清沢洌『暗黒日記』


 何年も前、NHKラジオ「朗読の時間」だったかで清沢洌〔きよし〕の評論が取り上げられていた。その時初めて清沢洌という人のことを知り、興味が湧き、岩波文庫で『暗黒日記』と『清沢洌評論集』を買い求めた。他にも読みたい本があって、この2冊にはなかなか手が回らずに本棚に放り込んだままになっていたのを先日取り出して読んでみた。分かりやすくておもしろい(おもしろいといっては語弊があるかもしれないが)。広く読まれるべき本だと思う。
 『暗黒日記』の解説(山本義彦)によれば清沢は1890年生まれで1945年没。1906年に渡米し、1918年に帰国。「中外商業新報」外報部長、「東京朝日新聞」企画部次長を歴任したが、評論「甘粕と大杉の対話」が右翼の攻撃を受け、「朝日」を辞任。その後はフリーの評論家として執筆や講演に従事した。
 真珠湾攻撃の1年と1日後、1942年12月9日に「近頃のことを書残したい気持から、また日記を書く」と始められた日記は死の直前、1945年5月まで綴られ、戦後『暗黒日記』と名付けて出版された(この表題は本人によるものではない)。彼の批判は、戦争が悪であるという一般論にとどまらず、現に行われている戦争の不合理と非条理を衝くという具体的な形をとっており、それが「おもしろい」理由である。以下、いくつかの観点を選び、それぞれについて抜き書きしてみた。◇は抜き書き、*は私のコメント。
【太平洋戦争はどんな戦争か】
大東亜戦争――満州事変以来の政情は、軍部と官僚との握手である。戦争を目的とする者と、一部しか見えない事務家、しかも支配意識を有している者とが混合妥協した結果生れたものである。
◇日本はこの興亡の大戦争を始むるのに幾人が知り、指導し、考え、交渉に当ったのだろう。おそらく数十人を出でまい。秘密主義、官僚主義、指導者原理というようなものがいかに危険であるかがこれでも分る。来るべき組織においては言論の自由は絶対に確保しなくてはならぬ。また議員選挙の無干渉も主義として明定しなくてはならぬ。官吏はその責任を民衆に負うのでなくては行政は改善出来ぬ。
浪花節文化が果実を与えて来た。大東亜戦争浪花節文化の仇討ち思想である。新聞は「米利犬〔メリケン〕」といい、「暗愚魯〔アングロ〕」といい、また宋美齢のワシントン訪問に、あらゆる罵言的報道をなしている。かくすることが戦争完遂のために必要なりと考えているのだ。何故に高い理想のために戦うことができないのか。世界民衆に訴えて、その理性をとらえうる如き。ああ。
浪花節関係者やファンが怒る必要はない。浪花節を批判しているわけではなく、仇討ち思想による戦争を批判しているのである。
宋美齢蒋介石の妻。ワシントン訪問とは、日本との戦いにおいてアメリカの援助を得るために訪米したことを指すのだろう。
◇我国において敵を憎むことを教う。たとえば星条旗の上を足で踏む如し。戦争目的は、そうした感情よりも遥かに高からざるべからず。昔の仇討ち思想では世界新秩序の建設は不可能である。高い理想を打ち建て、その理想の実現を米国がはばむというのでなければ駄目である。
*高い理想を目的とした戦争ならしてもよいと清沢は言っているように取れるが、それが彼の真意とは考えにくい。あまりにも愚かな仇討ち思想による戦争を強調するためのレトリックだろう。日記の他の箇所には以下のような記述がみられる。
◇戦争を世界から絶滅するために敢然と立つ志士や果たして何人あるか。予、少なくともその一端を担わん。
◇この世界から戦争をなくすために、僕の一生が捧げられなくてはならぬ。
【国民、ジャーナリズム】
◇戦争というものが何を意味するかを納得することは将来の日本に大切である。日本人は戦争に信仰を有していた。日支事変以来、僕の周囲のインテリ層さえ、ことごとく戦争論者であった。・・・これに心から反対したものは、石橋湛山馬場恒吾両君ぐらいのものではなかったかと思う。そうした日本人に対しては何よりの実物教育であろう。
石橋湛山は戦後、保守合同後の1956年、自由民主党総裁、首相となり、政治家として有名(病を得たため、首相であったのは2ケ月だけだが)。馬場恒吾は「ジャパンタイムズ」「国民新聞」編集長として活躍し、戦後、1945年から51年まで「読売新聞」社長。二人とも戦時中はジャーナリストとして日本の帝国主義的膨張政策に一貫して批判的態度を貫いた。石橋は、清沢が多く寄稿した「東洋経済新報」を主宰し、清沢の盟友ともいうべき人物。清沢によれば「この言論圧迫時代を、孤城を守り通して来たのは石橋湛山氏の『東洋経済』だけである」。
*論旨からして「そうした日本人」とは石橋、馬場ではなく、戦争に信仰を有する日本人と戦争論者のインテリをさす。この戦争を経験することでそうした人々も戦争の実際を理解するだろうと清沢は期待しているように見受けられるが、しかし、以下のような記述からは、期待していないともみえる。
◇昨日、アッツ島の日本軍が玉砕した旨の放送があった。・・・次にくるものはキスカだ。ここに一ケ師団ぐらいのものがいるといわれる。玉砕主義は、この人々の生命をも奪うであろう。それが国家のためにいいのであるか。この点も今後必ず問題になろう。もっとも一般民衆にはそんな事は疑問にはならないかも知れぬ。ああ、暗愚なる大衆!
アッツ島の山崎大佐が二階級飛びで中将になる。昨夜のラジオも今朝の新聞も、それで一杯、他の記事は全然ない。軍の命令であることが明らかだ。昨夜のラジオも八時から九時のものはプログラムを変更した。「鬼神も哭く」式の英雄は、もう充分なり。願わくはもはや「肉弾」的な美談出づるなかれ。そして作戦をしてさような悲劇を繰返す如き方途をとらしむるなかれ。それにしても国民は「責任の所在」を考えないのだろうか。イグノランスの深淵は計りがたい。
*アッツもキスカアメリカ領アリューシャン列島の島で、1942年日本軍が一時的に占領したが、翌年アメリカ軍の反撃でアッツ島の日本軍は全滅した。その指揮官であった山崎大佐の戦死を一斉に右へ倣えで美化するジャーナリズムの翼賛ぶりを清沢は批判している。それにしても「暗愚なる大衆」の「イグノランス」に対する清沢の絶望は相当なものである。なお、キスカの日本軍は全滅することなく撤退した。
◇僕はかつて田中義一内閣の時に、対支強硬政策というものは最後だろうと書いたことがあった。田中の無茶な失敗によって国民の眼が覚めたと考えたからである。しかし国民はさように反省的なものでないことを知った。彼らは無知にして因果関係を知らぬからである。今回も国民が反省するだろうと考えるのは、歴史的暗愚を知らぬものである。
*田中内閣は1927年4月から1929年7月。外には軍事力による満蒙分離政策(山東出兵)、内には普通選挙への干渉、三・一五事件での共産党弾圧、治安維持法の死刑法化など、碌なことはやらなかった。
◇科学の力、合理的心構えが必要なことを、空襲が教えるにかかわらず、新聞やラジオは、依然として観念的日本主義者の御説教に満ちる。この国民は、ついに救済する道なきか。
*絶望しつつも、清沢は言論の自由と教育に期待する。
◇日本人は、いって聞かせさえすれば分る国民ではないのだろうか。正しい方に自然につく素質を持っているのではなかろうか。正しい方に赴くことの恐さから、官僚は耳をふさぐことばかり考えているのではなかろうか。したがって言論自由が行われれば日本はよくなるのではないか。来るべき秩序においては、言論自由だけは確保しなくてはならぬ。
◇今は第五等程度の頭脳が、憲法や法律を蹂躙してやっている。新しい時代に言論自由確保の必要。
◇この戦争において現れた最も大きな事実は、日本の教育の欠陥だ。信じ得ざるまでの観念主義、形式主義である。
◇今度の戦争で、日本人は、少しは利口になるだろうか。非常な疑問である。教育を根本的に変えなければ。
*フィリピンにおける日本人の野蛮な振る舞いに触れた箇所では「教育の失敗だ。理想と、教養なく、ただ〈技術〉だけを習得した結果だ」とも述べている。理想と教養を置き去りにした技術習得だけの教育という批判はそのまま現代にもあてはまるのではないか。
◇日本人が良心的でないのは、どこに原因があるのだろうか。考えていることと、まるで反対のことをいうのである。・・・丸山国雄君の『ペリー侵略史』・・・伊藤道夫君の米人鬼畜呼ばわり・・・海老名一雄君がラジオや講演会で、米人惨虐説の宣伝・・・僕の周囲で、これをやらないものはほとんどない。僕などが、沈黙を守っている唯一の存在だ。これは国家を最大絶対の存在と考え、その国策の線に沿うことが義務だという考え方、それとともにそうすることの方が利益だという利益主義からであろう。外国においては、そうした立場をとらない人々が少なくない。そのアチチュードを作ることが、今后の教育の任務だ。
【軍人、政治家】
◇軍人の考え方は、相対的、機動的でないから、綜合的に物を推論することができぬ。日本本土では対手をやっつけることができると、まだ彼らは信じているのだが、その時に日本の飛行機も、軍艦もなく、また敵の武器が一段の工夫をこらして、絶対的に優勢だという事実を知らぬのである。日本人全体の頭が一体にそうであって、それを直すのには教育の一変以外にはない。
*東条内閣(1941.10-1944.7)も当然、批判の対象である。
◇明日で東条内閣二周年目を迎える。この内閣に対する批判は、後の歴史家がなそう。しかし、これくらい知識と見識に欠けた内閣は世界において類例がなかろう。
◇昨日、議会開かる。東条首相が演説ズレによって調子だけは重厚を加えてきた。しかし内容は、こんな平凡なことを、よくも長くやれると思われることばかりだ。
*先日(10月3日)の岸田首相の所信表明演説を思い起こしてしまう。岸田首相に限ったことではないが、平凡なことを長々とやるのが所信表明演説の通例となっている。
*東条の後を受けた小磯に対してはさらに手厳しい。ほとんど馬鹿扱い。
◇小磯首相、ラジオで放送。何をいっているか分らぬ。「天皇に帰一し奉る」ということが結論だが、それは何を意味するのか。これぐらい分ったようで分らぬ文字はない。
◇本日は大東亜戦争勃発の三周年である。朝、小磯首相の放送があったが、例により低劣。口調も、東条より遥かに下手である。全く紋切り型で、こうした指揮者しか持たない日本は憐れというべけれ。
◇蠟山君の話しに、議会で、安藤正純君が、「戦争責任」の所在を質問した。小磯の答弁は政務ならば総理が負う。作戦ならば統帥部が負う。しかし戦争そのものについてはお答えしたくなしといったという。我憲法によれば天皇その責に任じたまうの外はなきに至っている。戦争の責任もなき国である。
天皇が首相である小磯を戦争の責任者に任じたはずなのに小磯は曖昧答弁で責任逃れをしている、というのが清沢の言いたいこと。
大日本帝国憲法天皇主権】
*清沢は反体制派ではない。皇室敬愛の思いも強い。私が読んだかぎりでは、大日本帝国憲法の正当性を疑うような記述はない。天皇主権が言論の自由と両立しうるかどうかの問題意識は彼にはなかったようである。天皇主権は絶対的なものではなく、現在のような象徴的存在に近いものと見なしていたようにも思える。
紀元節だ。朝日さやけし。ああ、天よ、日本に幸いせよ。日本を偉大ならしめよ。皇室を無窮ならしめよ。余は祖国を愛す。この国にのみ生れて、育ちて、死ぬ運命に結ばるのだ。
◇電車の中で、宮城の前を通る時に頭を下げる。その時、僕は、神様どうぞ、皇室が御安泰であるように祈るのが常だ。・・・この共同的訓練のない国民が、皇室という中心がなくなった時、どうなるだろうというような理屈もあるが、しかしそうした理性的な問題ではなしに感情的に「日本人的」なものを持っているからだ。
*明治になって日本は西欧化によりせっかく近代国家になったはずなのに、ここにきてまたもや封建主義が復活して道理に合わない戦争をしていると清沢は見ている。また、明治時代には天皇側近によるチェックが有効に機能し、軍やそれに追随する官僚の暴走を許さなかったとも。
◇今日は、明治天皇祭だ。明治天皇の御偉大さ。東亜戦争の責任者たち――政治家も文士も――は、明らかに明治天皇の御方針に不満なのだ。日露戦争があまりに「米英的だ」というのはその一つの例である。
◇明治の功臣たちが何故に欧化したか。彼らは武士として攘夷主義者の先達ではなかったか。鹿鳴館事件の井上馨の如きは、最初はその最も然るものであった。明治の功臣は、大東亜戦争の指導者たちと異って、考え方に屈伸性があったのだ。日本を偉大にするためには常に優れたるものに従ったのだ。
◇明治時代には重臣は、真の発言権を有していた。明治天皇の御信任を拝して、首相をも監督する地位にあった。それがチェックス・エンド・バランセスの役目をつとめた。しかるに、今重臣は全く並び大名で、首相に対する質問すらもできない有様だ。
共産主義、革命】
共産主義と革命に対する清沢の評価は否定的である。彼が必至と見、恐れていた革命的騒動はしかし起こらなかった。
◇予はコンミュニズムは封建主義と同じフレーム・オブ・マインドの産物なりとの見解を抱く久し。
◇戦争の深化――食糧難――騒動――内閣更迭――動揺の継続――和平論の台頭――革命的変化――そのような順序をとるのではあるまいか。
◇日本における「革命」は最早必至だ。それに先行する暴動が我らの胆を寒くする。仮に「革命」があっても、それは多分に破壊的、反動的なもので、それによって、この国がよくなる見込みなし。
【味方と敵】
*清沢にとって石橋湛山馬場恒吾の他にも蠟山政道、正木旲〔ひろし〕などが思想的に共感し、交友関係もあった人々である。これらの人たちはそれぞれ戦後活躍した。清沢は戦争終結前に死んでしまって、活躍する機会を奪われたけれど。
◇正木旲という弁護士の『近きより』という小雑誌がある。その一月号、二月号は驚くべき反軍的、皮肉的なものである。戦争下に、これだけのものが出せるのは驚くべく、これを書いたかれの勇気驚くべし。かれはボーン・デモクラットで、文章も非常に上手だ。
*反対に、軽蔑の情をもってしか言及しえない人間たちとして赤尾敏笹川良一児玉誉士夫などがいた。
◇右翼やゴロツキの世界だ。東京の都市は「赤尾敏」という反共主義をかかげる無頼漢の演説のビラで一杯であり、新聞は国粋党主という笹川良一という男の大阪東京間の往来までゴヂ活字でデカデカと書く。こうした人が時局を指導するのだ。
◇ゴロつき万歳の世だ。笹川良一とかいう国粋同盟の親分は何千万円の財産家だという。右翼で金のうならぬ男なし。これだから戦争はやめられぬ!
◇今回の戦争で儲けたものは右翼団で、彼らは支那、内地、どこでも鉱山その他の権利を得て、大金を儲けているそうだ。彼らは軍人と連絡があるからだ。その一例として児玉誉士夫という大森区から代議士に立候補した右翼の男――国粋会の何かだ――が今日の『毎日新聞』によると福岡で水鉛鉱山を経営しており、写真入りで紹介している。
*この連中はしかし戦後には「大活躍」した。石橋や正木などより、むしろ赤尾、笹川、児玉といった名前のほうが私にはなじみがある。多くの日本人にとっても同様なのではなかろうか。
 大日本愛国党党首の赤尾敏。1960年に浅沼社会党委員長を刺殺した山口二矢は赤尾に私淑し、愛国党党員だったはず。
 笹川はいろんなことに手を出し、自らテレビCMにも登場し「一日一善」とか「人類みな兄弟」とかやっていたのではないか。モーターボート競走の生みの親としても有名。現在、「BOAT RACE オフィシャルウェブサイト」などに「昨今の北朝鮮関連情勢から、Jアラートによるミサイル緊急警報が発信された場合には、人命を最優先とし、レース・舟券の発売・払戻しを中止する場合があります。お客様におかれましては、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます」と、ことさら北朝鮮の脅威を無理やりボートレースに結びつける記載があるのは笹川の遺伝子が生き残っていることの証左か。
 児玉誉士夫とくればロッキード疑獄が有名であるが、それに限らず、戦後保守政治の黒幕として巨大な存在であったことはいうまでもない。
*清沢にとって上の3人は右翼のゴロツキとして片づければよかったが、そう簡単に済ませられないのが徳富蘇峰。思想、言論を生業とする者同士であり、また、かつての自由民権派から膨張主義国家主義者へ変節したことも含めて、どうしても許せなかったのだろう。天敵のようなもの。彼への批判は随所に噴き出す。新聞各紙が彼を重用することへのいら立ちも感じられる。
◇朝、ラジオで徳富蘇峰の講演あり。ぺルリが日本占領の意図あり、かれの像を建てた如きは、もっての外という。また日露戦争ルーズヴェルトが仲介したのを感謝する如きも馬鹿馬鹿しいことだという。米国は好戦国民である。仁義道徳のなき国だ。そうしたことがその講演の内容だ。先頃、山本提督の死の時にも講演し。このところ、徳富時代である。この曲学阿世の徒! この人が日本を誤ったこと最も大なり。
◇『毎日』に、例によって蘇峰の文章あり、『朝日』にもその談話あり。海軍の行動を希望するようなことをいっているのは、陸軍が書かしたのではないか。蘇峰は完全に陸軍のお雇い記者である。
大東亜戦争に導いた民間学者で最たるものが二人ある。徳富蘇峰と秋山謙蔵だ。この二人が在野戦争責任者だ。『読売』は、まだこれをかついでいる。
【空襲】
*「東京空襲、すこぶる切迫したように考えられる」という44年7月2日の記述から始まり、1944年の夏以降、空襲に関する記述が増える。以下いくつか引用してカッコで日付を記しておく。
◇午后五時より一時間ばかり、九州、中国西部を米機空襲した旨のラジオあり。(44.8.20)
◇鮎沢君に招かれたので石橋君の自動車に便乗しようと出かける。電車が大森駅に行くと「空襲だから退避しろ」という。皆な飛び出て、思い思いのところに隠れる。十分ばかりで解除。再び電車に乗って品川まで行くとまた「空襲、退避」だ。皆な遽てて線路を横ぎって、建物の横などにかくれる。そんなところにいると火事が出たら、まる死にだ。僕は外に出る。非常な混雑だ。十分ばかりで解除になったが、省線は動かない。仕方がないから市電で東洋経済に行く。ちょうど、地下室に退避するところであった。これで空襲があったら、ほんとに大変だ。形式的な訓練が何にもならぬことが、今日のことで分る。(44.11.1)
◇東京都の講演を頼まれて成城に行く途中、警戒警報発令。ために中止。(44.11.25)
◇毎晩、空襲が来ない日とてはない。最初は隣の防空壕に這入った近所のものが、今や誰も這入るものはない。馴れたのと、また一つはそんなことばかりやっていられないのである。(45.1.12)
*そして多数の死者を出した45年3月10日の東京大空襲。前日、清沢は前橋へ講演に行き、夜、東京へ戻ってきた。この日の記述は詳細。
◇昨夜、汽車は約二時間遅れた。蒲田につくと警報が出て真暗である。手さぐりで電車に乗る。家に帰っても、あかりもなく、寝る。警報でめざめる。けたたましく大砲がなる。外に出ると、B29が低空飛行をやり、探照燈に銀翼を現わし悠々と飛んでいる。盛んに高射砲を打つが、少しも当らず。我飛行機は、一台も飛び出しておらぬ。B29はフックリ空に映えて実に綺麗である。たちまち北方の空、真紅になる。風が非常に吹いているので、この風では止めようもあるまい。風に燃焼の臭いあり。どこか知らねど被害が多かろうと胸いたむ。・・・朝・・・都心に出る。・・・蒲田駅で、目を真赤にし、どろまみれになった夫婦者あり。聞くと浅草方面は焼け、観音様も燃えてしまったという。東京に近づくにしたがって、布団につつまった人が多くなる。・・・汐留駅が、まだ盛んに火を吹いている。・・・見るにたえないのは、老婦人や病人などが、他にささえられながら、どこかに行くものが多いことだ。燃え残った夜具を片手に持っている者、やけただれたバケツを提げる者。それが銀座通りをトボトボと歩いて行く。・・・石橋家が丸焼け・・・この戦争反対者は先には和彦君を失い、今は家を焼く。何たる犠牲。浅草、本所、深川はほとんど焼けてしまったそうだ。しかも烈風のため、ある者は水に入って溺死し、ある者は防空壕で煙にあおられて死に、死骸が道にゴロゴロしているとのこと。惨状まことに見るにたえぬものあり。・・・本郷一面、芝三光町、その他全焼――警視庁では二十万戸と数えている由。・・・それにしても、これが戦争か? 小磯首相は罹災者に対し「必勝の信念」を説いて、敵の盲爆を攻撃した。宮内庁の主馬寮が焼けたことばかり恐縮していることに対し、国民からかえって反感が起ろう。・・・東京の焼跡を見れば、また敵は機械力によって爆撃していることが分る。従って、今までやっている燈火の極端な管制――たとえば煙草の火一つをも怒鳴りまわしている流儀が馬鹿々々しいことが分るはずだ。結局、総ては知識のない連中が指導していることが、こうなるのである。
*和彦君とは石橋湛山の次男で、戦死した。
アメリカの空爆を戦争だから仕方なしと受け止め、その残虐性を告発しようとしない日本的物わかりのよさが、清沢には理解できない。
◇深川、本所の惨状は、聞けば聞くほど言語に絶するものあり。陛下昨日罹災地を御巡幸遊ばさる。日本は何故にこの惨状――婦女子、子供を爆撃せる事実を米国に訴えざるか。かれらは焼いた後を機銃掃射をやったとのことである。もっとも、日本も重慶、南京その他をやり、マニラについても讃められぬが、米国のやり方は非道許すべからず。
◇これらの空爆を通して、一つの顕著な事実は、日本人が都市爆撃につき、決して米国の無差別爆撃を恨んでも、憤ってもおらぬことである。僕が「実に怪しからん」というと、「戦争ですから」というのだ。戦争だから老若男女を爆撃しても仕方がないと考えている。「戦争だから」という言葉を、僕は電車の中でも聞き、街頭でも聞いた。・・・日本人の戦争観は、人道的な憤怒がおきないようになっている。
*清沢がもう少し長生きしていたら、原爆投下をどう見ただろうか。戦後、日本がとってきた、アメリカの責任を不問に付すという姿勢は、アメリカによる統治という戦後日本の政治事情によるところが大ではあろうが、清沢の指摘する日本人の戦争観も与っているのかもしれない。
言論統制
◇『中央公論』の小説「細雪」(谷崎潤一郎)は評判のものだったが、掲載を中止した。「決戦段階たる現下の諸要請よりみて、あるいは好ましからざる影響あるやを省み、この点遺憾にたえず」と社告にある。
*『細雪』は戦意を高揚させるような小説ではないが、掲載中止に追い込まれるような反戦的小説でもない。標的は『中央公論』だったのだろう。こちらは結局、廃刊に追い込まれる。
*清沢も言論統制の被害者である。自由にものを書いたり言ったりできる状態ではなかった。発言、行動には十分注意を払っている様子がうかがえる。
◇『東洋経済』に書いた僕の「日ソ関係の調整」の社論に警視庁から注意があった。・・・予の書いたものについては「厳重なる警告」――少しいくと発行禁止程度のものが待っているのである。
◇僕が『東洋経済』に書いた「侵略者とは何か」という社論は削除になった。
◇午後四時半頃から講演。「自分の材料は英字新聞等による」と断り、かつ非常に警戒す。自己の説をそのまま述べ得ないのである。
◇僕が憲兵隊に検挙されたという流言は、すでに何十回も出ている。・・・事実は僕は、まだそういう意味では一回も呼ばれたこともない。石橋君曰く「君や僕がやられないのは貧乏だからだよ」と。肩書のないことが、怪我のない理由であるかもしらぬ。
◇〔講演旅行に〕この日記帳は持って行かなかった。荷物になることもその一つの理由だが、それよりも、どこで舌禍にかかり、この日記帳を取調べられねばならぬかを恐れたからだ。我らの生活は不断の脅威におびゆ。
【そして現在】
*清沢は戦争終結直前の1945年5月21日、肺炎で急逝。
*『暗黒日記』から80年。現在の日本は戦争をしているわけでもないし、軍人が政治を牛耳っているわけでもない。言論の自由も保証されている。教育制度も拡充し、大学進学率はほぼ60%。しかし、清沢が批判した「秘密主義」「官僚主義」「観念主義」「形式主義」はどれほど克服できたのか。清沢は「朝のラジオは、毎日毎日、低級にして愚劣なるものが多い」とも書いているが、今、インターネット上には低級にして愚劣なるものが溢れているではないか。テレビのワイドショーではタレントたちがしゃべりまくっているが、清沢が考えていた言論の自由とはこんなものであっただろうか。国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」による2022年の報道自由度ランキングで日本は71位である。さらに日本は韓国やオーストラリアなどとともに、大企業の影響力が強まり、記者や編集部が都合の悪い情報を報じない「自己検閲」をするようになっている国として挙げられている。「国家を最大絶対の存在と考え、その国策の線に沿うことが義務だという考え方、それとともにそうすることの方が利益だという利益主義」は今なお跳梁跋扈しているのではないか。
◇小磯首相は議会で、空襲被害はできるだけ詳しく発表するといいながら、町も、被害者数も、場所も発表しないといった。それでは詳しくも何でもない。この大被害の真相を知っている者が、一部官僚だけであるというに至っては、官僚政治の弊害極まれりだ。これを根底から改造しなくては直るまい。だが日本人の傾向でそれができるかしら?
*この文章から小磯と空襲に関する語を白紙にすると次のようになり、○○に当てはまる語句を私たちは現在の政治に関していくつも容易に思いつくのではないか。まことに遺憾ながら。
 ○○首相は議会で、○○はできるだけ詳しく発表するといいながら、○○も、○○も、○○も発表しないといった。それでは詳しくも何でもない。この○○の真相を知っている者が、一部官僚だけであるというに至っては、官僚政治の弊害極まれりだ。これを根底から改造しなくては直るまい。だが日本人の傾向でそれができるかしら?