『赤と黒』(2)、レナール夫人の「正しい」不倫

 『赤と黒』は大きく第1部と第2部からなり、第1部ではフランスの架空の町ヴェリエールを舞台に、ジュリアン・ソレルと、この町の町長レナール氏の妻との恋が語られる。小説全体を通じての主人公はジュリアン・ソレルなのだが、第1部においてはレナール夫人の比重が大きく、第1部の主人公はレナール夫人だといってもいいくらいである。そこで語られるのは、レナール夫人がジュリアンへの愛を通じて人間として目覚める過程。レナール夫人はどう変貌するのか。その変貌ぶりをたどってみたい。(以下の引用は人文書院スタンダール全集」第1巻『赤と黒』、桑原武夫生島遼一訳による)。
 物語の始まりで初めてジュリアンと出会った時のレナール夫人はどんな人間であったか。まずは名前と年齢。彼女はルイーズという名前であるが、この名前は小説全体のなかでたった1回しか出て来ないので読者の意識にこの名前が残ることは多分ない。あとは一貫してレナール夫人と呼ばれている。年齢は30ぐらいに見えるが、まだなかなか美しい、というのが彼女が最初に登場した時の語り手の評価。ちなみにジュリアンは初対面の際レナール夫人に年を尋ねられて、もうじき19歳になると答えているが、その少し前では「19といっても見かけが弱々しいので、せいぜい17にしか見えない」との叙述もあり、あいまいさが残る。話が進展した時点でレナール夫人は自分が恋人より10歳年上であることに気後れを感じる場面がある。さらに他の箇所からも情報を集めると、夫人は16歳で結婚、12年間の結婚生活、3人の子供の母、一番年上は11歳。これらを考え合わせると、初対面時の年齢はレナール夫人が29歳か28歳、ジュリアンが19歳か18歳となる。 
 レナール氏は小説の冒頭で50歳近い男として登場するので、夫婦の年齢差は20歳くらいということになる。レナール夫妻が結婚した経緯は、レナール夫人が「16のとき堅い貴族の家に嫁いだ」と言及されるだけで、詳細は不明。レナール夫人は今でも「背丈が高く姿がよくて、この山間の人が言うとおり、土地の美人だった。身のこなしには、どこかうぶな若々しいところがあった。パリの人の目からみると、無邪気でぴちぴちしたこの素直な美しさには、いささか肉感的なものを思わすほどの力があったのかもしれない」。12年前ならもっとうぶで若々しく、ぴちぴちしていたであろう。しかも、彼女はブザンソンに住む叔母の莫大な財産の唯一の相続人であるというのである。そんな16歳の少女が何の魅力もない40歳近い男となぜ結婚したのかは謎である。彼女のほうに結婚すべき理由などひとつもない。「生まれてこのかたほんの少しでも恋愛と名のつくようなものを、経験したこともなければ、見たこともなかった」。親に無理強いされて泣く泣くというのでもないらしい。男がうまくだましたというのでもないようである。人生未経験のまゝ、何も考えずに貴族社会の伝統に従ったというだけのことか。
 レナール夫人は娘時代をイエズス会修道院で過ごした。そして16歳で結婚したのだから、修道院を出てすぐに結婚したのだろう。俗世間と交わる暇はなかったはずで、恋愛経験なしも当然であり、社会経験もあるはずがない。「ばかでなかったから、修道院で習ったことなんか道理に合わぬことだというので、間もなくすっかり忘れてしまった。だが、そのあとへ何もかわりのものを入れなかったから、けっきょく何もおぼえないでしまったのである」。結婚後も社会経験を積んだ形跡はなく、彼女の心と頭は3児の母となった今もなお思春期の少女みたいなタブラ・ラサ状態である。
 現在のレナール夫人の愛情は3人の子供にのみ向けられており、彼女にとっては子供がすべてである。では夫に対してはどうなのか。「夫を批評したり、夫を嫌だと考えたりするほど思いあがった気持には、かつて一度だってなったことはなかった。はっきり自分の胸に問うてみたわけではないが、夫婦のあいだにこれ以上やさしいまじわりはないものと思っていた。彼女は子供たちの将来のことを話すときの夫がいちばん好きだった。・・・要するに、彼女は自分の夫が、自分の知っているどの男よりも、ずっとましだと思っていた」。一見、何の問題もない結婚生活。しかし、どれほどましな男かを説明する語り手の口調は皮肉たっぷりであり、この結婚生活がほんとうは空虚なものであることをあらわにする。「ヴェリエール町長は、伯父ゆずりの半ダースばかりの洒落のおかげで、才知があり、ことに上品だという評判をえていた」。伯父のレナール老大尉が大革命前にオルレアン公の歩兵連隊に勤務しており、その伯父がパリのサロンで出会ったとかいう著名人たちのことを一時期レナール氏は話題にして得意がっていたのではあるが、最近ではそんな骨の折れる思い出話はほとんど話さなくなっている。「彼は金銭にかんするはなしのときは別として、たいへん慇懃だったから、ヴェリエールでいちばん貴族的な人物だとみなされていた」。レナール氏が熱心に話すのは、かつては伯父の名誉、今は金、なのである。「なんとなくあさはかな機転のきかぬ一種の自己満足と、うぬぼれの態度」が見られ、「この男の才能は貸した金はじつにがっちり支払わせるが、借りた金はできるだけ遅く支払うということだけ」。どこが上品か?! 何が才知か?!
 では、レナール夫人が夫のことを自分の知っているどの男よりもずっとましだと思えるのはなぜか。彼女の周囲にましな男がいないからである。愛情や尊敬はおろか、まともな付き合いに値するような男はひとりもいない。彼女に言い寄る貧民収容所所長のヴァルノは「地方では美男子〔いいおとこ〕と呼ばれる、粗野で、あつかましくて、騒々しい連中の一人」で、夫人はこの男の「いつもせかせかした態度とばか声が嫌い」である。「男というものはみんな自分の夫やヴァルノや群長シャルコ・ド・モジロンみたいなものだとばかり思っていた。野卑、そして金銭、位階、勲章に関係のないあらゆる事物にたいするじつにひどい無関心、自分たちに都合の悪いあらゆる理論にたいする盲目的な憎悪」。
 ほんとうは夫も軽蔑に値する俗物の一人であるのだが、だからといって夫婦生活に異を唱えたり、事を荒立てるようなことはレナール夫人の関心事ではない。「はっきり自分の胸に問うてみ」ることはせず、「うわべは非のうちどころのない従順さで、すっかり自分を殺し・・・彼女の心の動きはいつも・・・もっとも気位の高い気性から生まれたものであった」。「ただ一人で勝手に我が家の美しい庭をさまよってさえおれば、彼女にけっして不満はなかった」。自分を抑えつつ、低俗な周囲のことは気にかけず、とりあえずの平安のなかに自足する気位の高い女ということか。いずれにしてもレナール夫人は夫に対して関心がない。夫人が夫の言動に対して取っている態度に比べると、傲慢な王女ですらもっと多くの注意を周囲の貴族たちに払っていると述べられ、傲慢な王女という比喩が突然出て来てびっくりさせられるが、意味は明白である。レナール夫人にとって夫は心のつながりという点では完全に無視し得る存在、無なのである。そこへ心を通わせられる男がやってきたらどうなるか。なるようにしかならない。
 レナール夫人は最初、家庭教師というからには粗野な男がやって来て、ラテン語ができないからといっては子どもを鞭でぶったりするのではと心配するが、それもすぐに氷解する。彼女の前に姿を見せたのは恐れていたような醜い坊主ではなく、少女が変装したかと思われるほど色白で優しい目をした可憐な少年。「なに御用、坊ちゃん?」「奥様、私は家庭教師にまいりました」「レナール夫人はものも言えなかった。二人は非常に近寄ってお互いの顔をじっと見つめあっていた」「やがて彼女はすっかり小娘のようにはしゃいで、笑いだした」。ひょっとして彼女が小娘のようにはしゃいだり笑ったりしたのは人生においてこれが初めてではなかろうか、という気がする。小娘の時にもそんなことはなかったのではないか。イエズス会修道院で彼女がはしゃいで笑ったとは絶対に考えられない。今や、感情が解放される。恋の第一歩。以後、二人はどのように接近して行くのか。
 ジュリアンが来るまでは子供たちにしか注意を払わなかったレナール夫人は最初この貧しい若者の「気高く誇りをもった魂に同情を寄せ」、そのことに喜びを見出す。「寛い心、高尚な魂、人間らしさ、そういうものはこの若い僧侶以外の人には存在しない」と彼女は信じる。男はみんな夫やヴァルノのような俗物(俗物という意識は彼女にはないだろうが)であり、それが当たり前であるとしか思っていなかった彼女にとって新たな世界が開ける。
 そんな折、夫人の小間使いのエリザがジュリアンに恋をし、ある人の財産を相続したのをきっかけにジュリアンとの結婚を望むが、ジュリアンは相手にしない。この時ジュリアンはまだレナール夫人に恋などしていないのだから、恋が拒否の理由ではない。ジュリアンの大いなる野望が低いところに安住するのを許さないのである。彼の野心にとって、小間使いと結婚して田舎で平凡な一生を送るなど問題外である。エリザの告解を受け、喜んで結婚をとりもとうとしたシェラン司祭は、弟子でもあり若い友でもあるジュリアンの拒絶に驚き、「心の奥底には何か一つ暗い熱情がひそんでい」ることを感じ取り、行く末を案じる。いっぽうレナール夫人は、エリザの結婚希望を知った時は「病気になったかと思うほど、それがこたえた。熱のようなものが出て夜眠れなかった」のが、エリザ本人から断られた経緯とジュリアンに対する恨みを聞くや否や「あまりのうれしさに理性の働きを奪われたよう」になる。そして「どうしても駄目か、骨を折ってあげたいわ。あたしからジュリアンさんにはなしてみよう」などと言う。もちろん彼女の真意ではなく、ジュリアンを説得する気などない。この嘘は物語のなかでレナール夫人が犯す唯一の偽善である。ジュリアンとかマチルドは偽善がその性格の骨格をなしていて、しょっちゅう偽善的言動に出るのであるが、レナール夫人はこの1回のみ。そして期待どおりの返事をジュリアンから得る。「エリザの申し込みも、またその財産もてんで問題にされないのを見て甘い楽しさにひたっていた」。このようなレナール夫人らしからぬ意地悪も恋ゆえであり、ここに至って夫人自身もようやく気づく。「あたしジュリアンに恋しているのだろうか?」。
 一方、ジュリアンのほうは恋など眼中にない。夜の庭でベンチに腰掛けている時に夫人の手を握る有名な場面があるが、これも恋ゆえでなく、義務を果たしただけなのである。前日の夜、夕涼みの折、たまたま彼の手が夫人の手に触れたのだが、その手は素早くひっこめられた。ジュリアンは「自分の手がふれても、その手をひっこめさせないようにするのが、自分の義務だと思った。・・・それを実行できぬときは物笑いになる、というよりはむしろ自分は人におとるのだという感情を、甘んじてうけねばならぬ」というのが彼の理屈あるいは感情である。自分が勇気ある人間であることを自分に対して示すことが自分の義務であると彼は考えている。そのことによって自分が優れた人間であるとの高慢な自尊心を持ち続けることができるのである。以前、すでに初対面の場でも同様の心理は発動していた。「夫人の手に接吻しようという不敵な考え」を彼は起こし、実行し、夫人を立腹させてしまう。その時の彼の理屈が「つまらぬ職人風情をたぶんこの美しい貴婦人は軽蔑しているのだろうが、その軽蔑を減じさせるかもしれぬ、そんな行為が実行できぬようでは、おれが卑怯だということになる」であった。自分が卑怯者でないことを示さねばならぬという考えは彼の固定観念になっている。夜の庭のベンチでレナール夫人の手が最初は逃れようとしたが、結局彼の手にゆだねられた時「彼の心は歓喜にあふれた。レナール夫人を愛するからではない、恐ろしい責苦がいまおわったからだ」。私はずっと昔10代で『赤と黒』を読んだ時、時計が10時を打ち終えるまでに手を握らなければと焦るジュリアンの気持が痛いほど伝わって来てハラハラしたものだが、今読んでもさほど感じることはない。年のせい? 
 レナール夫人の恋はこの段階ではまだ無邪気なものである。初恋のときめきである。「早くから恋を知るおしゃれ娘は恋の悩みにもなれているが、いよいよほんとうの熱烈な恋をする年ごろになると、もう新鮮な魅力を感じなくなっている。レナール夫人は小説などというものに目を触れたことがなかったから、恋のどの段階も、彼女にはみな目新しかった」。「けっしてジュリアンに何も許すようなことはしまい。・・・あの人をお友達にしよう」などとしおらしいことを考えている。
 初恋の喜びにひたっているレナール夫人とは対照的に、ジュリアンの気持は喜ばしいものではない。彼女の腕に接吻を浴びせたり美しさに見入る時も彼の心は冷めていて、愛や情熱とは関係がない。彼の気持は、己に対する義務を果たしているのだという当初の不純な性格を脱することができない。しょせん身分が違うのであって、自分は軽蔑されているのだという反抗心を払いのけることができない。「おれがいつか出世した暁、なぜ家庭教師などという卑しい職についたのかととがめられたときに、恋のためにそんな地位に身を落としたと、弁解できるようにしておくためには、なおさらこの女をものにしなくちゃならん」などと策略的に恋を位置づけたりもする。レナール夫人のいとこで友人であるデルヴィール夫人はこの二人と一緒にいることが多く、冷静な観察者でもあって、レナール夫人の恋を見抜く(「まあかわいそうに、この人恋をしている!」)のだが、そのデルヴィール夫人はジュリアンの人柄を「あの人はしょっちゅう何か考えていて、何をするのも策略ずくめのようね、陰険な人よ」と喝破する。
 ジュリアンがレナール夫人の寝室へ侵入することで恋は次の段階にはいる。夜中の2時に部屋に入って来たジュリアンを見てレナール夫人は「恥知らず!」と叫ぶ。ジュリアンは「ただ女の足下にひざまずいて、その膝をじっと抱きしめた。夫人にあまりきついことを言われるので、彼は泣きだしてしまった。数時間たって、ジュリアンがレナール夫人の寝室から出て来たときは、物語〔ロマン〕の文体をかりるなら、〈彼が思い一つとしてかなわざるはなかりき〉と言ってよかった」。夫人がどのようなきついことを言ったのかは書かれていないので分からない。私はむしろ、ここの叙述からはきついことなど言わなかったという印象を受ける。男に膝を抱きしめられながら口にしたきついことなど、ほんとうはきつくなさそうである。スタンダールは物語の文体を借りてさっさと結論だけ述べている。こんな手抜きは小説としてよいのか悪いのか? それはともかくとして、かくしてジュリアンの思いは遂げられるのだけれど、しかし、自室に戻った彼の頭にまず浮かんだ考えは「なんだ! 幸福になるとか、愛されるとか言ってみても、たったあれだけのことなのか?」であり、「おれは自己にたいする義務に何一つそむくことはなかったか? おれの役割をうまくやりおおせたか?」である。「それは、いったい、どんな役割か? いつも女どもの前で伊達にふるまう男の役割!」。
 こんな男に身も心を捧げたとあってはレナール夫人としては浮かばれない。しかし、私達が安心してよい(?)ことに、ジュリアンにも変化がみられる。次の夜、昨夜ほどには役割という考えにとらわれなかったジュリアンは「見る目と聞く耳を持っていた」。つまり、伊達男を演じるという意識なしに目の前のレナール夫人を素直に愛せるようになってきたのである。さらに「幾日もたたないうちに、ジュリアンはその年ごろに特有な情熱を、すっかりよびさまされて、狂気のように恋いこがれるようになった」などという文を読むと、ジュリアンの愛も本物になったのかと考えたくなる。しかしそう理解するのは早計。「彼の恋は、やはり野心から出たものだった。それは、あんなに軽蔑されていた、みじめな憐れむべき彼が、このように気高い、美しい女をわがものにする喜ばしさだった。彼が恋いこがれるさまや、恋人の美しさをみて夢中になるところを見て、年齢のちがいを気にしていた夫人も多少安心した。もっとひらけた地方の三十女ならとっくの昔に心得ているはずの処世術を少しでも知っていたら、好奇心と自尊心の満足だけを生命とするような恋愛が、はたして長つづきするものかどうか、そこを考えて戦慄したことだろう。野心を忘れた瞬間のジュリアンは、レナール夫人の帽子や着物のようなものにまで、恍惚として見とれるのだった」。役割を演じるという意識からは脱却できても、野心、好奇心、自尊心は捨てきれない。上流階級という「敵陣で育てられた女」を征服するという思いは依然として彼を離れない。同時に、「恋人の魅力を思うと、ジュリアンはうす暗い野心などは忘れていることが多かった」のでもあるが。ジュリアンは揺れている。
 そんな折、フランス国王がヴェリエールに行幸する。レナール夫人は町長夫人の地位を利用してジュリアンを親衛隊に加え、その晴れ姿を目にして幸福感に満たされる。それが人々の好奇心を免れることはありえない。「木挽きの倅を親衛隊に抜擢した非礼問題」が町中の噂の種となったのは事の必然。「あの高慢ちきなレナール夫人が、こんな不祥事を招いたんだ。・・・ソレルの小坊主の美しい目とあんなに生きいきした頬っぺたの色を見ればわかるじゃないか」。どうもレナール夫人、大胆にやり過ぎたようである。
 それからほどなくして決定的な転機が訪れる。夫人の一番年下の子スタニスラスが重い病気になる。突如として、自分のせいだ、自分の犯している罪で子供が死ぬのだ、神が罰し給うのだという意識がレナール夫人をとらえる。天罰という考え方は神を信じない(私みたいな)人間の心に兆すこともないとはいえないが、レナール夫人のように信仰心を持った人が天罰を思ったら、その苦しみは尋常ではない。罪と罰には何の論理必然性も科学的因果関係もないなどという理屈は一切通じなくなってしまう。罪びとである自分が犠牲を捧げること以外に救いはないとしか考えられなくなる。(余談になるが、ここらあたりの心理を巧みに利用して金銭上の犠牲に転化して、それで救われるとするのがいわゆる霊感商法)。彼女はすんでのところで夫に告白しそうになる。あるいはイエズス会の回し者であるマスロン司祭にすべてを話して懺悔するかもしれない。そんなことは身の破滅以外の何物でもないと説得するジュリアンに対して夫人は言う。「でもあたし、自分自身を辱しめてやるのです。泥沼のなかへ自分自身を投げだすのです。もしかするとそのために、あの子が助かるかもしれませんわ。みんなの面前で、こんな恥を忍ぶのを、おそらくさらしものというのでしょうね。弱いあたしの考えられるかぎりでは、これが神さまに捧げられる最大の犠牲のように思えるのです」。 
 これまでレナール夫人に罪の意識がなかったわけではない。「レナール氏にたいして貞節と従順を誓った身だという考え」が心に浮かばないこともなかったが、しかし「そんなことが思い浮かんできても、うるさいお客のようにさっさと追いはらうだけ」であったというのだから、たいした罪悪感でなかったことは確かである。自分の寝室に侵入してきた男に対し「恥知らず!」と叫ぶ程度の罪悪感。社会の常識に沿っただけの罪悪感。そもそも彼女にとって夫レナールは精神的結びつきを持たない存在であるからして、その男に対して不貞を働いているという思いで苦しむ必要は彼女にはないのである。国王行幸に際してジュリアンを親衛隊に加えるという不敵な行為を敢行したのも、彼女に本来的な罪の意識がなかったことを示している。
 ところが、子どもの重病が落雷のごとく罪の意識を呼び覚ます。「信心深いたちなのに、彼女はこのときまで、神の目から見て自分の罪業がどんなに深いものであるか、思って見たこともなかった」。それは信仰心に基づく罪の意識であるだけに強力であり、理性の手に負えない。レナール夫人は「嫉妬深い神の怒りをやわらげるには、ジュリアンを憎むか、子どもを殺すか、二つに一つを選ばねばならぬ、と信じていた」。しかし、どちらもできない。ゆえに彼女の苦悩は果てしない。ジュリアンを抱きしめるかと思えば突き放す。自分の罪を罵り、神の罰を求めるかと思えば、ジュリアンへの愛を再び口にする。オペラであれば狂乱の場と呼ぶにふさわしい場面が繰り広げられる。
 幸い子供は死なずにすむ。しかし試練を経たレナール夫人はかつてのレナール夫人ではない。「自己の罪業の深さを知った彼女の理性は、ふたたび平静に復することができなかった」。彼女の愛は内面化され、絶対的なものになる。天罰が下ろうが、地獄に落ちようが愛をつらぬく以外の道はない。「あたしは天罰をうけたのです。逃れられない天罰を。・・・あたしこわくて仕方がない――でも地獄を目の前に見てこわがらない人ってある? でもあたし、ほんとうのところちっとも後悔なんかしてないの。犯していいものなら、あたし幾度でもこの罪を犯そうと思うくらいですもの」。これほどまでの愛を見せられてはジュリアンも変わらざるを得ない。「この女が貴族で、おれが職人のせがれであろうが、そんなことはどうだっていい」。虚栄心も自尊心もかなぐり捨てた彼は本心から夫人を愛するようになり、「恋の狂乱のなかへ、身もとろけるような陶酔のなかへ落ちてゆく」。「愛と悔恨と歓楽の交錯のただなかに、二人の月日は稲妻のごとく速やかに流れていった。ジュリアンは自己省察の習慣を失ってしまった」。
 たとえ神が罰を下さなくても人間たちは下そうとする。小間使いのエリザが貧民収容所所長ヴァルノにすべてを話してしまう。国王行幸の際の親衛隊抜擢事件とは違って、今回は身近に仕え、しかも恋敵でもある人物による暴露である。恋は盲目、嫉妬は千里眼とはいうけれど、エリザが事を見ぬくのに千里眼は必要なかったのではないか。かつて言い寄ったが相手にしてくれなかったレナール夫人があろうことか「家庭教師に化けた職人のせがれを恋人にし」「その男を心から熱愛している」ことを知ったヴァルノは早速匿名の手紙をレナール町長に書き送る。レナール氏は「わが家に起こっていることをすっかり手にとるように知ることができた」。遅すぎるぞ、レナール君、と茶化したいところだが、この男の鈍さは今に始まったことではないので責めてみても仕方ない。ともあれ彼はおおいに懊悩する。あれこれ解決の道を探るが、結局妻の不貞はなかったことにするのが一番いいと考えることにする。ところが、どういう経過を経てかはつまびらかにされないが、「当人〔レナール夫人〕がまだそれに気のつかないうちから、町中が彼女のよこしまな恋のことで、もちきっていた」というのだから、これは大変。ジュリアンの「色事」を話したくてうずうずしているエリザはシェラン師のもとへも懺悔に行く。事を知ったシェラン師は1年間はヴェリエールに戻るなと言い含めてジュリアンをブザンソンの神学校へ送り出す。ジュリアンはレナール夫人との最後の逢瀬を果たし、ブザンソンへと立ち去る。
 この後、舞台はブザンソン、パリと移り、レナール夫人はほぼ姿を見せなくなる。ブザンソン神学校長ピラール師は夫人から来た手紙は燃やしてしまってジュリアンに見せないし、パリではジュリアンはマチルドとの恋愛ゲームに翻弄されるしで、ジュリアンとレナール夫人の愛の物語は背景に退いてしまう。夫人が再登場するのは小説の最後のほうで、聴罪師の言うままにジュリアンを腹黒い野心家であると告発する手紙をラ・モール侯爵に送ることによってである。これが、ジュリアンが夫人をピストルで狙撃するという理解しがたい行動を呼び起こす。この『赤と黒』最大の謎については別の機会に考えてみたいとは思うが、さてどうなることか。ジュリアンとレナール夫人の愛の物語のなかにこの事件はきちんと位置付けられるのか。それとも、小説家スタンダールが支離滅裂な失策をやってしまったのか・・・