マキャヴェリ『君主論』を再読して

 マキャヴェリ君主論』はだいぶ昔に読んだことがあるが、あまり印象に残っていない。魅力的な思想とは思わなかったのであろう。先日行われた自民党の総裁選などを見ていると、マキャヴェリズムはいまだに生き続けていて、政治の世界ではなおも実践されているのかもしれないという気がする。それで、にわかにマキャヴェリズムに興味が湧き、『君主論』を本棚から引っ張り出して、ページをめくってみた。マキャヴェリマキャヴェリズムとはどんな思想なのか。たんなる権謀術数とは違うのか。現代でも通用するものなのか。いろいろ疑問は湧いてくるが、ともあれ『君主論』に即してマキャヴェリズムを理解しないことには始まらない。
 『君主論』は26章から成り、各章は数ページから10ページ程度の短いもので、全体としてもパンフレットに毛の生えた程度。重厚な思想書を想像すると肩透かしを食らう。論述も簡単明瞭で、言葉の限りを尽くして論証に論証を重ねようといったところはまったくなく、要点だけを述べ、余計なことは言わない。この点はある種の魅力でもある。簡潔すぎて、ときには意味不明の箇所もあるにはある。前半は主に制度としての君主政体を扱い、後半において君主はどうあるべきかという姿勢ないし心構えが論じられる。いわゆるマキャヴェリズムがもっとも明確に示されるのは後半の15章から19章にかけてである。その核となる考え方を取り出すと以下のようになろう。(私が読んだのは河島英昭訳の岩波文庫。以下はその一字一句の正確な引用ではなく、私がかなり自由に言い換えたものであるが、読み違えはしていないと思う)。
◆君主のあり方を論じるには理想論でなく、現実論でなければ役に立たない。人間がいかに生きるべきなのか(理想)と、今いかに生きているか(現実)とのあいだには大きな隔たりがあり、なすべきことを重んじて、現になされていることを軽んじる者(理想主義者)は破滅するしかない。
◆人間は完全に善なる存在になることはできない。気前のよさ、心の広さ、慈悲深さ、忠義、勇敢、丁重、潔癖、律儀、堅固、重厚、信心深さ、などのよき性質ばかりを身につけることも、それを守り抜くことも不可能である。君主がみずからの地位を保持したければ善からぬ者にもなりえるわざを身につけ、必要に応じてそれを使ったり使わなかったりしなければならない。すなわち、ときには、強欲、冷酷、不忠、臆病、傲慢、狡猾、軟弱、軽薄、不信心などの悪徳も必要となる。
◆君主に必要なのは、よき資質のすべてを実際にそなえていることではなく、それらを身につけているかのように見せかけること。外見上、いかにも慈悲深く、いかにも信義を守り、いかにも人間的で、いかにも誠実で、いかにも宗教心に満ちているかのように振る舞わねばならない。大衆はいつでも外見と事の成行きに心を奪われる。
◆過去に偉業を成し遂げた君主は信義などほとんど考慮せず、人間たちの頭脳を狡猾に欺く術を知る者たちであった。
◆戦う手段は2つある。法と力。法は人間に固有のものであり、力は野獣のもの。しかし、法だけでは非常にしばしば不足であるがために、力に訴えねばならない。君主たる者、人間と野獣を巧みに使い分けることが必要である。範とすべき野獣はライオンとキツネであり、この両者でなければならない。ライオンだけでは罠から身を守れないし、キツネだけではオオカミから身を守れない。欺かれないためにキツネの狡知はとりわけ不可欠。
◆人間は邪悪な存在であり、あなたに対して信義など守るはずもないゆえ、あなたのほうだって彼らに対してそれを守る必要はない。これまでも、どれだけの和平が、どれだけの約束が君主たちの不誠実によって虚しく無効とされたことか。しかも、それなりの正当化をこじつけながら。
◆人間というものは非常に愚鈍であり、目先の必要性にすぐ従ってしまうから、欺こうとする者が欺かれる者を見出すのは容易なことである。
◆恐れられることと慕われることとは両立しない。であるならば、恐れられるほうを選ぶべきである。人間というものは恩知らずで移り気で、空とぼけたり隠し立てをしたり、危険があればさっさと逃げ出し、儲けることにかけては貪欲である。恩恵を施してやっても、いざとなれば背を向ける。恩愛は義務の鎖でつながれているので、よこしまな存在である人間は、自分の利害に反すればいつでもこれを断ち切る。恐怖の鎖は容易に断ち切ることはできない。
◆憎まれないことと恐れられることとは両立する。君主は、憎まれることを避けつつ恐れられる存在にならなければならない。市民や臣民の財産と婦女子に手を出さない限り憎まれることはない。必要があって誰かの血を流さねばならないときは、都合のよい正当化と明白な理由を掲げてこれを断行しなければならない。しかし、他人の財産に手を出すことは絶対にしてはならない。人間は、殺された父親のことは忘れても、奪われた財産のことはいつまでも忘れないのだから。
 なるほど、そういうことなのか。人間は愚かで邪悪な存在であるという徹底した人間不信。人間は結局おのれの利益しか考えない。人間は人間に対して誠実を貫きとおすことはありえず、いつか裏切り、どこかで欺く。人間は人間の敵である。それが現実であるのだから、それを前提にしてしか君主の統治のあり方も考えられない。チェーザレ・ボルジアの冷酷さを讃えてマキャヴェリは言う。「君主たる者は・・・冷酷という悪評など意に介してはならない。なぜならば、殺戮と略奪の温床となる無秩序を、過度の慈悲ゆえに、むざむざと放置する者たちよりも、一握りのみせしめの処罰を下すだけで〔秩序が生み出せ〕、彼のほうがはるかに慈悲深い存在になるのだから。なぜならば、無秩序は往々にして住民全体を損なうが、君主によって実施される処断は一部の個人〔だけ〕を害するのが常であるから」。冷酷が慈悲に転化するというこの逆説ははたして正しいのか。私にはそうとは思えない。レトリックに堕しているのではないか。一部の者を殺したり拷問したり牢屋に放り込んだりして得られる秩序がはたして秩序と言えるのか。
 話を急に変えるが、〈The Borgias〉というアメリカのテレビドラマがある。日本語タイトルは『ボルジア家、愛と欲望の教皇一族』となっていて、少し内容に踏み込んでいる(以下は『ボルジア家』と省略)。ドラマの始まりは1492年、ローマ教皇の死にともなって次の教皇を選ぶところ。1492年というのはコロンブスアメリカ大陸に到達した年(「コロンブス、イヨクニ燃えてアメリカ発見」!)であり、また、イスラムの最後の砦グラナダが陥落し、イベリア半島における国土回復運動(レコンキスタ)が終結を見た年としても知られている。それに比べれば有名度と重要度ではぐんと劣るが、ローマでロドリーゴ・ボルジアが教皇アレクサンデル6世として即位した年でもある。そしてドラマの始まる年。
 ニッコロ・マキャヴェリは1492年には23才。数年後にはフィレンツェの書記官に就任し、それ以後外交上の任務を帯びてイタリア各地を飛びまわっただけでなく、フランスへも何回か出かけ、交渉にあたっている。当時のイタリアはミラノ、ヴェネツィアフィレンツェナポリローマ教皇領などに分かれ、それぞれがイタリア半島の覇権を争い、さらに北からはフランスが隙あらばイタリアを我がものにせんと機会をうかがっているという状態。マキャヴェリは後年、政争に巻き込まれて活躍の舞台から引退を余儀なくされた時期に、現役時代の体験と見聞をもとに『君主論』をはじめとする一連の書物を著した。
 『ボルジア家』の主人公は、アレクサンデル6世、その息子チェーザレ・ボルジア、娘ルクレツィアの3人。まずは教皇選挙。候補者のひとりであるスペイン出身の枢機卿ロドリーゴ・ボルジアは、イタリア人から教皇をという雰囲気の中で苦戦を強いられる。それでも金や土地を餌に枢機卿たちを買収し、何回目かの選挙で過半数を獲得する。選挙期間中、枢機卿たちは教皇庁に閉じ込められ外部との接触はできない。どのようにして買収するのか。ロドリーゴ伝書鳩を使って息子チェーザレに指示を与え、枢機卿それぞれが別注した料理が外から搬入されるのを利用して、料理の中に、あなたにはこれこれの領地権を差し上げるなどというメモを忍び込ませるのである。かくして買収は成功し、法王庁の煙突から選挙終結を示す白い煙が上がり、アレクサンデル6世が誕生。チェーザレはといえば、父の指示に従って存分に働く一方で、女性を次々に自宅に連れ込んでは欲望を満たすことにも怠りない。それをニコニコしながら覗き見するのが妹のルクレツィア。あとから「お兄様、また違う人を連れ込んだわね」などと兄をからかう。14才。この人たち、みんな尋常ではない。ドラマの人物としては申し分のないキャラクター。
 以上が第1話で、第2話になると反ボルジアの急先鋒であるオルシーニ枢機卿がボルジア一族抹殺を画策する。教皇枢機卿たちを晩餐に招待し、教皇毒殺を謀るのだが、事前に察知したチェーザレが、オルシーニに雇われた殺し屋を自分の側につけ、逆にオルシーニを毒殺してしまう。この殺し屋ミケロットがまたまた冷酷無比の男で、自分の母親さえ手にかけたことがずっと後で判明する。以後、チェーザレの片腕としてさまざまな殺人を実行することになる。さらには同性愛者でもあり、最後は、情報を得るために利用した相手の男に愛情を抱いてしまい、冷酷さに徹しきれなかった彼は相手を殺すとともに自殺する(はずである。このあたり記憶があいまい。とにかく重要な役どころではある)。毒殺を免れたアレクサンデル教皇のほうは告解に訪れた美女ジュリアを愛人とし、教皇庁からの抜け道を通って毎夜彼女のもとにかよう。反対派の枢機卿たちはこの事実をかぎつけ、淫乱の罪であり教皇罷免理由にあたるとして動くが、証人となるべきジュリアの下女をミケロットに殺され、頓挫する。
 といったふうな調子で第29話まで延々と続くのだが、1話あたり約50分なので、全部でおよそ24時間。29のどの話も面白く、中だるみすることがない。丸一日ぶっ通しで見るエネルギーはなかったが、私は1週間で全部見た。このドラマの見どころを書き始めればきりがなさそうで、今はさて置き、話を『君主論』に戻して、『君主論』の中でのアレクサンデル6世とチェーザレ・ボルジア父子がどう取り扱われているかを見ておきたい。
 まず父親の教皇。「アレクサンデル6世は他のことは何一つせず、また何一つ考えずに、ひたすら人間を欺こうと努めた・・・彼以上に熱烈に断言することの効果を重んじ、熱烈に誓って約束をしながらこれを守らなかった人物は、かつていなかった。にもかかわらず、彼の欺瞞はつねにまんまと成功した。なぜならば、この世の、この面に、長けていたから」(第18章)という記述は貶しているのではない。この前後ではキツネの狡知が必要であるとか、善き資質を実際にそなえていることではなく身につけているかのようにふるまうことが大事であるなどと述べられていて、その実例としてアレクサンデルが挙げられている。つまり、彼は褒められているのである。
 では息子はどうか。これは、もう手放しの称賛である。チェーザレ・ボルジアという名前は繰り返し出て来て、マキャヴェリの彼に対する関心の大きさをうかがわせる。とりわけ第7章においては、彼の行動と戦略と実績が、簡潔を旨とする『君主論』では異例と言ってよいくらいに詳しく述べられている。そして、「他者の軍備や運命によって譲り受けたあの政体のなかで、自分の根っこを張るために、賢明で有能な人物がなすべき一切の事柄を行ない、手だての限りを尽くした」とか、「彼の行動の実例以上に、新しい君主にとってすぐれた規範を示してくれるものを、私は知らない」と称賛を惜しまない。マキャヴェリはまた、軍備に関して傭兵軍や外国の援軍は役に立たず危険であり、自分の軍隊を持つべきであると『君主論』の別の箇所で述べているが、チェーザレが途中ではフランス軍の援助を得たり傭兵軍を使ったりしながらも最終的に自分の軍隊を持つに至ったことを讃えている(第13章)。また、チェーザレが冷酷であるとの評判については、「あの冷酷さによって彼はロマーニャ地方の乱れを繕い、これを統一し、安定と忠誠に導いた」のであり、フィレンツェ人たちが「冷酷の名を逃れようとして、〔その支配下にあった〕ピストイア〔に介入せずに、それ〕を破滅するにまかせた」のに比べれば慈悲の心を持っていたのはチェーザレだとして、冷酷が慈悲に転化するとの、あの逆説を唱えるのである(第17章)。
 ドラマ『ボルジア家』はドラマであり、歴史ドキュメントではない。実在しなかった人物も多く登場しているはずだし、史実と異なる出来事も描き込まれているはずである。殺し屋ミケロットなどはモデルになる人物がいたのかもしれないし、純粋なフィクションかもしれない。ルクレツィアが政略結婚でとつがされたスフォルツァ家で厩番の青年と愛し合って子供をもうけるなどはどう考えても作り事だろう。チェーザレが弟ホアンを殺したかもしれないとか、ルクレツィアと近親相姦であったかもしれないという推測に過ぎないあれこれも、ドラマの中では事実として処理されている。何が事実で何がフィクションかは見極めがたい。しかし事実かフィクションかの線引きは今は問題ではない。大事なのは、ドラマを生み出すための幹がしっかり据えられているかどうかである。そして、この幹はしっかり据えられていて、まったく揺るがない。幹とはすなわちアレクサンデル6世とチェーザレ・ボルジアマキャヴェリズム。ここでマキャヴェリの思想がドラマの中で血と肉を持った人間となり、われわれの目の前で動きまわる。『君主論』が説いたことを『ボルジア家』は目に見える形にした、と言ってもよいだろう。ドラマの中のアレクサンデル6世を見ていると、このローマ教皇が神を信じているとはとうてい思えない。
 『ボルジア家』はドラマそのものとしてとても面白いし、マキャヴェリズムを実感できるしで、一粒で二度おいしいのだけれど、セックスシーンも多くて、家族団らんの場でみんなで見ようというのには不向きなのが難点。そうでなければ、マキャヴェリズムを理解するための教材として中学生や高校生に推薦したいくらいである。セックスシーンはひとりで見ていても気恥しいものではあるが・・・
 では、最後に、マキャヴェリズムは現代でも生きているのかという問題。答えははっきりしている。生きている。とくに政治の世界では。小は自民党内の派閥争いから大は国際紛争に至るまでマキャヴェリズムだらけ。さすがに自民党内の派閥争いでは毒殺や刺殺はあり得ないけれど、重要なポストをちらつかせたりの利益誘導はあるだろう。これも一種のプチ・マキャヴェリズム。地球上の紛争地域での残虐行為を非難する決議を国連であげようとしてもどこかの国が反対してつぶれるのが通例。軍事独裁に立ち向かう人々や民主化を求める人々、難民となった人々が自国の利益を優先する大国の犠牲になってしまう。北朝鮮金正恩などは自分のことを独裁者とは考えず、冷酷な処断によって国の秩序を維持する慈悲深い君主だと思っているかもしれない。
 自民党内の派閥争いは私たちにあまり関係はない(と私は思っているのだが、違うかも?)ので勝手にやっていただければよいし、国際紛争は私たちに関係ないことはないのだけれど大きすぎるので今は脇へ置いておいて、もう少し身近な、つまり日本国内の議論で決められる問題をひとつ取り上げるとすれば、国連の「核兵器禁止条約」の署名・批准を日本政府が拒んでいる問題。政府あるいは政府に賛成する人たちの言い分は次のようなことらしい。〈核の抑止力まで禁止しようとするこの条約は、核の均衡の上に成り立っている世界の政治情勢を無視したもので非現実的であり、アメリカの核の傘の下に構築された日本の安全保障体制をないがしろにするものである。アメリカの核兵器をなくして日本は中国や北朝鮮からどうやって身を守るのか。日本政府はこれまで核廃絶という目標を掲げて努力してきたし、今後も地道に努力する決意だが、この条約は核兵器保有国と非保有国との間に溝を生じさせ、対話を阻害し、核廃絶というゴールをむしろ遠ざけるもので、核廃絶に資することはない。唯一の被爆国として条約に参加する義務があるという考えは青臭い空論である〉。私には、核廃絶を目指すということと核兵器禁止をうたう条約に参加しないこととが両立するとは思えないのだが、素朴に過ぎようか。上の言い分をマキャヴェリ流に言い換えてみよう。〈現に核兵器が存在し、その抑止力によって安定が保たれている世界の現実を軽んじ、核兵器禁止などという理想を重んじる者は破滅するしかない。核兵器は世界秩序をもたらしているのだから、慈悲深い存在である。和平や約束は常に破られるのだから、兵器をなくすなどという約束は絶対にしてはならない。外見上、いかにも核廃絶を願っているふうに見せかけることが必要である。被爆者に冷酷だという悪評が立っても意に介してはならない〉。
 人間は愚かであり、邪悪であり、欺き欺かれ、自己保身を図る存在であるというマキャヴェリ人間性悪説を私は無下に否定するつもりはない。でも、留保を付けたい。人間は賢く、善良で、誠実で、自分以外の人間のことも考える存在でもある、と。そして、愚かで邪悪だという側面があるからこそ人間は理想とか理念を必要としているのだ、と。人間は理想を求める存在でもある。そのこともまた現実なのだ。その現実を無視することによって、マキャヴェリズムは、結局、現実無視の理想論と同様、現実無視に陥ってしまうのである。人間性悪説に傾いた現実主義に基づいて現状肯定主義、現状固定主義に走ることに対しては常に批判的でありたい。