばれている。この鍵に触れることすなわち御本尊の手に触れることなのである。この御戒壇はほんとうに真っ暗。完全なる闇とはこれであったかと納得させてくれる。自分の目が開いているのだろうかと疑ってしまう。何も見えない。ふと恐怖感にさえ襲われる。スマホで照らしたら何が見えるのかな。いや、そんなことはしたらいけないぞ。恐ろしい光景が見えるかもしれないし、もし何も見えなかったら・・・。入口に書いてあった指示をひたすら守るしかない。他に何の選択肢もなく、したがって何の迷いもない。こんなことは人生において珍しいことと言うほかない。御戒壇巡りは日本各地のお寺であるそうだ。私もだいぶ昔のことだが、善光寺の胎内巡りをしたと記憶する。でも、大勢の観光客ないし信者が他にもいたせいだろうか、真っ暗のなかに取り残されているという感じは持たなかったのではないか。記憶がおぼろではっきりしないけれど。それに比べて今回は闇というものをひどく実感したのは確かである。真っ暗の中にいたのは1分か2分か、よく分からない。外へ出てきて改めて掲示を確認すると、熱感知器・光感知器作動中という表示が目に飛び込んできた。あの中で明りをつけたいという誘惑は誰にでも起こるのかもしれない。
 境内を出て、琵琶湖のほうへ向かうゆるやかな参道を下りながらつるやパン店を探すが見つからない。JRの線路の所まで来ると踏切の向こうにスーパー平和堂の看板が見える。ひょっとしてあの辺りが商店街で、そこにあるのかもと思ったが、そこまで行って戻ってくるには時間が少し足りなさそうである。走るのはしんどくて辛い。それでパンはあきらめ、駅に戻った。15時25分木ノ本発、近江塩津乗り換え、16時43分比叡山坂本着で帰宅。そのあとグーグル地図で調べたら、パン屋さんはなんと木ノ本地蔵のすぐ横、境内を出て数件左にあった。私は、まっすぐ参道のほうしか見ていなかったので見落としていた。それからさらに、である。つるやパン店は長浜にも店舗を出していて、場所はなんと長濱浪漫ビールのすぐ裏手、東側の道を挟んだ向かい側である。これにて、次回からはおいしいビールとパンをいっぺんに手に入れられることが確実であると判明。さて、その次回の琵琶湖一周ないし半周の遠出だが、桜の咲く頃になるのか、新緑の頃か、猛暑の夏か!、はたまた紅葉の季節か。まったく私の気分次第で出かけるのみ。

NHK「ニュースウオッチ9」問題

 菅首相の長男が勤める放送関連会社「東北新社」から高額な接待を受けて批判を浴びていた山田真貴子内閣広報官が辞職することになった。山田氏は体調不良で診察を受け、2週間程度の入院加療を要するとの診断により入院。参考人として呼ばれていた3月1日の衆院予算委員会を欠席した。山田氏といえば、今回の接待問題以前に、NHKに対して電話で圧力をかけたのではないかという疑惑によって有名になっていた人物。参考人として出席した2月25日の衆院予算委員会ではその疑惑を否定している。
 事の起こりは昨年10月26日のNHK「ニュースウオッチ9」に生出演した菅首相が学術会議会員任命拒否問題で質問を重ねる有馬キャスターに腹を立て、「説明できることと、説明できないことがある」と居直った一件。後日山田広報官がNHKに電話し、「あんなに突っ込むなんて、事前の打ち合わせと違う」「総理、怒っていますよ」と抗議したと、一部週刊誌が報道した。これを受けて11月25日の衆院予算委員会立憲民主党の大西議員が、キャスターはごく当たり前のことを訊いただけなのになぜ怒ったのかと菅首相に質問。菅首相は「私は怒ったこともありません。山田広報官に指示したこともありません」「私はその辺のことの常識は持ってます」「山田広報官が電話したというのは、週刊誌か何かですか? 私は承知しておりません」と答えた。
 さらに12月に入って「朝日新聞」がこの番組について坂井官房副長官の次のような発言を本人に確認したうえで報道した。「首相への出演依頼が所信表明についてだったのに、番組内では学術会議(問題)への質問が多かった。約束は守ってほしかった」「もし、出演依頼をする部署と番組制作をする部署が連携できていなかったとすると、ガバナンスが利いていないのではないか」。坂井氏は「報道を規制すべきだという趣旨では全くない」とも述べているけれど、国民の多くが関心を持っている事柄について政権担当者にキャスターが独自の判断で質問するのを政府として認めないなどという考えはれっきとした報道規制の思想なのではないかと私は思う。報道番組は脚本どおりに、それも上層部の書いた脚本どおりに進行するドラマではないのだから。
 以上のような報道が人々の関心を引き、官邸の意向を忖度したNHK上層部は有馬キャスターを「ニュースウオッチ9」からはずすのではないかという憶測が飛び交うなかで2月10日NHKの人事異動が発表され、案の定と言うべきか、有馬氏はキャスター降板ということになった。ついでにと言ったら語弊があるかもしれないが、「クローズアップ現代+」の武田アナが大阪転勤となり、番組を降りる。これも、1月19日の当番組で自民党の二階幹事長にインタビューした際に新型コロナについて「政府の対策は十分なのか。さらに手を打つことがあるとすれば何が必要か」と質問し、二階氏から「いちいちそんなケチをつけるもんじゃないですよ」と凄まれたという経緯が関係しているのではないかと囁かれている。
 NHKは今回の異動は当初の予定どおりだと言うだろうし、政権への忖度などはありえないと言っている(「週刊文春」への回答)。そりゃそうだろう。はい、忖度しましたと言うわけはない。いやいや、ここは懐疑的にならず、好意的に解釈することも可能である。当初の予定どおりの人事異動であって、番組でのやり取りとは無関係であると。NHK関係者に取材して情報を得ている週刊誌の記者ならいざ知らず、そうでない私たちとしてはそのあたりは判断しづらい。では、何をどう判断すればよいのか。よく分からないので考えません、という思考停止には陥りたくない。そういう場合には魑魅魍魎の跋扈する現実世界から離れ、想像世界において単純かつまともな考え方を模索するのも一興。
 まず、自分がNHK上層部の人間であると想像してみる。そして、今回の人事異動は当初からの予定であって、官邸への遠慮や配慮とは一切無関係であると想像してみる。内閣広報官からの抗議電話もなかった。忖度をうんぬんされ、痛くもない腹を探られるのはとても残念で悔しい。なんとかしてそのような疑いを晴らしたい。よい方法はないものか。とまあ、このように腐心するわけである。すると、ひとつきわめて効果的な方法があることに思い至る。当初の予定を変更して有馬キャスターも武田アナも続投。これである。これしかないだろう。これで週刊誌の記事がでたらめであったことも暴けるし、NHKが独立した報道機関としての気概を失っていないことも示せる。私ならそう考えるところだ。・・・でも、そうはしなかった。なんでかな?やっぱり、ですか?
 次に、おこがましいけれど自分が首相であると想像してみる。「山田広報官が電話したというのは、週刊誌か何かですか? 私は承知しておりません」なんてあいまいな答弁はしない。電話したかしなかったかを広報官に直接問いただす。したということならば、厳しく注意をし、その旨を公にする。首相が報道機関に注文を付けたり、ましてや圧力をかけるなどはあってはならないことで、たとえ私自身の知らないことであったにせよ部下がそのようなことをしたのは私の責任であり、申し訳ない、と謝るのである。では、電話していないと確認できた場合はどうするか。怒りをあらわにする。首相が報道機関に注文を付けたり、ましてや圧力をかけるなどがあってはならないという考えは自分のみならず官邸全体の基本的な信念である。その信念が歪められたかのごとき偽の報道がされ、私があたかも強権弾圧の政治家であるかのように言われることは許しがたい。ここで「責任者出てこい!」と人生幸朗ばりに叫んでもよいかもしれない。さらに続けて、私も血のかよった人間であるから、生出演したテレビで訊かれたくないことを訊かれムッとすることもあるかもしれない。だからといって、質問したキャスターを悪く思ったりはしない。むしろ、政治家の胸中を忖度しておべっかを使うような人間よりズバリ質問をぶつけてくる人間が必要なのだ。今後も報道の皆さんには忌憚のない意見を述べていただきたいし、私も率直に対応していきたい。とまあ、これが首相になったと想像した私。なにか、三谷幸喜の映画『記憶にございません!』みたいになってしまった。
 現実世界に戻ってみよう。2月25日の衆院予算委員会での山田内閣広報官の発言は以下のとおり。
NHKへの抗議電話をしたかどうか→「総理のNHK番組出演に関して、番組出演後、電話を行ったことはない」(「電話を行う」の意味不明、筆者)
NHKの記者、職員などNHK関連の方に電話したことはないか→「私の方でたまたま残っていた通話履歴をみたところ、NHK関係者に発信したという履歴はなかった」
携帯以外の方法でNHK関係者に伝えたことはなかったか→「通告いただいてないので、確認してみたいと思うが、その日に直接NHKに出向いて誰かと話をするとか、そういったことはなかったと思う。メールも送った覚えはない」
 どこかにあいまいさを残したしゃべり方である。何げなしに限定的条件を設定したうえでの否定。最後に「メールだけでなくSNSなど、いろんな伝達手段がある。あらゆる伝達手段を含めて、NHK関係者、記者、職員含めて伝えたことがあるか、文書で提出してもらえるか」と求められ、山田氏は「なかなか難しいが、ちょっと検討してみる。連絡を取っていないと考えているが、いずれにしても考えてみたい」と答えた。しかし、体調不良、入院、辞職と来たからには考えてみる必要もなくなり、これで幕引きになるのだろう。

 

1964年東京オリンピック追想

 前回の東京オリンピックは1964年10月10日から2週間にわたって開かれた。私にとっては他のどのオリンピックよりも印象深い。というより、別格のオリンピック、たんなるスポーツの祭典にとどまらない出来事であったと言うべきものかもしれない。先日、その時に作成された映画『東京オリンピック』を見た。前に見たのは高校生の時。半世紀以上も昔のことである。学校全員で映画館に出かけて見た。今回、見直してみたら、記憶がよみがえって来て、とてもなつかしかった。以下、断片的な追想を少々。

◆男子100メートルと女子80メートルハードル
 この映画ではすべての競技が撮影されているが、最多の映像は陸上競技砲丸投げ選手の試技前の神経質なしぐさや表情などがうまく捉えられていて面白い。砲丸投げは瞬間的に勝負が決まる競技。体を始動して砲丸を投げ終えるまでに必要な時間は2秒くらいではないか。100メートル10秒よりずっと短い。選手が過剰なほど神経質になるのも無理はない。

 私がよく覚えている陸上選手は100メートルのボブ・ヘイズとマラソンアベベ・ビキラ。体つきも全く対照的で、筋肉モリモリのヘイズとスラリ痩身のアベベ。決勝でのヘイズのタイムは10秒0で世界タイ記録。東京大会ではまだ手動計時をやっていたとばかり思いこんでいたが、私の記憶違いみたいである。東京大会陸上100メートル競走の計時方法について「日本時計学会誌」NO.150(1994)に次のような説明が出ている。【計測はスターターのそばにセットされたマイクロホンがスタート用ピストルの「バーン!」という音をキャッチして電気信号に変換し、クオーツ時計によるタイマー部へ送られる。ゴールはゴールラインに向けてピッタリとセットした写真判定用カメラがとらえる。そしてタイマーからの100分の1秒ごとの信号が刻まれたフィルムに選手のゴールの姿が写し込まれる。そのフィルムにより審判員が着順とタイムを確認する。】これで見ると、100分の1秒までの計測が可能であったはずなのだが、まだ機械の正確さが信用されるまでに至らなかったのか、記録としては10分の1秒までしか残っていない。
 日本選手で記憶に残っているのはやはり一番短い距離と長い距離、100メートルの飯島秀雄とマラソン円谷幸吉。飯島は決勝に進めず、この映画には写っていない。後にプロ野球に入った時はみんなびっくりするやらあきれるやら。走塁専門といえどもただ足が速いだけでプロ野球の選手になれるわけがない、まっすぐ100メートル走るのと盗塁とは似て非なるものだという嘲笑に近い意見が多かった。そして、その意見の正しいことが結局証明されてしまうのである。ヘイズはアメリカンフットボールのプレイヤーとして活躍したが。
 陸上でもう一人印象に残っているのが80メートルハードルの依田郁子。この人はメダルも期待されていたが、競技前に逆立ちとかいろんな目立つ動きをするのでも有名。そして、おでことか首筋とかにメンソレかサロメチールだったか、とにかくその種のものをべったり塗って競技に臨む。この時の決勝でも同様。さらに、口笛を吹いているところ、箒で自分のコースを掃いているところが映し出される。よほど神経質なのか。いや、現在の全天候トラックではない昔のアンツーカーのトラックなら箒で整地するのも一理あるかもしれない。それともやはり一種の精神統一の儀式だったのか。決勝の結果は5着。スタートよく2台目のハードルまでは多分トップであったが、3台目で追いつかれ、4台目で抜かれ、そのあと何とか持ちこたえての5着。
 この種目で優勝したのはドイツのバルツァーという選手。東西ドイツが統一チームとして夏のオリンピックに参加したのはこれが3回目で最後。表彰式でベートーベンの第9が流されていたのが印象的。

◆女子バレーボール
 女子バレーこそ、おそらく最も多くの日本人が期待し、応援した競技ではないか。監督は日紡貝塚で鬼の大松といわれた大松博文。選手もほぼ日紡貝塚の選手で編成された日本代表チームで、「東洋の魔女」なんて異名がつけられていた。河西主将、半田、宮本などの名前は今でも憶えている。映像で気づいたのは、選手たちの体格が意外と華奢であって、背もそれほど高くないということ。とくに宮本選手は体躯も細いし腕もほんとうに細い。サウスポーのアタッカー、強打の宮本というイメージとはまったく違っていた。よくぞまあ、この腕であのスパイクが打てたものと感心するほかない。
 この試合によほど感激したのだろう。私は大松監督の著書(彼が本当に書いたものかどうかは分からないが)を買って読んだものである。大松氏はその後参議院議員を1期務めた。2期目の選挙の時、たぶん票集めなのだろう、スポーツ用品店に入っていく大松氏を岡山で見かけたことがある。あの大監督がなんでこんなことをせんとあかんのかといぶかしく思った。そして落選。その後は何をされていたのか知らないが、50代で亡くなった。この人の人生は東京オリンピックで終わっていたのかもしれない(誤解であればごめんなさい)。

◆マラソン
 マラソンと書いたが、当時、女子マラソン競技はまだなかったのでマラソンといえば男子マラソンのこと。女性が42キロメートルを走れるなどとは99パーセントの人が考えつかなかった時代。もっとも、古から連綿と続く女性の運動能力に対する偏見は他の競技でも同じであって、当時は柔道でもレスリングでも女子種目はなかった。
 この時のマラソンは結局アベベで始まり、アベベに終わったと言えよう。4年前のローマオリンピックで優勝した時は裸足で走り、裸足の英雄と称えられたが、この東京では靴を履いていた。その白い靴がスッスッと前に出る様子が映し出される。とてもなめらか。強い。他の選手とは次元の違う走り。他の選手は、人間がきつい練習を積み重ねて42キロに挑戦しているという感じなのに、この人は努力とか鍛錬とか汗とかの痕跡を漂わせていない。実際はその逆で、人一倍トレーニングしてきたはずである。でも、それを感じさせない。走る姿は神秘的でさえある。実況アナウンサーの「超人アベベ」という形容でもまだ言い足りないと思った。
 円谷幸吉は折り返し点では5位か6位だったが、国立競技場へは2位で戻って来て、10メートルほど後ろにはイギリスのヒートリーが迫っている。観衆も総立ちの声援を送る。しかし、彼には余力がなかった。それはレース途中の映像でも見て取れる。円谷は父親から絶対後ろを振り向くなと教え込まれ、この時も後ろを振り向かずヒートリーに気づかなかった。もし後ろを振り向いていたらそれなりのトラック勝負の仕方があり、銀メダルもありえたのではという仮説があるそうだが、この映像で見る限りそれは不可能というしかない。この時、ほんとうに円谷の体力は限界に達していた。そして4年後には気力も尽き果てることになる。

◆柔道
 当時は男子のみの4階級。軽量級、中量級、重量級とすべて日本が金メダルを取った後の無差別級。決勝は神永対オランダのヘーシンク。しかし、雰囲気は日本柔道対ヘーシンク。これで敗れることは日本柔道の敗北!とみんなが考えていたかどうかわからないが、無差別級で勝たないことには柔道日本などと威張れたものではないし、本家本元としては勝たなければならないと多分誰もが思っていたはず。でも、ヘーシンクがとてつもなく強いことはみんな知っていた。神永を応援する気持ちの半分以上は願望。大会前には神永と猪熊のどちらをヘーシンクにぶつけるかで柔道陣首脳部は悩んだそうだが、これも所詮ヘーシンクの強さを認めていたからに他ならない。どちらがヘーシンクに勝てる確率が高いかで選ばれたのは神永。猪熊は重量級に回った。
 ふた回りも大柄な相手に神永はよく戦ったとしか言いようがない。ヘーシンクはたんに大きいというだけではない。大きいだけなら重量級決勝で猪熊が破った(優勢勝ちではあったが)相手もそうであったし、何とか打つ手はある。しかし、ヘーシンクは柔道を極めた柔道家。神永が彼に勝てると予想した人は日本人のなかにも果たして何人いたやら。果敢に技をかけていった神永であるが、つぶされて押さえ込まれ万事休す。あの時テレビを見ていた私は、30秒押さえ込まれた後、一瞬の間をおいて身を起こし、正座して柔道着をなおす神永の姿になぜかホッとし、納得した。多分、多くの人が同じ思いだったのではないか。

◆体操
 体操はレスリング、柔道と並び活躍が期待された種目。事実その通りの成績を上げた。日本選手団のキャプテンであり、開会式で選手宣誓もした小野選手は跳馬や鞍馬でも活躍したが、なんといっても「鬼に金棒・小野に鉄棒」と称賛された鉄棒の名手であり、メルボルン、ローマと2大会連続で鉄棒の金メダリスト。しかし、東京大会では全盛期を過ぎていて、肩かどこかを痛めていて、団体のみの優勝に終わり、個人種目でのメダル獲得はならなかった。私はそれ以前、小学生だったか中学生だった時にこの人の鉄棒演技を実際に見たことがある。どういう位置づけの催し物であったのか定かでないが、京都の円山野外音楽堂で著名な体操選手によるエキジビションがあり、それを見たのである。そのせいか、体操選手といえば今でも小野喬。
 映画を見て意外だったのは体操競技の優雅さである。チャスラフスカなんてまるでバレリーナ平均台の上で一瞬静止するポーズのなんと気品にあふれていることか。優雅なのは彼女だけではない。他の女子選手もそうだし、男子選手の演技だって負けず劣らず芸術的である。スローモーションを多用した画面構成のせいもあるかもしれないにせよ、体操は優美でなければならないと考えさせられた。

 

 この映画『東京オリンピック』は試写会で河野オリンピック担当大臣が「俺にはちっともわからん」「記録性をまったく無視したひどい映画」と批判し、愛知文部大臣も「文部省として、この映画を記録映画としては推薦できない」という声明を出し、市川崑監督が試写版に日本人金メダリストなどの映像を追加してやっと公開に至ったという、いわくつきのものである。しかし私は、昔見た時におかしな映画だとは思わなかったし、今回見直しても、ケチをつけられるような映画ではないと思った。ボクシングの金メダリストの名前が全階級にわたって文字で流されるなどが、記録性を重視して、おそらく後で付け加えられた部分なのだろう。このあたりには映画全体の意図からのずれを感じる。
 それにしても。オリンピックをめぐっては、最近、楽しい話題がないので、輝いていた1964年東京オリンピックの思い出を手繰り寄せようかとこの映画を見直したのであるけれど、手繰り寄せた思い出は必ずしも楽しいものばかりではなかった。オリンピックを一つの大きな契機として経済復興もますます軌道に乗りそうだし、日本の獲得した16個の金メダル(米国、ソ連に次いで3位!)によって国家的威信と国民的自信も取り戻せそうだし、日本の未来は明るいと多くの人たちが希望を抱いていたあの頃。でも、選手たちの未来はどうだったのだろう。オリンピックで活躍したことや注目されたことがその後の幸福な人生を保証してくれるとは限らない。自ら命を絶ったのは円谷幸吉だけではない。依田郁子も猪熊功もである。この2人の死の原因はオリンピックと無関係であるにしても、オリンピックでの活躍が彼らの人生を支えてくれなかったことは確かである。大松博文参議院議員になったのはよかったのか? 飯島秀雄がロッテに入団したのはよかったのか? アントン・ヘーシンクがプロレスラーになったのはよかったのか? 東京オリンピック、栄光と挫折の始まり!光と影の祭典!