「五月雨の降りのこしてや光堂」

 もう2ケ月近く前になるが、平泉に行ってきた。これまでは東京を超えて東北まで足を延ばすことはほとんどなかったのだが、今回はなんとなくちょっと遠出をしてみようかと考え、角館、会津若松と合わせての2泊3日東北物見遊山を計画。平泉は40数年ぶりで2回目の訪問。昔の訪問はまったく記憶にない。平泉についての私のイメージは、奥州藤原氏の栄華と滅亡の地、義経終焉の地、今に残る中尊寺金色堂といったあたりで尽きてしまい、それ以上には出ない。それも、芭蕉の2つの句「五月雨の降りのこしてや光堂」「夏草や兵どもが夢の跡」をとおしての漠としたものでしかなく、およそ歴史的知見とはほど遠い。元々故事来歴といったものに無頓着な私は、今回の訪問でも歴史的好奇心を満たすことは予定外であって、バス停から金色堂へと至る中尊寺の坂道をぶらつき(足の調子が万全でなく、ちょっとしんどかったが)、町なかで千昌夫の公演ポスターを見つけて「北国の春」のメロディーを思い出したり(この人、岩手の出身だった、まだ元気でやっていたのか!)、「一隅を照らす」のポスターを見て中尊寺天台宗のお寺である(比叡山延暦寺の麓、坂本ではこのポスターをあちこちで見かける)ことに気づいたりといった程度の平泉散策であった。むしろ平泉に関して私が前々から少し気になっていたのは「五月雨の降りのこしてや光堂」の句。この句から私が受けるイメージは雨上がりに輝く金色堂であり、それ以外にはない。でも芭蕉は輝く金色堂を見る機会があったのか、芭蕉の時代には既に覆われていたはずなのだが、という点が気になっていた。せっかく平泉に行くのなら、この句について考えるのも一興。どうせなら『おくのほそ道』を全部読むのもまた一興。という次第で、旅行から帰って読み始めた。

中尊寺にある芭蕉

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 『おくのほそ道』を通して読むのはこれが初めて。全文は長いものではないし、古典といっても江戸時代のものであるから文章そのものはほぼ読解可能であって、読みづらさはない。音読するにもぴったり。しかし、先行する漢文や和歌の、あるいは人物や歴史上の知識なくしては理解の行き届かない文のいっぱい詰まった作品であることもまた事実。言い換えれば芭蕉の身につけていた教養を共有することなしに理解できないのが『おくのほそ道』である。そんな教養など現代日本人のほとんどだれも持ち合わせているはずがない。もちろん私も。しかし幸いにも専門家が素人向きに書いてくれている本がたくさんある。今回、以下の3冊に依り、本文と並べて注釈、現代語訳、解説を参照した。
日本古典文学大系岩波書店)46『芭蕉文集』
講談社文庫『おくのほそ道』
角川文庫 新版『おくのほそ道』
 「月日は百代の過客にして」で始まる『おくのほそ道』冒頭の文は、熱いというか切迫したというか、何かに追われるようにして旅に出る芭蕉の思いを伝えてなお余りある。その文中には「白河の関超えんと」「松島の月まづ心にかかりて」と具体的な地名が挙げられており、出立にあたってこの2つの土地がとくに芭蕉の心を惹いていたことがうかがえる。まずは白河の関を超えなくては何も始まらない。白河の関こそが奥州への入り口、本来の旅の始まる所と意識されていたのだろう。芭蕉も、それまではなんとなく不安な気持ちでの旅であったのが、白河についてようやく落ち着いた心構えができたと書いている。「心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ」。
 実際に目にした松島はどうだったか。芭蕉は、日本一の絶景であって、中国の名勝である洞庭・西湖にも引けを取らない、その奥深い美しさにはうっとりとするばかりで美人の顔のようだ、と絶賛している。「松島は扶桑第一の好風にして、およそ洞庭・西湖を恥ぢず。…その気色窅然として美人の顔を粧ふ」。
 この松島と並んで当時の2大歌枕(古来、和歌に読み込まれて有名な土地や景色)であった象潟も旅の目的地として当初から芭蕉の心にかかっていた。同行する曽良を紹介した文のなかで「松島・象潟の眺めともにせんことを喜び」と述べているのもその証しであろう。実際に見た印象も期待にたがわぬものであって、「俤(おもかげ)松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし」と両者対比によって言い表している。しかし芭蕉の感慨にもかかわらず、この象潟は1804年の地震で入り江が隆起して陸となり、現在は大半が水田となっている。無粋ながらグーグル地図で確認すると、ところどころ周囲より少し高く盛り上がった土地に松が生えていて、島であった往時をしのばせるのみ。芭蕉は平泉で「夏草や兵どもが夢の跡」とうたって人間の営みのはかなさを詠嘆したが、自然だって必ずしも永遠の命を保つわけではないことをまさにこの象潟が示している。芭蕉が今によみがえってこれを見たらどんな句を詠んだであろう。
 芭蕉が江戸を出発したのが元禄2年(1689年)3月27日(新暦5月16日)で、4月20日から21日(6月7日、8日)にかけて白河を通りぬけ、仙台、松島を経て平泉を訪れたのは5月13日(6月29日)のこと。この旅程は梅雨の時期にピッタリと重なる。5月1日(6月17日)に飯坂(芭蕉は飯塚と表記)に宿泊した際の描写は旅の難儀をよく伝えていて興味深い。現在なら飯坂温泉でくつろいで旅の疲れをいやし、となるところだが、まったく逆。「…湯に入りて宿を借るに、土座に莚を敷きて、あやしき貧家なり。灯もなければ、囲炉裏の火かげに寝所を設けて臥す。夜に入りて雷鳴り、雨しきりに降りて、臥せる上より漏り、蚤・蚊にせせられて眠らず、持病さへおこりて、消え入るばかりになん」。同行者曾良のこの日のメモには芭蕉発病の記述がないのでこの部分はフィクションだという説もある。そうかもしれない。でも事の真偽は二次的なもの。大事なのは、ここで芭蕉が旅の覚悟を固め、気力を奮い立たせている点だろう。「羇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路に死なん、これ天の命なりと、気力いささかとり直し…」。
 この飯坂に宿泊したその日の日中の見聞が重要なのではないかと私は思う。この日、芭蕉佐藤元治の館跡を訪ね、「涙を落とし」たと、ある。この元治というのは藤原秀衡の家臣であり、源頼朝との戦で討ち死にした人。その息子2人、継信と忠信は義経の忠実な家来として名をはせた武将であり、継信は屋島で、忠信は京都で戦死している。彼らの妻2人は、息子の死を嘆き悲しむ母を慰めるため甲冑に身を包み、兄弟凱旋の姿を見せたという話が伝わっていて、芭蕉は「…ふたりの嫁がしるし、まずあはれなり。女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつるものかなと、袂をぬらしぬ」と書いている。佐藤一族の旧跡を訪れた芭蕉は2回も泣いているわけで、これまた真偽は別として、共感の強さがうかがわれる。さらに、寺に宝物として保管されている義経の刀、弁慶の笈(実際には見なかったらしい)をテーマに「笈も太刀も五月に飾れ紙幟」とうたっている。佐藤一族から義経奥州藤原氏へと至る共感は疑うべくもない。飯坂の記述は平泉への伏線となっている。
 平泉への伏線はもう1つある。仙台から松島への途中、塩竈神社に参詣した芭蕉は、和泉三郎寄進の銘のはいった神灯を見て感慨を覚え、「五百年来の俤(おもかげ)、今目の前に浮かびて、そぞろに珍し。かれは勇義忠孝の士なり。佳名今に至りて慕はずということなし。まことに〈人よく道を勤め、義を守るべし…〉といへり」と和泉三郎を褒めたたえている。この和泉三郎とは藤原秀衡の三男忠衡で、父の遺命を守り、義経に従って戦い、兄泰衡に殺された人物。ここにも芭蕉奥州藤原氏義経に対する共感がはっきり語り出されていると言えよう。
 こうした伏線のうえに平泉の章は成り立っている。白河、松島、象潟のように地名を挙げて告知するのでなく、もっと巧妙なやり方と言えるかもしれない。松島や象潟といった有名な歌枕を目の当たりにして得た充足感とは別種の思いが芭蕉を捉える。「三代の栄耀一睡の中にして」で始まる数行に芭蕉はその思いを込める。人間とはなんと儚いものか、人間の営みのなんと虚しいものか。「笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ」という表現もあながち文学的誇張とばかりは言えまい。芭蕉はほんとうに涙を落としたのかも。
 さて、では五月雨の句について。五月雨(さみだれ)と聞くと現代人は5月の新緑に降りそそぐさわやかな雨だと誤解しないとも限らないし、あるいは、なんとなくそれに近い語感を持ってしまっても不思議ではない。実は私、若い頃、五月雨が梅雨の別名であることを知らずに「五月雨の降りのこしてや光堂」の句を解釈していた。5月の雨がひとしきり降り、それが上がったさわやかな新緑の中で金色堂がひときわ色鮮やかに光り輝いている、などと。さらに無知ついでなことに、芭蕉の時代に金色堂が既に覆われていたことも知らず、芭蕉金色堂の輝くさまを一定の距離を置いて若葉越しに実際に見たものと思い込んでいたのである。ついでに言うと、「五月雨をあつめて早し最上川」の五月雨も梅雨とは考えず、一時的に強く降る5月の雨で最上川が急流となって流れているのをうたった句と受け取っていた。
 俳諧・俳句というのは難儀なもので、五七五の一句だけ取り出しても意味はなかなか判然としない。芸能人の俳句を先生が批評添削するテレビ番組があるけれど、そこでも作者はまずどのような風景、どのような気持ちをうたったのかと司会者から聞かれるし、先生はそれを(それも)参考にして貶したり褒めたりしている。これを見ても、やっぱり五七五だけで俳句は完結しないということが分かる。別段それが俳諧・俳句の欠点というわけではなく、俳諧・俳句とはそんなものであると考えておけばよいのではないか。(ちなみにその番組では料理の盛り付けとか、生け花、水彩画なども扱われている)。
 「五月雨の降りのこしてや光堂」の直前に置かれているのは次の文。「七宝散り失せて、珠の扉風に破れ、金(こがね)の柱霜雪に朽ちて、すでに頽廃空虚の叢となるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぎ、しばらく千歳(せんざい)の記念(かたみ)とはなれり」。この仮定部分の長い文章を句に対する説明と見れば、「五月雨」とは、金色堂が建立されて以来500年以上にわたって降り、覆堂がなければ金色堂を朽ちさせたであろう雨であって、ついさっき降ってそして止んだ雨ではないと理解するのが素直である。さらに状況証拠として、最初「五月雨や年々降て五百たび」という句が構想され、それが今ある句に置き換えられたという指摘がなされている。ここまではっきりすれば、ついさっき降ってそして止んだ雨、と解釈するのは逆立ちしても不可能である。したがって、岩波日本古典文学大系芭蕉文集』の解釈は「物皆を腐らすという五月雨も、ここばかりは降り残しているかのごとく、数百年来の風雨を凌いで来て、光堂は燦然と輝いているよ」となる。他の本も同様の解釈で、しごく妥当。

現在の金色堂(は、この中)

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保存されている、かつての覆堂

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でも最後の最後に勝手なことを言わせてもらうと、このイメージ、私は嫌いである。面白くない。五月雨が梅雨であっても構わない。梅雨の合間、雨が上がったひと時、金色堂だけが燦然と輝く、というのは無理な読みなのか。純粋にこの句だけを読めばこれしかないのではないか。なるほど、金色堂は蔽われていて、雨が直接あたることもないし、外から見えることもない。それでも構わない。人間には想像力がある。「五月雨や年々降て五百たび」なんて句に遠慮する必要などない(このあたり、かなり乱暴な議論ですね!)。平泉を訪れ、『おくのほそ道』を読んだ今でも、私のイマジネーションのなかで金色堂は雨上がりに輝いている。