1964年東京オリンピック追想

 前回の東京オリンピックは1964年10月10日から2週間にわたって開かれた。私にとっては他のどのオリンピックよりも印象深い。というより、別格のオリンピック、たんなるスポーツの祭典にとどまらない出来事であったと言うべきものかもしれない。先日、その時に作成された映画『東京オリンピック』を見た。前に見たのは高校生の時。半世紀以上も昔のことである。学校全員で映画館に出かけて見た。今回、見直してみたら、記憶がよみがえって来て、とてもなつかしかった。以下、断片的な追想を少々。

◆男子100メートルと女子80メートルハードル
 この映画ではすべての競技が撮影されているが、最多の映像は陸上競技砲丸投げ選手の試技前の神経質なしぐさや表情などがうまく捉えられていて面白い。砲丸投げは瞬間的に勝負が決まる競技。体を始動して砲丸を投げ終えるまでに必要な時間は2秒くらいではないか。100メートル10秒よりずっと短い。選手が過剰なほど神経質になるのも無理はない。

 私がよく覚えている陸上選手は100メートルのボブ・ヘイズとマラソンアベベ・ビキラ。体つきも全く対照的で、筋肉モリモリのヘイズとスラリ痩身のアベベ。決勝でのヘイズのタイムは10秒0で世界タイ記録。東京大会ではまだ手動計時をやっていたとばかり思いこんでいたが、私の記憶違いみたいである。東京大会陸上100メートル競走の計時方法について「日本時計学会誌」NO.150(1994)に次のような説明が出ている。【計測はスターターのそばにセットされたマイクロホンがスタート用ピストルの「バーン!」という音をキャッチして電気信号に変換し、クオーツ時計によるタイマー部へ送られる。ゴールはゴールラインに向けてピッタリとセットした写真判定用カメラがとらえる。そしてタイマーからの100分の1秒ごとの信号が刻まれたフィルムに選手のゴールの姿が写し込まれる。そのフィルムにより審判員が着順とタイムを確認する。】これで見ると、100分の1秒までの計測が可能であったはずなのだが、まだ機械の正確さが信用されるまでに至らなかったのか、記録としては10分の1秒までしか残っていない。
 日本選手で記憶に残っているのはやはり一番短い距離と長い距離、100メートルの飯島秀雄とマラソン円谷幸吉。飯島は決勝に進めず、この映画には写っていない。後にプロ野球に入った時はみんなびっくりするやらあきれるやら。走塁専門といえどもただ足が速いだけでプロ野球の選手になれるわけがない、まっすぐ100メートル走るのと盗塁とは似て非なるものだという嘲笑に近い意見が多かった。そして、その意見の正しいことが結局証明されてしまうのである。ヘイズはアメリカンフットボールのプレイヤーとして活躍したが。
 陸上でもう一人印象に残っているのが80メートルハードルの依田郁子。この人はメダルも期待されていたが、競技前に逆立ちとかいろんな目立つ動きをするのでも有名。そして、おでことか首筋とかにメンソレかサロメチールだったか、とにかくその種のものをべったり塗って競技に臨む。この時の決勝でも同様。さらに、口笛を吹いているところ、箒で自分のコースを掃いているところが映し出される。よほど神経質なのか。いや、現在の全天候トラックではない昔のアンツーカーのトラックなら箒で整地するのも一理あるかもしれない。それともやはり一種の精神統一の儀式だったのか。決勝の結果は5着。スタートよく2台目のハードルまでは多分トップであったが、3台目で追いつかれ、4台目で抜かれ、そのあと何とか持ちこたえての5着。
 この種目で優勝したのはドイツのバルツァーという選手。東西ドイツが統一チームとして夏のオリンピックに参加したのはこれが3回目で最後。表彰式でベートーベンの第9が流されていたのが印象的。

◆女子バレーボール
 女子バレーこそ、おそらく最も多くの日本人が期待し、応援した競技ではないか。監督は日紡貝塚で鬼の大松といわれた大松博文。選手もほぼ日紡貝塚の選手で編成された日本代表チームで、「東洋の魔女」なんて異名がつけられていた。河西主将、半田、宮本などの名前は今でも憶えている。映像で気づいたのは、選手たちの体格が意外と華奢であって、背もそれほど高くないということ。とくに宮本選手は体躯も細いし腕もほんとうに細い。サウスポーのアタッカー、強打の宮本というイメージとはまったく違っていた。よくぞまあ、この腕であのスパイクが打てたものと感心するほかない。
 この試合によほど感激したのだろう。私は大松監督の著書(彼が本当に書いたものかどうかは分からないが)を買って読んだものである。大松氏はその後参議院議員を1期務めた。2期目の選挙の時、たぶん票集めなのだろう、スポーツ用品店に入っていく大松氏を岡山で見かけたことがある。あの大監督がなんでこんなことをせんとあかんのかといぶかしく思った。そして落選。その後は何をされていたのか知らないが、50代で亡くなった。この人の人生は東京オリンピックで終わっていたのかもしれない(誤解であればごめんなさい)。

◆マラソン
 マラソンと書いたが、当時、女子マラソン競技はまだなかったのでマラソンといえば男子マラソンのこと。女性が42キロメートルを走れるなどとは99パーセントの人が考えつかなかった時代。もっとも、古から連綿と続く女性の運動能力に対する偏見は他の競技でも同じであって、当時は柔道でもレスリングでも女子種目はなかった。
 この時のマラソンは結局アベベで始まり、アベベに終わったと言えよう。4年前のローマオリンピックで優勝した時は裸足で走り、裸足の英雄と称えられたが、この東京では靴を履いていた。その白い靴がスッスッと前に出る様子が映し出される。とてもなめらか。強い。他の選手とは次元の違う走り。他の選手は、人間がきつい練習を積み重ねて42キロに挑戦しているという感じなのに、この人は努力とか鍛錬とか汗とかの痕跡を漂わせていない。実際はその逆で、人一倍トレーニングしてきたはずである。でも、それを感じさせない。走る姿は神秘的でさえある。実況アナウンサーの「超人アベベ」という形容でもまだ言い足りないと思った。
 円谷幸吉は折り返し点では5位か6位だったが、国立競技場へは2位で戻って来て、10メートルほど後ろにはイギリスのヒートリーが迫っている。観衆も総立ちの声援を送る。しかし、彼には余力がなかった。それはレース途中の映像でも見て取れる。円谷は父親から絶対後ろを振り向くなと教え込まれ、この時も後ろを振り向かずヒートリーに気づかなかった。もし後ろを振り向いていたらそれなりのトラック勝負の仕方があり、銀メダルもありえたのではという仮説があるそうだが、この映像で見る限りそれは不可能というしかない。この時、ほんとうに円谷の体力は限界に達していた。そして4年後には気力も尽き果てることになる。

◆柔道
 当時は男子のみの4階級。軽量級、中量級、重量級とすべて日本が金メダルを取った後の無差別級。決勝は神永対オランダのヘーシンク。しかし、雰囲気は日本柔道対ヘーシンク。これで敗れることは日本柔道の敗北!とみんなが考えていたかどうかわからないが、無差別級で勝たないことには柔道日本などと威張れたものではないし、本家本元としては勝たなければならないと多分誰もが思っていたはず。でも、ヘーシンクがとてつもなく強いことはみんな知っていた。神永を応援する気持ちの半分以上は願望。大会前には神永と猪熊のどちらをヘーシンクにぶつけるかで柔道陣首脳部は悩んだそうだが、これも所詮ヘーシンクの強さを認めていたからに他ならない。どちらがヘーシンクに勝てる確率が高いかで選ばれたのは神永。猪熊は重量級に回った。
 ふた回りも大柄な相手に神永はよく戦ったとしか言いようがない。ヘーシンクはたんに大きいというだけではない。大きいだけなら重量級決勝で猪熊が破った(優勢勝ちではあったが)相手もそうであったし、何とか打つ手はある。しかし、ヘーシンクは柔道を極めた柔道家。神永が彼に勝てると予想した人は日本人のなかにも果たして何人いたやら。果敢に技をかけていった神永であるが、つぶされて押さえ込まれ万事休す。あの時テレビを見ていた私は、30秒押さえ込まれた後、一瞬の間をおいて身を起こし、正座して柔道着をなおす神永の姿になぜかホッとし、納得した。多分、多くの人が同じ思いだったのではないか。

◆体操
 体操はレスリング、柔道と並び活躍が期待された種目。事実その通りの成績を上げた。日本選手団のキャプテンであり、開会式で選手宣誓もした小野選手は跳馬や鞍馬でも活躍したが、なんといっても「鬼に金棒・小野に鉄棒」と称賛された鉄棒の名手であり、メルボルン、ローマと2大会連続で鉄棒の金メダリスト。しかし、東京大会では全盛期を過ぎていて、肩かどこかを痛めていて、団体のみの優勝に終わり、個人種目でのメダル獲得はならなかった。私はそれ以前、小学生だったか中学生だった時にこの人の鉄棒演技を実際に見たことがある。どういう位置づけの催し物であったのか定かでないが、京都の円山野外音楽堂で著名な体操選手によるエキジビションがあり、それを見たのである。そのせいか、体操選手といえば今でも小野喬。
 映画を見て意外だったのは体操競技の優雅さである。チャスラフスカなんてまるでバレリーナ平均台の上で一瞬静止するポーズのなんと気品にあふれていることか。優雅なのは彼女だけではない。他の女子選手もそうだし、男子選手の演技だって負けず劣らず芸術的である。スローモーションを多用した画面構成のせいもあるかもしれないにせよ、体操は優美でなければならないと考えさせられた。

 

 この映画『東京オリンピック』は試写会で河野オリンピック担当大臣が「俺にはちっともわからん」「記録性をまったく無視したひどい映画」と批判し、愛知文部大臣も「文部省として、この映画を記録映画としては推薦できない」という声明を出し、市川崑監督が試写版に日本人金メダリストなどの映像を追加してやっと公開に至ったという、いわくつきのものである。しかし私は、昔見た時におかしな映画だとは思わなかったし、今回見直しても、ケチをつけられるような映画ではないと思った。ボクシングの金メダリストの名前が全階級にわたって文字で流されるなどが、記録性を重視して、おそらく後で付け加えられた部分なのだろう。このあたりには映画全体の意図からのずれを感じる。
 それにしても。オリンピックをめぐっては、最近、楽しい話題がないので、輝いていた1964年東京オリンピックの思い出を手繰り寄せようかとこの映画を見直したのであるけれど、手繰り寄せた思い出は必ずしも楽しいものばかりではなかった。オリンピックを一つの大きな契機として経済復興もますます軌道に乗りそうだし、日本の獲得した16個の金メダル(米国、ソ連に次いで3位!)によって国家的威信と国民的自信も取り戻せそうだし、日本の未来は明るいと多くの人たちが希望を抱いていたあの頃。でも、選手たちの未来はどうだったのだろう。オリンピックで活躍したことや注目されたことがその後の幸福な人生を保証してくれるとは限らない。自ら命を絶ったのは円谷幸吉だけではない。依田郁子も猪熊功もである。この2人の死の原因はオリンピックと無関係であるにしても、オリンピックでの活躍が彼らの人生を支えてくれなかったことは確かである。大松博文参議院議員になったのはよかったのか? 飯島秀雄がロッテに入団したのはよかったのか? アントン・ヘーシンクがプロレスラーになったのはよかったのか? 東京オリンピック、栄光と挫折の始まり!光と影の祭典!