オリンピック中止とアスリートの心情

 瀬古利彦さんが「スポーツ報知」の取材に応じ、今回のオリンピックに向けた選手の思いを、かつてのモスクワオリンピックに出られなかった自分の心情と重ね合わせて代弁している。
「僕たちは皆、出たかった。それを政治の力、“オトナの都合”で、理不尽にね…。走って負けたら悔いは残らない。でも、走らず負けるのは悔いが残る。そして年々、悔しさは増すんですよ。だから今が一番、悔しい。二度と選手をこんな目に遭わせたくはないね。」
「当時は『五輪に行かせてくれ』というのは、最後の最後で柔道の山下君たちが言いに行ったけど、それまでは言ったらいけない感じだった。今も同じですよ。『五輪やらせて』って言っちゃいけない雰囲気になっている。(41年前の)“二の舞い”になるんじゃないか、って考えてしまう。」
「選手たちは走るのが仕事。仕事を奪われることほどつらいことはないから、許されるなら五輪をやらせてあげたいと思うよね。今まで一度もスポーツを見て元気をもらったことがない、って人はなかなかいないんじゃないか。苦難を乗り越えて勇気づけるスポーツの力が、免疫力を上げる“心のワクチン”のようになればいい。」
 あのオリンピックボイコット騒動の被害者であり、現在は日本陸上界の指導的地位にある瀬古さんほどの人物(何より素晴らしいマラソンランナーだった)の発言はそれなりの重みがあって、尊重したいと思うし、揚げ足取りをするつもりはないけれど、何か論点がずれているような気がしてならない。モスクワオリンピックボイコット騒動と今回のオリンピック中止に向けた動きとは全く異なる性質のものであって、同じ次元で論じることが無理なのではなかろうか。
 1979年のソ連によるアフガニスタンへの武力介入に抗議するという名目で米国が呼びかけ、日本を含む多くの国が同調したのが1980年モスクワオリンピックのボイコット。背景には東西冷戦対立があって、次の1984ロサンゼルスオリンピックソ連など東側諸国がボイコットし、この2大会は政治がスポーツを支配することの典型的な実例としてオリンピック史上に名を残すこととなった。モスクワで金メダル確実と見られていたレスリングの高田選手が涙ながらに参加を訴える姿は多くの人々の心を揺さぶった。誰しもが政治論理の冷酷非情を感じたし、高田や山下や瀬古がオリンピックに出られないことの不条理を、これは大げさでなく我が事のように嘆いた。
 では、今回は。今回の障害は政治でなく新型コロナ。すなわち悪者は人間ではなくウイルス。政治という人間の営みが原因でオリンピックに出るべき人が出られなくなるのは不条理以外の何物でもないが、ウイルスが原因となれば、これは災害である。語弊を招く言い方かもしれないが、災害なら諦めもつきやすい。もちろん、災害でなら出られなくなる選手の悔しさが小さくなるなどと言うつもりはない。政治原因であろうがウイルス原因であろうがオリンピック出場を断念せざるを得ない無念に大小があるとは思わない。その点で41年前の瀬古選手の悔しさは現在にも通じるものである。しかし、である。しかし、やっぱり何かが違うのではないか、それも本質的な何かが。41年前は政治の暴力にスポーツが屈してしまった。言い換えれば人間が人間に屈したのである。今回は違う。人間以外の生物と人間が戦っている最中であって、その戦いの一環としてオリンピック中止が求められているのである。道理なき不参加と道理ある不参加。この決定的な違いを無視して選手の心情だけを問題にしても話は進まないのではないか。
 さらに踏み込んで選手の心情ということを問題にするならば、今回は、選手たちの心がオリンピックでプレーしたいという思い一色で満たされているとは考えられない。アスリートも一市民である。一市民として立ち止まり、考えてみると、オリンピック強行開催はあまりにも多くの問題を抱えているのではないのかという思いにとらわれたりもするのではないか。世論調査で示されているような開催中止に傾いている多数の日本人の心を選手たちが共有しないはずがなかろうと私は思うのだけれど、どうだろう。もちろん、だからといって選手がオリンピックを中止すべきだと公言するわけにはいかない。オリンピックに出たくないオリンピック選手などあり得ない。かくして、選手の心は揺れ動き、ジレンマに立たされる。自分としては開催されるものと考えて精一杯トレーニングに励むだけしかありません、ということぐらいを言うのが関の山である。選手に責任はない。早く中止を決めたほうが選手をジレンマから解放してあげられるのではないだろうか。