[『赤と黒』(1)、ジュリアン・ソレルの「父親たち」

 ずっと昔、大学でフランス語の授業を受けていたときのこと。先生が脱線して話題はいつしかスタンダール赤と黒』へと流れていった。その時に小説そのものについてどんなことが話されたかは忘れたが、『赤と黒』を専門に研究する「『赤と黒』屋さん」が最近では増えてね、と話されたことだけは今なお記憶に残っている。ひとつの小説の研究に一生を捧げる人がいるということが意外だった。そんな人生があるのか! でも今、改めて『赤と黒』を読んでみると、不思議な気はしない。この小説と格闘することはけっこうおもしろそうである。素晴らしい人生かどうかは別として『赤と黒』研究にかけた人生というのもありかと思う。この小説はとにかく問題作なのである。気になる点がやたらに多い。気になる点にこだわり出すと簡単に離れることができない。気になる点にこだわることも読書の楽しみかもしれないが、深追いすると泥沼にはまる危険なしとはいえない。一般読者としては、分からない点は分からないとしたまま自分なりの解釈で楽しめばいいのではないか。私もそのように楽しみたいと思うが、気になる点は気になったまま残ってしまう。今後もこの作品について考えることになるかもしれないが、今回はとりあえず、ジュリアンの「父親たち」に焦点をあててメモしておきたい。引用は人文書院スタンダール全集」第1巻『赤と黒』、桑原武夫生島遼一訳による。ただし、漢数字は算用数字に書き換えてある。
*舞台と時代
 『赤と黒』は2部構成となっていて、第1部はフランス東部フランシュ‐コンテ州に設定された架空の町ヴェリエールを舞台にジュリアンとレナール夫人との恋を、第2部はパリを舞台にジュリアンとマチルドとの恋を描く。第1部の終わりにはフランシュ‐コンテの州都ブザンソンの神学校でのジュリアンの生活が間奏曲として挿入される。そして第2部の最後にヴェリエールとブザンソンへ戻り、ジュリアンの処刑とレナール夫人の死とでもって小説は終わる。つまり、舞台は田舎都市ヴェリエールから州都ブザンソンを経てパリへと移り、最後にヴェリエール、そしてブザンソンへと移動する。
 『赤と黒』の出版は1830年11月で、タイトルと並べて1830年年代記と表記されている。しかし描かれているのは1830年の7月革命後ではなく1820年代のフランスである。1789年からの革命、1804年からのナポレオンによる帝政を経て、1814年のナポレオン失脚、それに続く王政復古。国外に亡命していた貴族も帰国し、過激王党派(ユルトラ)による白色テロなども起こる。1814年公布の「憲章」は国民主権を否定し、カトリックを国教化するなどの反動的な側面ももっていたが、法の前の平等、所有権の不可侵、出版の自由といった近代市民社会に普遍的な諸原則も確認されていて、自由派はこれらを守ろうとする。政治的には王党派と自由派のせめぎ合う時代。1824年に王位に就いたシャルル10世は、革命以前(アンシャン・レジーム)の儀式にのっとってランス大聖堂で戴冠式を行ったり、革命期に没収された貴族の土地に対し補償金を与える法を制定したりして自由派との対立を深め、こういった時代錯誤がフランスを7月革命へと向かわせることになったらしい。小説の時代はこの王政復古期の末期、7月革命直前にあたる。ヴェリエールのレナール町長が製材職人ソレルの息子ジュリアンを自分の子供たちの家庭教師にと考えるところから物語は始まる。
*ジュリアンの家族
 主人公ジュリアン・ソレルの家族は、父親と兄2人である。母親については一切触れられない。兄2人は大きな体格の力持ちで、父親の製材業を手伝っている。ジュリアンはすんなりした体つきで力仕事はできず、本ばかり読んでいる。父親からはろくでなしとさげすまされている。レナール家の家庭教師となったジュリアンと森の中で出くわした兄2人は、立派な黒服、さっぱりした風采の「弟が自分たちを心底から軽蔑しているのを見て」、「血だらけになって気絶するまで殴りつけて立ち去った」とある。この極端なデフォルメはリアリズムの小説らしくない。兄弟3人で一番下の弟が特別の存在であり、兄たちとは違う幸運に恵まれるという設定はおとぎ話によくあるパターンで、ここもそれをなぞっているのではないか。
*ジュリアンの「父親たち」
 ジュリアンの父親は育児放棄とまではいわずとも、少なくとも教育放棄をしている。あるいは、19世紀初頭のフランス(に限らず、近年に至るまでどこでも)における庶民階層には親による子供の教育などは存在しなかったというべきかもしれない。いや、そもそも親による子供の教育が問題になるのは現代のことであって、かつては階層を問わず、親が直接子供を教育することは考えられなかったのかもしれない。上流階級ならば家庭教師あるいは寄宿学校ということになるのか。そして社会の下層に生まれたら、いくら才能や素質に恵まれていたところでそれを開花させる条件は零に等しいということになる。たいていは親の職業を引き継ぎ、一生を終える。ジュリアンもそうなっていた可能性が大きい。いやいや、父親の製材業を継ぐにはひ弱である彼はそうなる可能性さえなかったというべきか。ところが幸運の星が彼の頭上に輝き、彼の資質を認めた4人の人物によって知的、宗教的、社会的教育を受ける。その4人とは、退役軍医、シェラン司祭、ピラール司祭、ド・ラ・モール侯爵である。教育が成功したのかどうかは疑わしいけれど。
*退役軍医
 物語の始まった時点ではすでに亡くなっている。少年ジュリアンにラテン語の手ほどきをしてやり、また、ナポレオンが司令官を務め、自分もそれに加わったイタリア遠征(1796年)の話を繰り返し聞かせる。これが直接的にジュリアンのナポレオン崇拝をはぐくんだものらしい。ナポレオンの創設したレジオン・ドヌール勲章の佩用者で、死ぬ際にその勲章と休職年金の未収額および30∼40冊の本をジュリアンに残した。そのうちの1冊が『セント・ヘレナ日記』で、ジュリアンの聖典となる。レナール氏に言わせればこの退役軍医はたんにナポレオン派であるだけでなく、急進派〔ジャコバン〕であり、自由派の回し者であるということになる。
*シェラン司祭
 ヴェリエールの司祭で、物語開始時点で80歳。この地に赴任以来56年間にわたり町の人々に洗礼を施し、告解を聞いてきた。このあたり一帯の司祭たちの監視役としてブザンソンの修道会から送り込まれた助任司祭マスロンに言わせればジャンセニスト。町の有力者たちと折り合わず、孤立し、司祭職を辞めさせられることになる。ジュリアンは神学校に入るために3年前、つまり16歳の時からこの司祭について神学を勉強している。ただし、献身的に教育してくれるこの人をジュリアンは利用しているふしが濃厚。自分ではまったく信じていない新約聖書ラテン語で全部暗記しているのも「自分の将来の運命がその人にかかっている」と彼の考える「シェラン司祭にとり入るため」との説明がある。司祭は、レナール夫人との恋愛沙汰でヴェリエールにいるべきでなくなったジュリアンにピラール師あての推薦状を与え、ブザンソンの神学校へ送り出す。これで教育係はシェラン師からピラール師へとバトンタッチされる。
*ジャンセニズムとイエズス会
 「平凡社大百科事典」はジャンセニズムを「恩寵に関する神学思想であるばかりでなく、信仰の実践と道徳における厳格主義、さらに教会組織の内側からの改革を目ざす教会論とそれに伴う実践運動」であり、「一方では神の預定と恩寵の絶対性を、他方では原罪以後の人間の無力さを強調する」説であり、キリスト教ヒューマニズムとの調和を図る近代主義的傾向ーその代表がイエズス会であるーの対極にある立場」だと説明している。18世紀には急速に政治化して「信仰と自由検討、宗教的政治的権威と良心の自由との関係をどう考えどう生きるかという難問を当時のカトリック教会とアンシャン・レジーム体制につきつけることとなった」。
 イエズス会は私達にはザビエルを通じておなじみだが、布教活動、学校教育、学問研究などに積極的に取り組んだことで有名。そのイエズス会が『赤と黒』のなかでなぜ悪者扱いされているのか。同百科事典には、1773年に教皇によっていったん解散を命じられたイエズス会が、ナポレオンの失脚後にフランス幽閉からローマに帰った教皇ピウス7世によって再興を宣言されたという記述がある。このピウス7世はナポレオンの教会政策に反対して幽閉の憂き目にあった人。1814年に息を吹き返したイエズス会が我が世の春を謳歌し、近代主義的傾向とも相まって、王政復古期の貴族やブルジョワの世俗権力と結びつき、それに批判的なジャンセニズム排斥に傾いていたというのが1820年代のフランスだったのだろう。
*ピラール司祭
 ブザンソン神学校の校長。厳正なジャンセニストであることが何度も強調される。すなわち、俗世間的利益には無関心で、イエズス会と絶対に妥協しない人。そのために、イエズス会が多数派を占める神学校の校長の椅子も放棄することになる。ジュリアンは初体面のとき、この人のあまりにも厳しい顔つきと態度のために気を失うとある。ちょっと大げさ。しかし、すぐにピラール師はジュリアンの才能と気概(僧職を飯の種としか考えていない愚鈍な他の生徒とは違う)を理解し、彼の指導者、助力者、相談相手となる。ピラール師はド・ラ・モール侯爵がかかえている土地をめぐる訴訟で代理人として尽力するが、そのお礼として、侯爵は神学校を辞めた師をパリ近郊の町で司祭にしてやる。有能な秘書を必要とした侯爵にピラール師はジュリアンを推薦する。ジュリアンはラ・モール邸に住み込むようになって以降もピラール師とは頻繁に行き来する。
*ド・ラ・モール侯爵
 田舎貴族のレナール氏とは大違いの大貴族で、マチルドの父。丸い性格、気さくな人柄といっていいくらいで、大貴族から私達が予想するような尊大さとか、うぬぼれといったものは感じさせない。どこかブルジョワ的で、ジュリアンに対しても無理に貴族を演じているところが見られ、それもあまりうまくは行かない。ついつい打ち解けてしまう。侯爵がジュリアンに対していだく親近感は実の息子のノルベールに対する以上であるといっても過言ではない。マチルドがジュリアンの子供を身ごもったことをマチルドの手紙で知ったときの怒りはもちろん相当なものである(はず)。なにしろマチルドは彼の秘蔵っ子で、なんとしても公爵夫人になってくれることを願っていたのであるから。怒り狂ってその場でバッサリやってもおかしくない。ところが、豈図らんや、彼の怒りっぷり、いまいち迫力がない。「ジュリアンに口から出るかぎりの罵詈雑言をあびせかけた。で、われらの主人公はその剣幕にあきれて苛々していたが、しかし彼のこの人にいだいている恩義の情は揺ごうともしなかった。長い年月のあいだ、この人の頭のうちに大切にいつくしまれていたいかに多くの計画が、たった一瞬のあいだに水泡に帰してしまったことであろう。〈とにかく、なんとか返事をしてあげなければ気の毒だ。おれが黙っていると、よけいに腹が立つだろうから〉」。ジュリアンは同情さえしている! 彼の心にゆとりがあるのは、その不羈の性格によるというよりも、侯爵の怒りが真に迫らないせいである(もちろん、そのようにスタンダールが書いているのだが)。侯爵の決断力や果敢さを欠いた性格はいかんともしがたい。多少の紆余曲折を経た結果、侯爵の最終的解決策はジュリアンとマチルドに土地と財産を与え、ジュリアンを貴族へとでっちあげることであった。なんと寛大な。
 めでたく貴族ジュリアン・ソレル・ド・ラ・ヴェルネとなったジュリアンは軽騎兵中尉としてストラスブールの連隊に入り、そこで一目置かれる存在になる。いつか将軍になれるかもしれないなどと夢想する彼のもとへ、しかし、事態の急変を告げるマチルドの手紙が届く。ジュリアンが女性を誘惑して財産や地位を狙う卑劣漢であると告発するレナール夫人の手紙、これは夫人が告解師に書かせられたものであるのだが、それを読んだド・ラ・モール侯爵は、いかに寛大で優柔不断であるとはいえ、マチルドとジュリアンの結婚を認めるほどのお人よしではない。「金に目がくらんでお前を誘惑するというようなことは断じて許せない」と娘に宣言する。かくして万事休す。そして、ここがこの小説最大の謎なのだが、ジュリアンはヴェリエールへ駆けつけ、礼拝中のレナール夫人をピストルで撃つ。「復讐をしました」と彼は後日マチルド宛の手紙に書くのであるが、理解しがたい。いろいろ解釈することはできるが、そしていろいろ解釈されてきたようだが、やはりよく分からない。今はさて置く。
*父親ソレル
 ジュリアンの父親は小説の最初に強欲者として登場する。まずはかつて、自分の製材所のある土地を渇望するレナール町長の足元に付け込んで破格の好取引をし、6千フランを捲き上げたというエピソードが紹介される。そして今、ろくでなしの息子が家庭教師に所望される理由がまったく理解できないながらも、レナール氏の焦り(町で彼と権勢を争う貧民収容所所長ヴァルノがジュリアンを奪うのではないかという思い込みによる)だけはよく理解し、かけ引きを駆使してジュリアンの待遇のつり上げに成功する(ジュリアンのためではなく、レナールをやり込めるのがおもしろいから)。
 それ以後この父親は姿を見せないが、小説の最後になって再登場する。裁判で死刑を言い渡されたジュリアンを牢屋に訪ねて来るのである。貯めている小金のうち兄たちに千フランずつ、残りを父親にやるとジュリアンが言ったのを受けて父親は「そののこりはぜひおれがもらわなければならん。・・・もしお前がキリスト教徒らしく死にたければ、おれにいろいろ借金を払っていったほうがいいと思うな。お前は気がついていまいが、まだ養育料とか教育費というふうにいろいろ前貸ししてあるじゃでな」と言う。ちょっとへんな感じ。息子を育てるのに使ったお金を養育料とか教育費の前貸しなどと呼ぶのは奇妙ではなかろうか。もうじき死刑になる息子に何を言っているのだ、このおっさん。業突く張りだからそんなことも言ったりするのだと取れないこともない。しかし、別の取りようもある。ジュリアンが実の息子でなく、誰かから預けられた子供であったならば養育料という表現も的はずれではない。そのように取ることは決して不自然なこじつけや突飛な空想なんかではない。
*ジュリアンは貴族の落胤
 ド・ラ・モール侯爵がジュリアンを貴族ド・ラ・ヴェルネに仕立て上げるのはマチルドとジュリアンの関係を知ったのちのことで、ほぼ小説の終わり頃の話だが、それ以前にもマチルドのこととは無関係に、ジュリアンの出生を秘密めかし、貴族の落胤であるかもしれないという噂を広めるという冗談が行われていた。製材職人の息子が貴族になるのは段階を踏んでいるわけで、ある日突然、魔法の杖の一振りで貴族になったわけではないのである。
 第2部第6章でジュリアンはシャルル・ド・ボーヴォアジというシュヴァリエと決闘する。決闘に至る経緯が私には何度読んでも理解できないが、とにかく決闘をするのである。シュヴァリエという身分もよく分からないけれど、仏和辞典には男爵の下の位と出ている。とにかく貴族である。決闘はあっけない。ジュリアンは腕を撃たれ、ブランデーで湿し、ハンケチでしばって終わり。ボーヴォアジの馬車でラ・モール邸まで送ってもらう。(このあたりの決闘の在り方も私にはよく分からない)。ボーヴォアジはジュリアンに好奇心をもち、今後、体面を保った付き合いができる相手かどうかを調べると、ラ・モール家の書記と判明。書記ふぜいと決闘したなんて物笑いの種にもなりかねない。一計を案じた彼は、ジュリアンが立派な青年で、「そのうえじつはラ・モール侯の親友の落胤なのだといたるところにふれ歩いたが、わけなくそういうことになってしまった」。以後、ボーヴォアジと連れ立ったジュリアンの姿がよくオペラで見かけられるようになる。ラ・モール侯爵曰く、「君は、わしの親友の、フランシュ‐コンテの金持貴族のご落胤になりすましたわけだね」。
 ラ・モール侯爵はある時ジュリアンに青い燕尾服を与え、丁重な口調で次のように言う。「ご都合のよいときそれを着て私のところへ来てくださったら、そのときはレス伯爵の弟、つまり私の友人の老公爵の子供として待遇することにしましょう」。ジュリアンはからかわれているのだろうかと思うが、夜、青い服を着て侯爵を訪れると、侯爵は彼をまさに友人の息子として遇し、談話に打ち興じる。侯爵の思いは以下のごとくである。「りっぱなスペイン犬に夢中になる人がある。わしがこの僧侶〔ジュリアン〕にほれこんだとて、たいして恥ずべきことでもないだろう」「あの男はなかなか変わっている。わしはあれを自分の子のように待遇している。それでいったいどこに不都合がある。こんなきまぐれが、もしつづいたら、遺言状に5百ルイのダイヤモンドをくれてやるように書かんけりゃなるまいが」。さらに侯爵はジュリアンを、その目的がジュリアンにもよく分からない2ケ月のロンドン出張を命じる。帰国したジュリアンに侯爵は次のように説明する。「君はこの勲章をもらいに行ったのだよ」「わしは君に〔書記としての〕黒服をぬがせたくはない。しかしわしは青服の男とのじつに愉快な口調に慣れてしまった。・・・わしがこの勲章を目にするときは、君はわしの友人レス公爵の末子だが、自分ではそんなことは知らずに、半年前から外交界で働いている、ということにする」。この勲章というのがどんな勲章かは分からないが(分かる人には分かるのだろうし、どこかに注釈があるかもしれないが)、とにかく、ここでもジュリアンは貴族へと一歩前進したのである。レス伯爵家の舞踏会にも招かれ、貴族社会の虚飾と倦怠とを間近に見聞することにもなる。
 ジュリアンをストラスブールの連隊に入れるにあたって侯爵は2万フランをジュリアンに与える。その際の侯爵の希望は、この金をラ・ヴェルネ氏は生みの親から受け取ったという形にすること、幼少時代の面倒を見てくれた材木商ソレル氏に贈り物をするのがよかろうということであった。ここまでお膳立てが整えば、ジュリアンは幼い頃にソレルに養育を託された貴族の落胤ということにならざるを得ないのではないか。こうして、ボーヴォアジの虚栄心に由来し、ラ・モール侯爵の気まぐれと物好きに煽られた嘘が誠となるのである。誠となった嘘は嘘なのか、それとも誠なのか。私達読者としては、ジュリアン貴族落胤説を積極的に肯定する理由もないけれど、否定する理由もない。父親ソレルの養育料云々の発言や兄2人との体格(と知能?)の違いなどを見ると、ジュリアンがソレルの息子ではないのではないかという思いがどうしても吹っ切れない。いや、実の息子でないなら養育料などという回りくどい言い方はせずに、最後の別れに、お前は俺の子供でないと率直に打ち明けるだろう、やはりジュリアンはソレルの子供なのだという反論も成り立つ。だけどそう断定できるか。できない。微妙である。ひょっとしてスタンダールは読者を判断不能の立場に置いて楽しんでいるのではないか。いや、それどころか、スタンダール自身にも判断がつかないのかもしれない。その可能性が高い。作者はすべてを知っている責任はないのである。一番気まぐれなのはスタンダールか。