カミュ『ペスト』

 最近、アルベール・カミュ『ペスト』がよく読まれているらしい。2年前の話だが、新潮社文庫版の翻訳は2020年2月中旬に4千部を増刷し、さらに1万部の増刷を決めたとか。同社の広報担当者は「タイミングからみて、新型コロナウイルスの影響としか思えない。全く予想しておらず、ただ驚いている」「ペストの脅威と闘う登場人物の姿と、今のコロナウイルスの感染が広がる状況を重ねているのではないか」と話している(「朝日新聞」2020.3.2)。
 確かに、ペストで封鎖された町オランを舞台にした物語を新型コロナウイルスの感染拡大に右往左往する今日の状況と重ね合わせるというのも理解できないことではないし、コロナをきっかけに『ペスト』を読むのも悪くはあるまい。ただし、『ぺスト』が描くのは、罹患と死とがほぼ同義であるような致死率のきわめて高く、黒死病と恐れられたペストであり、完全に封鎖された小都市が舞台であり、人間が死と向き合う密度は今日のコロナに比べ圧倒的に高い。コロナ下の状況をどう生き抜くかというヒントを求めて、いわばハウツー物を期待して読んだ人は肩透かしを食らうだろう(そんな人はいないだろうが)。まあ、しかし、どんなきっかけにせよ『ペスト』に関心を持ち、最後まで読んだ人は幸いなるかな。すぐれた小説を読んだという充実感を得ること間違いなしである。私も本棚から古い文庫本を取り出してみたが、1987年発行となっている。読んだのはだいぶ昔のことである。今、読み返してみて、とても素晴らしい小説であると思った。そして、以下のようなことを考えた。(引用は宮崎嶺雄訳の新潮文庫による)
 小説『ペスト』の舞台はアルジェリアの港町オラン。実在の町だが、ペストの話自体はフィクションである。ダニエル・デフォーにも同じくペストを扱った小説『ペストの年の手記』があって、これも架空の語り手が登場するのではあるが、実際にロンドンで1665年で起こったペスト流行の資料を駆使し、行政の通達を文言どおりに紹介したり、地区ごとの死者数などを繰り返し挙げたりして、ドキュメンタリー性がずっと強い。対するカミュのほうは何人かの人物に焦点を当て、その内面と行動とを掘り下げることに焦点が置かれる。ペストが発生した4月から終息する翌年の1月にかけて、街の様子や季節の移り変わり、行政当局の欺瞞的態度、群衆の心理と行動、発病例や死者の埋葬などについても語られ、その描写は魅力いっぱいなのであるが、なんといっても要をなすのは人間であり、そこに傾けられた洞察の深さと卓越した表現力には驚嘆するしかない。
 人物のなかで特別の存在は医師のベルナール・リウー。この人物が小説全体の語り手(報告者)であったことが最後の最後に明かされる(本人が明かす)けれど、終始一貫して三人称で登場する。つまり彼は中心的な登場人物であるとともに小説の語り手であるという特別の位置を占めているのである。職業柄、ペストの間近にいて、報告者としては最適。自己規定によれば「自分の暮らしている世界にうんざりしながら、しかもなお人間同士に愛着をもち、そして自分に関する限り不正と譲歩をこばむ決意をした人間」である。その他の主要な人物は以下のとおり。
ジャン・タル―:ペストの始まる数週間前からオランに滞在している正体不明の男。どこから来たのか、何のためにいるのか誰も知らない。オラン到着の日から街の様子や人々の会話や行動についてメモを書き続けており、その手帳がリウーの報告を補うことになる。
レイモン・ランベール:取材で一時的にオランを訪れた新聞記者。恋人をパリに残してきており、たまたま滞在していたオランの町がペストで封鎖されるという不運に見舞われた自分をあくまでもよそ者であると感じている。脱出を試みるが、展望は開けない。最後には保健隊に参加してペストと戦う。
ジョゼフ・グラン:日給で雇われている市の臨時職員で、かつてリウーが無料で診察した患者。あまりにも無感動な日常に疲れた妻に棄てられ今は独りで暮らす。小説を書き上げるという希望を持っているが、その実態は、的外れな一字一句への拘泥でしかない偏執狂的な推敲作業の繰り返しである。悲喜劇的かつ凡庸な人物だが、リウーは決して馬鹿になどしない。
パヌルー神父:戦闘的なイエズス会士。ペストを神の与えた試練であると説教するが、その後、いたいけな子供が苦しんで死ぬのを目の当たりにし、それでも神を称えることができるのか、神の造ったこの世界を全面的に肯定できるのかと苦悶する。最後に発病し、治療を拒んで死ぬが、ペストであったとは断言されず、「疑わしき症例」とされる。
コタール:金利生活者。何か過去に犯した罪で当局の追及を受けているらしく、自殺未遂を起こす。しかし、ペストによる混乱のおかげで逮捕される危険も遠のき、配給物資の密輸にまで手を出して今や元気いっぱい。ペストを歓迎している例外的人間。ペストの終息が兆し始めるとともに不機嫌になり意気消沈し、精神状態も不安定となり、遂には家に立てこもって銃撃事件を起こす。
 『ペスト』で描かれるペストはペストであると同時にペストでなく、人間世界の邪悪な存在(例えばナチズムとか戦争)の寓意である、という見方が広く行われているようである。そのような解釈を誘発する箇所が作品中に2箇所、はっきりとある。1つ目はプロローグとして冒頭に置かれたダニエル・デフォー(!)の文章。「ある種の監禁状態を他のある種のそれによって表現することは、何であれ実際に存在するあるものを、存在しないあるものによって表現することと同じくらいに、理にかなったことである」。これによれば、ペストで封鎖されたオランの町の監禁状態というフィクションによって表わされているのは別の実在する監禁状態であるということになる。ただし、これだけではペストが何の寓意であるかは判然としない。そこで2つ目の箇所。それはタル―がリウーに自分がどういう人間であるかを語る場面。タル―は告白を「話を簡単にするためにまずいっておくがね、僕はこの町や今度の疫病に出くわすずっと前から、すでにペストに苦しめられていた」と始める。こんなふうに切り出されたらむしろ話は簡単になるどころかややこしくなるのだけれど、じつはそれこそが壺である。タル―の言うペストって何なのか、タル―はいったい何を言いたいのか、と私達は耳を傾けざるを得なくなる。
 タル―は自分が育った家庭のことを語る。彼の父親は検事であった。生まれつき気のいい人間で、誰かを踏みつけにするようなこともせず、聖者でも悪人でもなく、中庸の人であった。17歳の時にタル―は父親に勧められ、父親が死刑論告をする裁判を見学する。その時まで人生についてとくに悩みや懐疑をもっていなかったタル―は、この時、生きている人間である被告人を人間社会が殺そうとしていることに思い至り、絶対的なショックを受ける。「赤い法服ですっかり変わって、好人物でも愛想のいい人間でもなくなった親爺は、大仰な言葉を口にうようよさせて、そいつがひっきりなしに、まるで蛇のようにその口からとびだしてきた。そうして僕にわかったことは、親爺が社会の名においてこの男の死を要求しているということ、この男の首を切れとさえ要求しているということだった」。ここでタル―の父親を二重人格者などと誤解してはならない。家庭でよき父親であることと法に基づいて犯罪者に死刑を論告する検事であることとは矛盾するものではない。彼は社会的職務を果たしているにすぎないのである。その後タル―は18歳で家を出て、貧しい暮らしに身を置く。ただし、それは彼が父親を憎んだからであるなどと、この点もまた誤解してはならない。「僕としては、別に親爺に対して怨恨をいだいていたわけではなく、ただ少しばかり心に悲しみをもっていただけだ」し、「この人物は僕の決心に対して間接的な影響を及ぼしたにすぎない」。問題は息子と父親の関係などではなく、社会が死刑宣告という基礎の上に成り立っていることなのである。
 「僕の関心の的は死刑宣告というやつだ」という発言からはタル―が死刑廃止論者と見えるかもしれない。しかし、この死刑宣告というのを法制度上の死刑宣告と限定してはならない。「ペスト患者になりたくなかった」タル―は「殺人と戦う」ために「世間でよくいう政治運動をやるようになった」。彼は死刑廃止運動をするのではなく、政治運動をするのである。殺人を肯定するような社会とか政治体制を変革することが目標となる。「ヨーロッパの国々で、僕〔タル―〕がその闘争に参加しなかった国はないくらい」なのだから、さしずめヨーロッパ版チェ・ゲバラというところか。さらに言えば、この殺人というのも狭義の殺人と捉える必要はないのではないか。殺人を究極の形とする、人間社会の生み出す様々な犠牲と考えるのは拡大解釈ないし深読みかもしれないが、私はそう理解する(感じる)。
 しかし、革命運動ないし反体制運動に加わってもタル―は自足を得られない。なぜなら、このような運動も殺人を否定するわけではないのである。「われわれだって、必要な場合があれば、処刑を宣告していたことは、僕も知っていた。しかし、こういう幾つかの死は、もう誰も殺されることのない世界をもたらすために必要なのだと、僕は聞かされていた」。殺人なき世界を生み出すための殺人という矛盾。タル―は必要悪だと割り切ることができない。そしてある日、銃殺処刑の現場を目撃した彼は「全精神をあげてまさにペストそのものと戦っていると信じていた間にも、少なくとも自分は、ついにペスト患者でなくなったことはなかった」「われわれは人を死なせる恐れなしにはこの世で身ぶり一つもなしえない・・・われわれはみんなペストの中にいるのだ」と考え、「このいまわしい虐殺にそれこそたった一つの・・・根拠でも与えるようなことは絶対に拒否しようと」決心する。「人を殺すことを断念した瞬間から、決定的な追放に処せられた身となった」彼は、失った心の平和を探し求めながらそれを見出すことができないでいる。「僕は現在もまだそれを探し求めながら、すべての人々を理解しよう、誰に対しても不倶戴天の敵にはなるまいと努めている」。
 上記の会話以前にもタル―とリウーの会話場面があって、こちらはリウーの考え方を知る手がかりとなる。「あなたとは単刀直入にお話ができると思って」リウーを訪ねたタル―は、まず、当局の人手不足を補うために民間人のボランティアからなる保健隊を組織することを提案し、自分がその中心的担い手になるつもりであることを告げ、リウーの助力を求める。それから話は先日行われたパヌルー神父の説教をきっかけとして信仰の問題へと移る。神を信じているかと問われたリウーはちょっとためらったのち、信じていないと答える。彼には、パヌルーの言うような、今回のペストが真の信仰へ導くための神の有意義な懲罰であるという考えに与するつもりはない。「パヌルーは書斎の人間です。人の死ぬところを十分見たことがないんです。だから、真理の名において語ったりする」。かといって、彼にはパヌルーを批判するつもりもない。医師であるリウーは人の死ぬところを十分すぎるほど見ており、真理の名において語ったりなどしない。人は死を恐れ、彼は人が死ぬのを見ることに慣れることができない。彼にできるのは現場で人の命を救うべく力を尽くすことだけである。病人がそこにいて、その病人を守ること。何から守ってやるのか彼には分からなくとも、とにかく守ること。それが彼の真理である。彼は真理を語りはしないが、求めているという点でパヌルーと通じる点がないわけではない。真理を神と言い換えてもあながち間違いではなかろう。ちょっとためらったのち、信じていないと答えたのも理由のないことではない。リウーは全能の神を信仰していないだけなのである。全能の神というものが存在するなら人間による治療行為など意味をなさない。リウーは「あるがままの被造世界と戦うことによって、真理への路上にあると信じている」。タル―は「あなたの考えは完全に正しい」と認める。
 リウーは「自分の暮らしている世界にうんざりしながら、しかもなお人間同士に愛着をもち、そして自分に関する限り不正と譲歩をこばむ決意をした人間」である。タル―はといえば、心の平和を求めて、「すべての人々を理解しよう、誰に対しても不倶戴天の敵にはなるまいと努めている」人間である。ともにこの世界に満足しているわけではない。しかし、どのような世界であれ、この世界をあるがままに認め、人間同士がつながり合えることを信じて生きようと決意した人間なのである。そうした人間として二人は互いを理解できるようになる。「僕たちは同じものを求めている」とはタルーの弁。
 前年の4月に始まったペストも1月25日に終息の公示が出され、2週間後に市の門が開かれることになる。しかし、その時期にタル―はペストに罹って死ぬ。パヌルー神父はそれ以前に死んでしまっている。この2人はそれぞれ心の平和を見出すことができたのかどうか。「人間を超えて、自分にも想像さえつかぬような何ものかに目を向けていた人々すべてに対しては、答えはついに来なかった。タル―は、彼のいっていた、困難な心の平和というものに到達したかに思われたが、しかし彼はそれを死のなかで、もうそれが彼にとってなんの役にもたたなくなったときに、やっと見出したのであった」と語り手(リウー)は述べている。前半部分は神の懲罰と警告のことを考えていた人々のことを指しているのだろうか。だとすれば、神の創造した世界を全面的に肯定し、治療を拒みつつ死んだパヌルーは、答えが来ないことが明らかになる前に死ねたわけで、むしろ幸せだったのかもしれない。ではタル―はどうか。「希望なくして心の平和はない。そして、何びとたりとも断罪する権利を人間に認めなかったタル―、しかし何びとも断罪せずにはいられず、犠牲者たちさえもときには死刑執行人たることを知っていたタル―は、分裂と矛盾のなかに生きていたのであり、希望というものはついに知ることはなかったのである。つまりそのために。彼は聖者の徳を望み、人々への奉仕のなかに心の平和を求めていたのであろうか? 真実のところ、リウーにはなんにもわからなかったし、そんなことは別に問題ではなかった」。読者である私達にもタル―の人生を判断するすべはない。彼があのように悩み、あのように生き、あのように死んだということを知るのみである。「あのように戦い」とも付け加える必要があるかもしれない。そのうえで、誰も彼もが多少ペスト患者である今日において「ペスト患者でなくなろうと欲する若干の人々は、死以外にはもう何ものも解放してくれないような極度の疲労を味わうのだ」と語った彼が今や少なくとも極度の疲労からだけは解放されたと、私達は考えてよいわけである。
 そして、最後に残された問題。タル―の言う「ペスト」とは何なのか。何を寓意しているのか。どう解釈するかについては読者にかなりの裁量(好き勝手な、ではない)が与えられている。そして、それはもちろん、この小説の欠点などではない。私は、ナチズムや戦争の寓意とは取らないが、作品が発表された1947年時点では記憶に生々しいそれらをペストと重ね合わせることも大いにあり得たとは理解できる。2022年の今はどうか。ペストはペストであり、疫病であるから、コロナと重ね合わせるのはまったく自然すぎるくらいである。だからよく読まれている、ということにもなるのであろう。では、少し時間を遡って2011年の東日本大震災はどうだろうか。福島原発事故はどうだろう。これらをペストと重ね合わせることもやはり可能である。とすれば、天災であると人災であるとを問わず人間の命を奪うすべての災厄が「ペスト」によって象徴されていると見ることができるのではないか。
 しかし、そのような見方だけではまだ十分とはいえない。タル―が言う「誰も彼も多少ペスト患者」であるとはどういう意味か。私達の誰もが殺人に加担しているとでもいうのだろうか。タル―は「然り」と言う。もちろん、殺人というものを比喩的に解釈したうえでのことだが。
 タル―の心の軌跡をもう一度おさらいすると、まず、殺人と戦うために政治運動に参加した彼は、革命運動とか反体制運動も殺人を否定するわけではないことに納得できない。正義のための殺人!(同様の苦悩を、皇帝暗殺を企てたロシアのテロリストが味わう話を大仏次郎がどこかで書いていたように思うが、本が見つからなくて未確認)。銃殺処刑の現場を目撃し、「全精神をあげてまさにペストそのものと戦っていると信じていた間にも、少なくとも自分は、ついにペスト患者でなくなったことはなかった」と思い至る。ここまではまあ理解できる。次の段階はどうか。「われわれは人を死なせる恐れなしにはこの世で身ぶり一つもなしえない・・・われわれはみんなペストの中にいるのだ」と考えた彼は「このいまわしい虐殺にそれこそたった一つの・・・根拠でも与えるようなことは絶対に拒否しようと」決心する。「人を殺すことを断念した瞬間から、決定的な追放に処せられた身となった」彼は、失った心の平和を「探し求めながら、すべての人々を理解しよう、誰に対しても不倶戴天の敵にはなるまいと努めている」。
 私達の行為すべてが人を殺す可能性を持っているなどと言われても、それがたとえ比喩的にであるにせよ、にわかに納得できるものではない。この世で生きることすなわち罪を犯すこととなってしまい、ほとんどキリスト教でいう原罪と同じで、信じる人が信じたらいいだけのことでしょと、突き放すこともできないことはない。でもやっぱり違うと私は思う。なぜなら、タル―は罪をあがなうために神の許しを必要としたりはせず、神の恩寵を求めたりはしないから。彼の視線は天上ではなく地上に向けられていて、彼の目に映るのは人間の姿だけである。すべてはこの世で起こり、この世で解決されるべきなのである。「ペスト」は原罪とは似て非なるものである。
 この世で解決されるべきとはいえ、はっきりした解決策はない。誰にでも妥当する普遍的な答えなど存在しない。人を殺さないで生きるにはどうしたらよいかを考えながら生きること自体が答えであるとでもいったらよいか。人を殺さないということは、人間の犠牲のうえに社会が成りたつことを拒否することであり、<人間≠犠牲>の追及なのである。その具体的な発現は人によりさまざまだろう。タル―の場合は、保健隊を組織して疫病と戦うことであった。別にそれが彼の究極的目標であったわけではない。人生の途中でたまたま居合わせた場所でできることがそれであり、それを選び取ったというだけである。たぶん私達もそんなふうにして生きるべきなのだろう。リウーのように「自分の暮らしている世界にうんざりしながら、しかもなお人間同士に愛着をもち、そして自分に関する限り不正と譲歩をこばむ決意をした人間」として。
 最後に一言。「ペスト」は何の寓意または象徴なのかを中心にここまで書いてきて、それと矛盾することを言うのだが、小説『ペスト』を楽しむには「ペスト」が何を意味するかにこだわる必要はまったくない。むしろ、その点を理屈で理解しようとしないほうがいいかもしれない。ペストはペストなのである。一匹のネズミの死骸と門番ミッシェルの発病および死から始まるペスト。ペストをペストと認めたくない医師たちや行政責任者。市の門が閉鎖された直後の人々の心理と行動。ペストに責めさいなまれ、ついに敗北するいたいけな少年の肉体。同じくペストに敗北するが、タル―の自宅でリウーとその母親とに看病されながら静かに死に赴くタル―。これらを描写し叙述するカミュの筆の力を堪能することこそが『ペスト』を読む価値である。パヌルー神父の説教の描写などは迫真力に満ち、とくに2回目の説教は、キリスト教の教えに無関心な私でも思わず神の創造した世界の正当性を認めるのも一理あるのではと思いたくなるくらいの説得性をもって迫ってくる。とにかく読んで感じなくては始まらない。文学なのだから。