日吉大社山王祭

日吉大社山王祭は神輿が活躍する祭としてとてもおもしろい。

☟2024年三王祭のポスター

☟午の神事は明るいうちから準備が始まる(4月12日)

☟八王子山にある奥宮。ここには3月に2基の神輿が上げられており、それがこの夜、麓の東本宮までかつぎおろされる。標高差約185メートルを下ることになる。☟夕暮れとともに松明を持ったかつぎ手たちが集まってくる。

☟8時半に奥宮を出た神輿は30~40分ほどで麓に到着する。

☟4月13日の昼には花渡り式。甲冑を着た4~5歳の子供が出産を迎えた神さまに花を奉げる式であるとか。まっすぐ歩くのではない。子供が右足を斜め右へ、そして左足を斜め左へと運びつつゆっくり歩くのはけっこうしんどそう。

☟祭といえば露店も大事。

☟ケバプの店もある!

☟13日の夜になるといよいよ神輿振り。会場の宵宮場では4基の神輿が担ぎ手を待つ。7時半ごろに最初の神輿の担ぎ手が到着。神輿をバッタンバッタンと前傾後傾させる。ちょうどシーソーのよう。これが神さまの陣痛であるとか。それぞれの神輿の前には5人の男たちが腕を組んで立ちはだかる。この5人は神輿振りには参加せず、ずっとこの姿勢を続ける。

1時間ほどかかって4基の神輿の担ぎ手が勢ぞろい。最後に山王祭実行委員長による祝詞奏上。そのあいだ神輿はこのように並べられて静かにしている。

☟4月14日には比叡山延暦寺天台座主が西本宮に参拝し、般若心経を読経する。神仏習合の名残であるとか。(以下の写真は2023年撮影)

☟14日午後は神輿の琵琶湖渡御。

☟夕方にはすべての仕事を終えた神輿が車に乗せられて帰って来る。ご苦労さん!

 

ChatGPTでレポートを書いてみた!

 今回は前回「ChatGPT事始め」の続きとして、学生がChatGPTなどの生成AIにレポート(リポート)を書かせるという問題を考えてみたい。
 文科省に言われるまでもなくこの問題には各大学とも頭を悩ましているようで、それなりの対策も模索されている。京都大の湊総長は昨年(2023年)の入学式式辞で、わざわざChatGPTなどのAIに言及し、次のように述べている。「AIによる文章作成にはいくつもの問題点も指摘されています。まず、明らかな誤情報が含まれるリスクです。これは無作為のデータベースに基づくサーチである限り、避けられないことでしょう。また、特定の論旨について、その根拠となる資料を正確に引用できないことも指摘されています。これは、サーチのみでリサーチという検証を欠いているためですが、学術レポートとしては、致命的な問題点であり、主要な国際学術誌は、ChatGPTを論文の共著主体として認めることはあり得ないと言っています。少なくとも現況では、AIによる自動文章作成には・・・『文章を書く』ということに伴う重要な検証プロセスが欠けていると思います」。
 レポート試験に関する学生向けの注意喚起と警告の一例を挙げれば、同志社大学の「【重要なお知らせ】 論文・レポート試験における生成AIの使用について」は次のようになっている。「本来、論文・レポート作成に主体的に取り組むことには、自ら調べ、情報を取捨選択し、思考し、文章化する力が身につくという学習効果が期待されています。生成AIによって生成された文章を自身で作成した論文・レポートとして提出することは、学習成果を正しく評価・測定することを困難にし、公正な成績評価を妨げるだけでなく、意図せず第三者著作権を侵害する等の法的問題を招来する恐れもあります。そこで本学は・・・論文・レポート試験において、生成AIによって生成されたものを自身が作成したものとして提出することを認めないこととし、これに反する行為が判明した場合には不正行為として取り扱い、厳正に対処します」。
 「生成AIによって生成されたものを自身が作成したものとして提出することを認めないこと」も「これに反する行為が判明した場合には不正行為として取り扱い、厳正に対処」することも当然であり、どこの大学もこの点では共通した姿勢を示している。ただし一般的にはそれでいいとしても、具体的にどうすべきなのかとなると事はそれほど簡単ではない。「生成AIによって生成された文章」の定義は曖昧である。
 前回「ChatGPT事始め」で取りあげた読売新聞の記事にある「平気でAIの回答を丸写ししたリポートを提出する学生があとを絶たない」という大学教授の話は多分に誇張されているのではないか。学生もそこまで馬鹿ではないから丸写しして一丁上りとやることはあまりないのではないか。文体を変えたり、文章の順序を入れ替えたりは誰でもするだろう。それだけではなく、AIにはテーマに関係する複数の問題に答えさせ、そこから取捨選択し、合成して自分のレポートを仕上げるくらいの手間ならそれほどの負担ではないし、普通の学生ならやるのではないか。と考えた私は、論より証拠というわけで、学生の身になってAIによるレポート作成を試みてみた。レポートのテーマは「北海道開拓の歴史について述べよ。字数は2000字から3000字とする」と設定した。このテーマに特別の理由はない。大きすぎず小さすぎず、私には予備知識がまったくないテーマというだけである。なお、この学生は授業に一度も出席せず、授業内容は一切知らず、頼るのはChatGPTのみと仮定する。
 いきなり直球勝負で行く。「北海道開拓の歴史について2000字から3000字でレポートを書いてください」と丸投げでお願いしてみたら次のように出てきた。
―――
【北海道開拓の歴史】
はじめに
北海道開拓の歴史は、日本の近代化と国家の発展において重要な役割を果たしてきました。この地域の豊かな自然資源や広大な土地は、多くの人々が新たな生活を求めて移住し、開拓を進めることとなりました。本レポートでは、北海道開拓の歴史について詳しく探求し、その過程での重要な出来事や影響に焦点を当てます。
1. 古代から中世:アイヌの時代
北海道には古くからアイヌ民族が住んでおり、彼らは狩猟、漁業、採集などを通じて生活していました。アイヌ文化は独自の特徴を持ち、この地域の歴史や文化形成に大きな影響を与えました。
2. 江戸時代:幕府統治下の北海道
江戸時代に入ると、北海道は蝦夷地と呼ばれ、幕府の統治下に置かれました。幕府は北海道の国境警備や交易を管理し、この地域との関わりを強化しました。しかし、本州との接点は限られており、開拓はほとんど進んでいませんでした。
3. 幕末から明治時代:開拓への動き
幕末になると、北海道への関心が高まりました。特に、外国船の侵入から北海道を守る必要性が認識され、幕府は海防政策を強化しました。また、この時期には北海道への開拓の動きも見られましたが、まだ本格的なものではありませんでした。
4. 明治時代:開拓の本格化
明治時代に入ると、北海道開拓が本格化しました。1872年には開拓使が設置され、北海道の調査や開発が進められました。政府は土地の分配や移民の促進などを行い、北海道の開発を推進しました。
5. 移民と新たな産業の興隆
北海道開拓には多くの移民が参加しました。本州や他国からの移民が北海道に入植し、農業や漁業、林業などの産業を発展させました。また、新たな技術や文化ももたらされ、北海道の発展に貢献しました。
6. 開拓の進展とインフラの整備
明治時代後半から大正時代にかけて、北海道の開拓は急速に進展しました。鉄道や道路の整備が行われ、新たな町や村が建設されました。これにより、北海道の内陸部や山間部へのアクセスが改善され、開拓が加速しました。
7. 現代の発展と課題
現代に至るまで、北海道はその豊かな自然と多彩な産業で発展を続けています。観光業や農業、漁業、林業などが主要産業として挙げられ、地域経済に大きな影響を与えています。しかし、人口減少や環境問題などの課題もあり、これらに対処するための取り組みが求められています。
まとめ
北海道開拓の歴史は、日本の近代化と国家の発展において重要な段階を占めています。多くの人々がこの地域に移住し、豊かな自然を活かした産業が発展しました。現代においても北海道は日本経済の重要な拠点のひとつであり、その歴史と文化は今なお多くの人々に影響を与え続けています。
―――
 このあまりにも一般的、表面的な説明でしかない文章をそのままか、あるいは「です、ます」を「である」文体に変えただけで提出しても及第点は取れないだろう。北海道への入植者を「移民」と呼ぶなど語彙の不正確さも気になる。そしてなによりも字数が足りない。そこで以下のような質問をChatGPTに出してみた。
アイヌ民族とその文化
*江戸時代における外国船の北海道来航
*江戸時代における北海道開拓
*明治時代の北海道開拓
*昭和から平成にかけての北海道の発展
*札幌の歴史
その回答のなかから使えそうな情報・文章を選択し、最初の文章と合成して作り上げたのが以下のレポートである。(なお、内容が正確かどうかについて私は一切責任を負いません)。
―――
〈はじめに〉
 北海道開拓の歴史は日本の近代化と国家の発展において重要な役割を果たしてきた。広大な土地と自然資源に恵まれた北海道には近代になると新たな生活を求めて多くの人々が移住し、開拓に取り組んだ。本レポートでは、北海道開拓の歴史について探求し、その過程での重要な出来事や影響について述べてみたい。
(1)近世以前
 古代から中世にかけて北海道にはアイヌ民族が住んでおり、彼らは独自の言語と文化をもち、自然界や動物、祖先などの霊的存在に対するアニミズム的な信仰をもっていた。自然との共生を大切にし、自然の力を尊重しつつ、クマやエゾシカ、鮭などの動物や魚を狩猟・漁労し、山や森、海からの恵みを受けながら暮らしを立てていた。
(2)江戸時代
 江戸時代に入ると北海道は蝦夷地と呼ばれ、幕府の統治下に置かれた。江戸時代初期には、北前船と呼ばれる船が主に北海道の松前や函館などの地域との交易を行い、そこでの交易港の整備や交易品の増加によって、北海道の開発が進んだ。幕府は北海道の国境警備や交易を管理し、この地域との関わりを強化しようとしたが、当初は本州との接点は限られており、開拓という側面での発展はあまりみられなかった。
 ようやく江戸末期になって北海道への関心が高まってきた。その関心の一つの中心は日本の領土を守るという観点であった。当時の日本は鎖国政策の下で外国との交流が制限されていたが、北海道はその隔絶された地理的位置や北方海域の荒天などから、日本の他の地方よりも外国船の接近が比較的容易であったため、ロシア船が北海道に来航することがあった。このような外国船の侵入から北海道を守る必要性が認識され、江戸幕府は海防政策を強化することをせまられた。
 しかしいつまでも外国に対して門戸を閉ざすことは不可能であった。1854年に「蝦夷条約」がアイヌの指導者とロシアの間で結ばれた。アイヌがロシアと交易する権利を認める内容であり、これにより、ロシア船はアイヌとの交易を通じて北海道に接近し、貿易を行うようになった。1855年には日露和親条約が締結され、これにより北方の日本海および北海道地域での日本とロシアの貿易が解禁された。また、1857年には、アメリカのペリー提督の率いる黒船が北海道の沿岸に接近し、北海道の函館に対しても接触を試みたとされている。
 開拓に直結した問題に関しては開拓使の設置が重要である。開拓使は1821年に設けられ、蝦夷地の開発や統治を担当し、農業や漁業の振興、道路や港の整備などの任にあたった。また、蝦夷地の探索や地図の作成、土地の調査も行われた。北海道の南部に位置する函館には、箱館奉行所が設置され、北海道の統治と外交を担当し、蝦夷地とアイヌ民族との交流や貿易を管理した。また幕府は農民や商人などを北海道に移住させ、開拓地の開墾や経済活動を促した。特に東北地方からの入植者が多く、彼らが新たな農地開拓の担い手となった。
(3)明治時代から大正時代にかけて
 明治時代に入ると北海道開拓は日本政府による大規模なプロジェクトとして行われ、開拓が本格化することとなる。1872年には開拓使が設置され、北海道の調査や開発が進められた。政府は土地の分配や移住の促進などを行い、北海道の開発を推進した。入植が奨励され、本州や他の地域からの多くの人々が北海道に移り住み、平野部を中心として農地の開墾などにたずさわった。また、新たな技術や文化ももたらされることになった。これらの入植者なしに北海道の農業や漁業、林業などの産業発展は考えられない。
 鉄道や道路の整備も明治時代後半から大正時代にかけて急速に進展し、新たな町や村が建設された。これにより、北海道の内陸部や山間部へのアクセスが改善され、開拓が加速した。また札幌をはじめとする都市の建設も取り組まれた。1876年には札幌農学校(後の北海道大学)が設立され、北海道の教育に貢献するのはもちろんのこと、農業や工業の発展にも大きな役割を果たすこととなる。
(4)昭和以降
 昭和から平成にかけての北海道の発展は、農業、漁業、工業、観光など多岐にわたる分野で進展をみた。以下に、その主な点を挙げる。
*農業の近代化
昭和から平成初期にかけて、北海道の農業は近代化が進んだ。新たな農業技術や機械化が導入され、生産性が向上した。また、穀物や野菜などの生産量が増加し、北海道は日本有数の農業地帯となった。
*漁業の発展
北海道は豊富な漁場を有しており、昭和から平成にかけても漁業は重要な産業であった。特に昭和40年代から50年代にかけて、新たな漁業技術や船舶の発展により北海道の漁業は発展した。
*工業の成長
北海道には豊富な天然資源があり、昭和以降、鉱業や製造業などの工業も発展した。特に石炭や鉄鉱石の採掘が盛んであり、それに伴って製鉄業や化学工業なども発展した。
*開発事業
平成時代に入ると、北海道の開発事業が進展した。特に道路や鉄道の整備、港湾施設の拡充などが行われ、交通インフラの整備も進んだ。また、冬季の交通アクセス向上のために新千歳空港函館空港の整備も行われた。
*観光業の振興
北海道は美しい自然や温泉などの観光資源が豊富であり、現代では観光業は北海道の重要な産業である。特に冬のスキーリゾートや夏の自然観光が人気を集め、北海道は国内外から多くの観光客を受け入れる地域となっている。例えば1950年に初めて開催された札幌雪祭は世界的な観光イベントとして知られ、札幌の観光業を支える重要な催しとなっている。
〈まとめ〉
 以上見てきたように、現代に至るまで北海道はその豊かな自然と多彩な産業で発展を続けてきた。農業、漁業、工業、観光などに関して北海道は現代の日本経済の重要な拠点のひとつであり、その歴史と文化は今なお多くの人々に影響を与え続けている。しかしその一方で札幌など都市部への人口集中、地域間格差などの問題が生じており、これらの問題への対応が重要な課題となっている。
―――
 どうだろうか。くだらないレポートではある。表面的な羅列に終始し、検証も掘り下げもされていない。書き手が何かを理解して書いているという感じがしない。一言でいえば無責任な文章である。私が採点者であるなら「優」や「良」は与えない。では「不可」なのか。これは悩む。自分で作った文章ではないとしても、丸写しでもなさそうである。それなりの「努力」をしている。「可」くらいはやってもいいのかな? あとは何を基準にして「可」か「不可」を決めたらいいのか。内容上の不正確さや大きな間違いがないかどうか、講義内容にどれだけ触れているかどうか、この2点を実質的に判断することになるのだろう。つまり、ねつ造レポートであってもこの2点を偶然にもクリアーしていれば「可」は取れることになる。私がこのレポートを作るのに要した時間は4~5時間。サボリ学生にとってダメモトで作ってみる価値はあるのではないか。

ChatGPT事始め

 数日前に、〈大学生、AI丸写ししリポート提出も・・・教授「試験のあり方自体変えなければ〉という見出しのついた読売新聞のネット記事を見かけた。おおむね以下のような内容である。
 全国大学生協連の調査によると、チャットGPTなどの生成AI(人工知能)について、大学生の2人に1人が使った経験を持ち、利用経験はないが、今後使ってみたいという学生は回答した約1万人の3割近くに上る。〔利用経験はないと回答したのが1万人ということか? そうでないと辻褄が合わない。引用者〕
 ある大学教授は「AIが作成したリポートには、授業で触れたデータや視点が盛り込まれておらず、すぐにそれとわかる。にもかかわらず、平気でAIの回答を丸写ししたリポートを提出する学生があとを絶たない。対策として、授業で学んだことを踏まえて書くことといった条件を課しているが、AIの登場で、試験のあり方自体を変えなければいけない」と話している。
 生成AI登場後、AIにリポートを書かせないよう注意喚起する大学が相次いでおり、文部科学省も昨年7月、AIにリポートを書かせる行為は「学びを深めることにならない」「ひょう窃に当たる可能性がある」として、各大学にルールを整備するよう促している。だが学生に、AIに潜むこうした危険性が十分には浸透していない。
 リポート作成に生成AIを使っているというある学生は、AIが作った文章の順番を入れ替えたり、堅苦しい表現を平易な言葉に置き換えたりして仕上げているが、「ネット検索と同じ感覚。罪悪感を持つこともない。この便利さに慣れると、もう後戻りできない」と明かす。一方、別の学生は、AIの安易な利用が独創性や著作権を軽視する風潮につながりかねないことを心配する。「法律やモラルが追いついていないのに技術ばかりが進化していく状況は危険だ」と感じているという。
 金子元久・筑波大特命教授(高等教育論)は「AIの回答だけでは対応できない問いを示すなど、教員側の工夫が一層、重要になる。出力された文章には虚偽の情報が含まれるなど、AIの危険性を教える必要もある」と指摘している。
 以上が記事の要点。これを読んで私がまず思ったのは、そもそもリポート試験というやり方が不正を誘発する性質を持っており、それは昔も今も変わらないという点である。今、問題になっているのは、AIの文章をコピー&ペーストし、少しぐらいは整形するかもしれないが基本的には自分で書いたのではないものを自分が書いたものとして提出する行為である。しかし、誰かに書いてもらった文章を書き写して自分のリポートとして提出することはAIの生まれるずっと以前から可能だったのであり、今始まったことではない。そんな不正がどれくらい実行されていたのか分からないが、少なくとも可能性としてはあり得たし、現在もあり得る。あるいはそこまでしなくとも参考文献の文章を写し取り、引用と示さずに利用することぐらいは丸々全部でなくとも部分的になら多くの学生がやっていたのではないか。なかったとは言い切れないだろう。そしてAIの登場によって、自分が書いたのではない文章を気軽に自分のものとする可能性が従来とは比較にならないほどに広がり、それゆえ大きな問題となっているというのが現在の状況。
 疑問もわいてくる。AIの作文を丸写しするとか、あるいは文体を手直ししたり文章の順序を入れ替えたりするだけでほんとうにリポートなるものができあがるのものなのか。人間に匹敵する文章作成能力が人工知能にはそなわっているのか。大規模言語モデルとかいわれても私にはピンとこないが、とてつもなくでっかい計算量とデータ量とパラメーター数(?)を取り込むことによって人間の言語に近い言語能力を得ることができるらしい。気になる存在ではある。ほんとうに信頼していいのだろうか。私もこれまでも検索エンジンにはお世話になってきたけれど、生成AIとか、対話型AIとか、チャットボットとか呼ばれるもの(これらの区別は私にはつかない)は必要もないので未経験であった。今回CharGPTを試しに使ってみた。といっても、あくまで遊びだけれど。
 ChatGPTを取り上げていたNHKの科学番組「サイエンスZERO」(2023.6.11)ではこのシステムが数学に弱いことが指摘されていた。4X-3Y=-9と3X-7Y=17からXとYを求める連立方程式が解けない。あるいは、ジャグラーが投げ上げるボールは16個でその半数がゴルフボールであり、さらにその半数が青い色である。青い色のボールは何個かという問題に8個と答える。同種の問題を多数解かせたら正答率は17%程度であったという。ちょっと驚いてしまう。こいつひょっとしてアホなのか。ただしこのボールの問題では質問の仕方を変えて、ゆっくり考えなさいなどとアドバイスめいた文言を付け加えると正答率は一挙に70%を超えるということも紹介されていた。言葉には敏感に反応するらしい。人間的であるともいえるし、大規模言語モデルの面目躍如ということなのかもしれない。それでもとにかく数学は苦手なのである(小学生並み?!)。ではとびきり言語的な問題なら得意であるはずと考えられるがどうだろう。次に紹介するのは私の実験。ChatGPTに「萩原朔太郎のような詩を作ってください」と依頼してみた。それに応えてくれたのが以下の3行5連の詩。

秋風に舞う紅葉の舞い落ちて  
満月の下、寂寥の庭に  
哀しみの調べがそっと響く

静かなる夜の青空の下  
星々が瞬く闇の中で  
一つ一つが物語を紡ぐ

やがて時の流れも忘れ去られ  
ただ、自然の声だけが聞こえる  
心の奥底で響くその調べ

遥かなる大地が語る物語  
人々の行く先を照らす光  
そこに在るは、永遠の営み

萩原の心の中に宿る  
自然の詩の魂よ  
永遠に響くその調べよ

ん、これが朔太郎か! 「萩原の心の中に宿る」なんてやればいいと、とんでもない誤解をしているのか。では、中原中也のような詩を作ってと注文したらどうなったか?

夜の闇に溶け込む影  
星屑のような寂寥の中  
遠い鐘の音が響く

ひとりきりの海辺に立ち  
波の音に耳を傾ける  
時の流れを感じながら

夢見るような世界が広がり  
心の奥深く響く声  
その音色は無限の哀しみ

瞬く星々の輝きの中で
自らの在り方を問う  
ただ、虚空に問いかけるばかり

中原の心の中に響く  
孤独の詩の魂よ  
永遠に続くその旅路を

 あまり変わらないではないか。そして、またしても「中原の心の中に響く」である。続いて宮沢賢治三好達治草野心平などとやってみたが全部この調子。「朝焼け」「夕焼け」「古い街並み」「遠い夢」「人々の影」「過ぎ去った日々」「美しき記憶」「かすかな風」「あの日の静けさ」などを並べたら詩ができると考えているらしい。どういうことか。中原や宮沢などの詩は私たちこそ読み慣れているが、インターネット上のデータとしては多くはないだろう。つまり学習材料に乏しいわけで、AIとしても困っているのだろう。苦しまぎれの感が否めない。もしかしたら実在しない詩人の詩も作ってくれるかもしれない。ということで、岸田文雄のような詩を作ってとリクエストしてみると「岸田文雄風の詩」として次の8行が出てきた。

風が吹く 木々のそよぎ ぼくの心にも
時の流れを感じつつ 歩みを進める

未来の輝きを求め 夢を追う旅
その先にある景色は いつも輝かしい

悩みや苦しみも やがては遠く
希望の光が射し込む 暗闇を照らす

岸田文雄のように 心豊かに生きよう
愛と勇気を持って 世界を照らそう

 思わず拍手👏👏👏。羽目をはずすのはこの程度にして、次は趣旨を変え、純粋に日本語の問題として解ける課題を出してみた。先日の本ブログ(2024.1.23)に載せたクイズをそのまま利用。下の詩の○○○に入る適切なひらがな3文字は何か。これを解くのに作者工藤直子についての知識はまったく必要でないはずである。日本語のセンスだけが問われる。

  ○○○ぜ
       かまきりりゅうじ

もちろん おれは
のはらの たいしょうだぜ
そうとも おれは
くさむらの えいゆうだぜ

しかしなあ
おれだって
あまったれたいときも
あるんだぜ
そんなときはなあ
おんぶしてほしそうな
かっこになっちまってなあ
  ・・・・・・
○○○ぜ  

 ChatGPTの答は「びみょうぜ」。「びみょう」は4文字だが3音節ではある。3文字という条件はクリアしていると認めることにしよう。さらに大目に見て「びみょうだぜ」と訂正したうえで語感的にはどうかを考えてみよう。「たいしょう」「えいゆう」を自任するかまきりも、その格好を見ると「あまったれたい」「おんぶしてほしい」と思っているように見えるところがおもしろい。そのアンビバレントな感情を「びみょう」と形容しても間違いではない。なるほど「甘ったれで、おんぶしてほしい英雄」なんて微妙ではある。しかしそれは、「たいしょう」「えいゆう」という語を「あまったれたい」「おんぶしてほしい」という語と対比させ、概念としての矛盾から引き出された、いわば辞書的な解釈なのである。かまきりが自分の矛盾した感情を言い表す最後の一言、しかもユーモアの仕上げとなるべき最後の一言としては「びみょうだぜ」は的を外しているといわざるを得ない。間違いであると断言してもよい。ここはやはり「てれるぜ」しかないだろう。
 ChatGPTが数学を苦手とする理由は、数式を対象とすることが元々考えられていない、すなわちコンセプトが違うからだろうと推測できるが、言語に強いはずの大規模言語モデルがなぜ詩をうまく扱えないのか。これも私が勝手に推測するには、詩は言語の常識的な使い方(辞書に載っている使い方)を逸脱するところに生れるものであって、その詩的言語を生成AIはあまり学習していないのではなかろうか。言語を学習すればするほど詩的言語に疎くなるという逆説さえ成立しうる。さらには日本語の詩の場合、インターネット上のデータとしては極めて微量にしか存在しないという事情も追い打ちをかけているのではないか。つまり、詩的言語と日本語という二重の制約が影響しているのではなかろうか。
 そのように数学も詩も不得意なChatGPTではあるが、常識的な言語使用なら得意で、したがってレポートを書く手伝いならおおいにしてくれることが期待できるのではないか、と思われる。どんなレポートができあがるのか興味がわいてくるが、今回はここまで。ChatGPTに依存したレポート作成については改めて書きたい。

 

野次馬的考古学

 明智光秀坂本城は本丸の石垣と考えられる物のごく一部が琵琶湖の水位が下がったときに姿を現すだけで、その実態がつかめず、幻の城とか何とか言われてきた。本ブログでも以前にその石垣の写真を載せたことがある(2021.11.15)。この秋冬もまた水位が下がり、その石垣が現れたそうであるが、私は見に行ってはいない。もう一度見たところで感慨が増すようなものでもなかろう。第一、あれが坂本城の石垣だと言われても今ひとつピンとこない。ところが、最近、地面の下から坂本城三の丸のものと思しき石垣がみつかり、歴史的にも考古学的にも意味深い発見であるとして大きく報道された。こちらは素人目にも石垣と分かるだけの姿と量で現われたのである。私も野次馬根性を発揮してさっそく発掘現場へでかけてみた。下坂本3丁目という情報だけを頼りに20分ほど自転車で探しまわり、JR湖西線の線路のすぐ東側(琵琶湖側)の新しい住宅が立っている一角を抜けたところに下のような発掘現場を発見。




 私が上の写真を撮ったのは2月8日であるが、10日と11日には現地説明会が開催された。1回あたり150人の定員で10日は3回、11日は4回開く予定と告知されていた。整理券が当日にJR比叡山坂本駅前の坂本石積みの郷公園(広場みたいな所だが)で配布されるのであるが、私などはいったいどれほどの人が来るのかに興味がわく。大きなニュースになったのだからたくさんの人か、それとも考古学的な関心のある人ってそれほど多くはいないだろうからちらほらの人なのか。この点での私の興味は考古学的でなく考現学的。人出が少なくて並ばなくていいならば専門家の説明を聞くのも悪くないな、行ってみようか、なんて思っていたけれど、結果は下のとおり。整理券を求めて長蛇の列。

列は道路へ延々と続く。

 これほどたくさんの人を坂本界隈で目にしたのは初めて。後で聞いたところでは両日で2000人を超える参加者であったとか。予定の倍だが、説明会の回数を増やしたのか、1回の人数を増やしたのか、どうしたのだろう。この点は確認していないけれど、はるばるやって来た人たち(も多かったはず)をまさか手ぶらで帰らせたりはしなかっただろう。なお、この日の資料は大津市文化財保護課のサイトにアップされているのでゆっくり見ることができる。
 さて、気になるのはこの石垣の保存である。例えば下の写真。 これは昨年の7月にやはり発掘現場説明会のおこなわれた穴太遺跡(南川原地区)の現在の様子。場所は京阪石坂線穴太駅から琵琶湖側へ少し行った所にあり、坂本城跡の近くでもある。といっても坂本城と関係はなく、古墳時代の遺跡である。現在ではすでに埋め戻されて、宅地造成工事が進行中であり、遺跡を思い起こさせるようなものは何もない。多くの遺構はこのように発掘と調査が終われば現状保存されることなく、再び土の下に戻される運命にある。
 今回の坂本城石垣について滋賀県の三日月知事は13日の記者会見で「きれいな状態で、しかも従来の予想とは異なる場所から出てきたので、大変注目している」「『埋め戻すのはもったいない』とか、『ほかにも調べてほしい』という声を現地でも聞いた。しかし、私有地であることや、民間企業の開発計画との兼ね合いもある。どう文化財を守っていくのか、大津市ともよく議論していきたい」と述べ、大津市や開発業者と話し合い、見つかった石垣などの保存を検討していく考えを示したと報道されている。いくらなんでもこの石垣を埋め戻して、その上に家を建てるなんてことはないと思うけれど。
 次は私がいつも散歩する途中で見かけている光景。現在、日吉大社からJR比叡山坂本駅まで東西に走る道路が拡張工事中である。私は最初、日吉大社の参道を広げているのかと思ったが、そうではなくて幹線道路としての機能を確保するためであるとか。要するに自動車がもっとたくさん通れる道にするのだろう。工事はだいぶ進捗していて、京阪電車坂本比叡山口駅を出て左(日吉大社比叡山)側を見れば☟
右(琵琶湖)側を見れば☟となっている。一部、掘り返したままになって囲ってあるところが見えるが、近づくと☟

私には分らないが何かの遺構らしい。無造作な囲い方からしてそれほど重要なものではないのだろう。道路が完成したあかつきにはアスファルトで覆い隠されてしまうのだろう。そんなふうに考えると、私たちの暮らしている地面の下には過去の遺物がいっぱい埋もれているはずだという思いに行きつく。当たり前といえば当たり前だけれど。
 下の写真は、先日訪れた「大津市埋蔵物文化財調査センター」で来館記念としてくださったシジミの貝殻で、縄文時代の粟津貝塚から出土したもの。同センターではちょうど坂本城の1979年の坂本城本丸とされる範囲での発掘調査で出土した瓦や陶器を展示中。さらに、大津市里山にある山ノ上遺跡(須恵器を焼いた窯跡)の展示もしていた。
山ノ上遺跡で焼いていた鴟尾〔しび〕の模型☟
ひょっとして大津は考古学上の宝庫?












工藤直子さんの詩

 半年前に『工藤直子全詩集』が出た。30年か40年か昔に読んだ『てつがくのライオン』はとてもおもしろかった。でも、その本は誰かに読めと勧めて貸したかして行方不明。今、私の手元にはハルキ文庫版の『工藤直子詩集』があり、時々読む。今回出た『全詩集』は9000円。ちょっと高いな。最初は図書館で借りて目を通した。10代の工藤さんが書いた未発表の詩や300部発行の私家版にしか載っていないらしい詩、雑誌や新聞に発表された詩などを含め工藤さんのすべての詩が載っている。やっぱりそばに置いておきたいな。エイヤッと買った。以下、いくつかの詩を取り上げ、蛇足ながら私の感想を付け足した。

◇まずは未発表の詩をひとつ。

晴れた日

ちょうど こんな日だった
城の松の木をすかして
空を眺めたのは
雲の色が目にツンとしみて
“コンチクショウ”と
石を投げたっけ

*『全詩集』の末尾に工藤さんが自分と詩の関わりを簡潔に振り返った「小さい頃 出会った、コトバたちが・・・」という文章がある。そこでは、中学高校時代に島崎藤村中原中也大手拓次などに夢中になったと述べられていて、石川啄木の名は挙げられていない。しかし、どうも啄木も愛読していたのではないか。上の詩は「不来方〔こずかた〕のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」という啄木の歌を思い起こさせる。
 不来方城は盛岡城の別名で、これは啄木が15歳の頃の盛岡中学時代を回顧して詠んだ歌。工藤さんの詩は1951年と明示されているので15歳か16歳の時のもの。「ちょうど こんな日だった」と回顧した形になっているけれど、15、6歳あるいはそれに近い年頃の少女の気持ちを表現したものと理解していいだろう。その頃彼女は彦根在住だったので彦根城の松の木越しに青空と雲を眺めてこの詩を作ったのかもしれず、啄木の歌とは直接の(あるいは間接的にも)関係はないかもしれない。それでも、共通する感受性があると私は感じる。子供から大人へと変身しつつある若者の屈託をかかえた心。何かから逃れるようにしてやって来たお城。見上げると青い空。心は一瞬救われる。というのが共通した感受性。ただしその先はちょっと違う。啄木の心はその空に吸い込まれ一体となるが、直子少女の心はそこまで行かない。青空に雲が浮かんでいるように心にも何かしらわだかまりが湧き上がってくる。実際にか、あるいは心の中でかコンチクショウと叫び、石を投げずにはいられない。そのように屈折した思春期の心。

◇屈折した心は同じく未発表の詩(1953年)で次のように表現されている。



くたびれた
たくあん石のように
わたしの心は
かびの匂いがする

*1行目の「くたびれた」は2とおりに解釈が可能。「ああしんど」という作者のため息であり、この1行で切れていると取るのが解釈1。「くたびれたたくあん石」と続けるのが解釈2。私は両方とも妥当であり、どちらかに決定などしないで両方に解釈したらよい、むしろそうすべきだと思う。人間もたくあん石もくたびれているのである。それにしても、17、8歳の直子さんの心がかびの匂いがしたとは!

◇次の詩も未発表のもの(1951年)。

悲しみって……

悲しみって
ほんとうに
胸いっぱいに
なるものですね

こころって
ほんとうに
からっぽに
なるものですね
わたし
しらなかった

◇そんな10代の直子さんが見た太陽はまだ孤独であった。次もやはり未発表の詩(1954年)。



あおい あおい
  お空の真ン中で
あぶらのしずくのような
  おひさまが
きんきらきんきら
  光っています
だあれもいない
  お空の真ン中で
ひとりぼっちのさみしさを
  じっとかみしめて
きんきらきんきら
  光っています

◇でもみんなが心配してくれたおかげでその後太陽は孤独でなくなった。次の詩はそれの始まりの一端を伝えるエピソードと読める。直子さんの孤独感も癒されたのかな。

てんてん(でんせつ・てんとうむし)

まわるほしのまんなかで たいようはひとりぼっちだった ひとりというのは からだによくない たいようは メソメソひえこんだ こりゃいかんとみなはそうだんして あそびあいてをおくることにした てんとうむしが「ぼくがいこう」といった たいようも ぼくも あかくてまんまるで 「おにあい」だろ? それいらい てんとうむしは たいようにむかって とびあがり アッチッチとなったりするので くろいこげめがてんてんとついた

*言われてみれば、赤くてまん丸の太陽とテントウムシって意外といい友達なのかもしれない。それにどちらも黒点まであるし! それから天に到達する天到虫などとダジャレ解釈だってできるし!!

◇ともあれ今では太陽は遊び好きの元気者である。

いつも いまでも いつまでも

「おーい」
きょうも空から太陽が呼びかけている
「なーんだい」
きょうも緑色の地球が
へんじしている

「いっしょに あそぶもの
このゆび とまれ」

あはは
また いってるよ
いつも いまでも いつまでも
太陽は あそびずきだね

◇直子さんも元気に野原や森や空や海のいろんなもの達と言葉で遊んでいる。ライオンに哲学させたり、イルカにクジラ宛の手紙を書かせたり、地球にでんぐりがえりさせたり、風に子守唄をうたわせたり、アマガエルとシジミチョウにおしゃべりさせたり、クヌギおやじにニュース放送をさせたりで、直子さんの詩の世界は動物、虫、花、木、海、空、太陽、月、風、等々がいっぱい。なかでも『のはらうた』シリーズは「のはらみんなのだいりにん くどうなおこ」さんが「のはらむらのみんなが しゃべるたびに、うたうたびに、・・・かきとめました」というもので、「あげはゆりこ」「ありんこたくじ」「からすえいぞう」「こざるいさむ」「こぶたはなこ」「すみれほのか」「へびいちのすけ」「けやきだいさく」「にじひめこ」など100人を超える人物(?)の歌を掲載。子供たちに人気があるのは当然として大人が読んでも楽しい。次の詩は小学校1年生の国語教科書に載せられたもの。

かたつむりのゆめ
      かたつむりでんきち

あのね ぼく
ゆめのなかでは、ね
ひかりのように はやく
はしるんだよ

◇『のはらうた』のなかで最も多くの作品(10篇)を提供している「こねずみしゅん」君の1篇。

あきのそら
       こねずみしゅん

くぬぎばやしで
どんぐりを
だいていたら
かぜが ひゅうと
とおりすぎました
みあげると
こえだを すかして
あおいそらが みえました
きれいだよ きれいだよ と
なんかいも いいたくなる
あおい そらでした

しんこきゅうしたら
こころの なかまで
そらいろに そまりました

*こねずみしゅんの心は15歳の啄木と同じように青空と一体化したぞ。よかったね。

◇『のはらうた』のなかで私が好きな詩を使ってクイズを出してみたい。次の詩のタイトルと最終行の「○○○ぜ」には同じひらがな3文字が入るが、それは何でしょう?

○○○ぜ
      かまきりりゅうじ

もちろん おれは
のはらの たいしょうだぜ
そうとも おれは
くさむらの えいゆうだぜ

しかしなあ
おれだって
あまったれたいときも
あるんだぜ
そんなときはなあ
おんぶしてほしそうな
かっこになっちまってなあ
  ・・・・・・
○○○ぜ

*カマキリの恰好がほうふつとしてくる。そして、あの格好であの気持だったのか。思わず膝を打って笑ってしまう。ここに入るのは「おこるぜ」「わらうぜ」「なけるぜ」「こけるぜ」「はしるぜ」「だるいぜ」「へこむぜ」「あせるぜ」なんかではありません。答は末尾で。

◇工藤さんには『のはらうた』以外にも虫や動物の詩がたくさんある。次の詩は『のはらうた』の「みのむしせつこ」さんとは別のミノムシが主人公の作品。

ゆれるミノムシ

クヌギの木陰で やすんでいたら
アタマのうえで声がした
「こまったもんだわ、まったく」
みあげるとミノムシが 中途半端に ぶらさがっている
それは じつに「こまった」ふうにみえる

「なにか 手伝えること ある?」
「あたしったら……
のぼりたいのかしら くだりたいのかしら」
ミノムシは どんどん こまっているので
わたしは どんどん 手伝いたくなる

そこで
「あんた まるでクヌギの首飾りみたく かわいい」
と つんつん つついて ゆらしてやる

ミノムシは わらった……
  ようにみえた
ミノムシは「中途半端がいい」と思った……
  ようにみえた

初夏のある日の 林のなかの はなし

*上か下か、どちらに行きたいか分からず決定不能に陥って困っているミノムシ。それを見た工藤さんはますます困らせてやろうと突っついてやる。上へも下へも行かずにそんなふうに揺れているのがいいんじゃないの、かわいらしいよ、と。するとミノムシは、なるほどね、中途半端でいるのがいいかもねと笑っている(悟っている? 居直っている?)・・・ように見える。ほんとうはどう思っているのか。これがミノムシでなくて人間だったら深刻になってしまうところである。例えば次のような短歌。「自動エレベーターのボタン押す手がふと迷ふ真実ゆきたき階などあらず」(富小路禎子)。

◇工藤さんの詩に登場する動物たちはだいたいフレンドリーで、互いに仲良しである。しかし、そうでないこともある。

ライオン

雲を見ながらライオンが
女房にいった
そろそろ めしにしようか
ライオンと女房は
連れだってでかけ
しみじみと縞馬を喰べた

*最後の1行が強烈。音韻とイメージが巧妙に組み合わされていて、一度読めば忘れることができない。simijimitosimauma。3行目の「めしmesi」とも響き合っている。ライオンがしみじみと縞馬をめしにしたのは音に素直に従っただけなのかもしれない。それとも自然界の法則に従ったのだろうか。別の詩「夕陽のなかを走るライオン」では孤独なライオンは縞馬と友達になったのだけれど・・・

◇最後に、何がなんだかわけが分らないけれどおもしろいと感じた詩(!)をひとつ。『蕪・象・船長・猫…たち』(1969年私家版)初出で、それ以後他に転載されたかどうかは不明。10代の直子さんでも『のはらうた』の直子さんでも書かなかった不思議な詩である。

都会のたくさんの卵への葬式の歌

あんたらは年をとりすぎたので
口紅をぬりながら 死にたいと叫び
そうだ死ぬべきだというと
たちまち ふくれて また10年生きのびる
部屋は あんたらと あんたらの卵でいっぱいだ

都会の温度は卵にぴったりで
あんたらのスカートのなかに
二つや三つや六つや七つの卵がぬくもっている
あんたらは足もとがみえないほど ふくらんで
くすくす笑って空に浮かぶのだって?

知りあいの彫刻家は 卵あたまを
あとからあとから彫るが
人間そっくりなので売れやせん
そのうちあんたらは もっと年をとりすぎたので
もっと口紅をぬりながら もっと死にたいと叫び
もうだれも何も言わないから
不機嫌に卵をふやしてなさい
なぜあんなのっぺりした卵を
愛したり頬ずりしたりするかといえば
それはおそらく陽気のせいであって
そろそろ都会は卵でうずまり
あんたらはじめ みんな目を閉じてしまう

しかし 卵は割るべきで
かきまわすべきで喰べるべきで
卵も嵐も踏みこえて
あんたら笑って立って言ってみな それ
卵の葬式
卵の葬式
卵の葬式
卵の葬式

◇クイズの答「てれるぜ」

 

2023年に私の見た紅葉

万葉集には秋をうたった歌がたくさんある。次の一首もそのひとつ。
一年〔ひととせ〕にふたたび行かぬ秋山を情〔こころ〕に飽かず過〔すぐ〕しつるかも 万葉集2218
*最初私はこの歌の意味を「一年に一度しか訪れることのない秋の紅葉した山を見ていると飽きることはない、時の経つのも忘れて楽しんだことである」と理解したが、そうではなくて「一年に二度とはめぐって来ない美しい秋山の景色を、満足するまで賞美せずにすごしてしまったことである」(岩波、日本古典文学大系)が正解らしい。奈良県立万葉文化館の「万葉百科」というサイトにも同様の解釈が載っている。「情に飽かず」を「満足するまで賞美せずに」と理解するには古語に関する私の知識が足りなかったということ。ただし前半部分はどうだろうか。「ふたたび行かぬ」を作者が再び行かないと解釈するのは無理があるのか? 私の語感は「行く」を「めぐり来る」と解釈することに抵抗する。こちらは納得できないままである。しかしそれはさて置き、この秋、何故だか分らないが私はやたらにたくさん紅葉の写真を撮った。情に飽きるほどに。大半は毎日の散歩にカメラを携えてのもので、坂本とくに日吉大社が中心である。それ以外のものも含めて幾枚かを以下に載せておきたい。

日吉大社

西教寺ひとり立ち言葉を持たぬ木の故にただましぐらに黄葉せりけり 田井安曇

園城寺三井寺

皇子山公園

ちらねどもかねてぞをしきもみぢばは今は限りの色と見つれば 古今和歌集264
*真っ盛りの紅葉はあとは散るしかない。最も美しいときに死と共存しているのが紅葉というものかもしれない。

☟京都、紫明通イチョウ

☟加茂川右岸(西側土手)から比叡山を眺望

☟少し右を見れば大文字山

京都大学北部構内のイチョウ並木わくらばに音たててジープすぎゆきぬ銀杏並木をひとり歩めば 湯川秀樹
*京大北部構内には農学部と理学部がある。門を入ったあたりはイチョウ並木道。かの湯川博士もここをいつもとおっていらっしゃったはず。ジープとはアメリカ占領軍のジープらしい。戦後間もない頃の風景。

12月に入ると紅葉の季節も終盤。でもこの時期の地面に散り敷く落葉こそ一番美しい気がする。

☟再び日吉大社


秋山にもみつ木〔こ〕の葉の移りなばさらにや秋を見まく欲〔ほ〕りせむ 万葉集1516
*「もみつ」は紅葉(黄葉)するという意味の動詞である。これが「もみづ」となり、その連用形の名詞化したものが「もみぢ(紅葉、黄葉)」であると古語辞典にはある。

吹く風の色のちくさに見えつるは秋のこのはのちればなりけり 古今和歌集290

夕つ日の照らすヤマボウシ四五枚の残る葉朱〔あか〕し目の前の枝 松村栄一

秋山を一日〔ひとひ〕歩きて夕焼〔ゆふや〕くる雲のあたりは海とおもふに 結城哀草果

 

比叡山と延暦寺散策

 比叡山に初めて登ったのは小学校4年か5年の夏休み。叔父に連れて行ってもらい、京都の出町柳から叡山電車で八瀬まで、そこからケーブルカーとロープウェイを乗り継いで山頂まで。その後何回か登ったことがあるが、下から上まで徒歩でというのは大学の陸上部で合宿した際に1回経験しただけ。歩くというより駆け上がるという感じで、とてもしんどかった記憶がある。現在では散歩しながら麓の坂本から比叡山を眺めるのがほぼ日課になっている。とくにこの頃は夕焼けが美しく、散歩しながらもっとも心安らぐ季節である。先日、久々にケーブルカーで上まで登り、これまで行ったことのない横川まで足を延ばした。
 まずは京阪電車坂本比叡山口駅の斜め向かいにある坂本観光案内所に立ち寄り、比叡山フリーパスを購入。このパスはケーブルカー、ロープウェイ、山内シャトルバスが乗り放題プラス延暦寺拝観料で3500円。☟

 ケーブル坂本駅から延暦寺駅まで2025メートル、11分。「景色も長さも日本一」というのがこのケーブルのうたい文句だが、長さはともかく景色はどうだか。ケーブルカーの中からは視界が木立にさえぎられることが多く、琵琶湖の眺望を楽しむならむしろ上の延暦寺駅に着いてからゆっくりと。☟
比叡山のおひざ元、坂本。左手に見えるのは私が毎日買い物をするスーパー平和堂日吉大社やJR比叡山坂本駅は右手の木立の陰あたり。☟

 延暦寺というのは1つの寺ではなく、東塔〔とうどう〕、西塔〔さいとう〕、横川〔よかわ〕の3つの地域に分散するお堂や塔や墓所や修行所の総称。
 ケーブル延暦寺駅から徒歩数分で東塔地域へ到着。ここは根本中堂、大講堂、阿弥陀堂戒壇院その他があり、バスセンターならびに大きな駐車場もあって比叡山延暦寺を巡るための中心エリア。根本中堂は現在大改修中で覆いで囲われ、外からは見えない。☟
       
 とりあえずバスセンターでシャトルバスに乗り、この日の第一の目的地である横川地域へ直行。13分。東塔―横川間は距離にして5㎞以上あり、歩けば2時間とか。トレイル歩きが目的でない限りバスは必須。横川駐車場には休憩用テントが張ってあり、田楽、草餅、みたらし団子などを売っていた。☟受付を通ってしばらく行くと横川中堂。☟


恵心堂☟
元三大師堂〔がんざんだいしどう〕☟

 ブラブラ歩いてそろそろお腹がへって来た。駐車場まで戻り、みたらし団子を食べながらバスを待つ。シャトルバスでひとつ手前の峰道まで戻り、ここのレストランに入る。人手不足みたいで、空きテーブルがあるのに順番待ちが必要。でも10分ほどで席に着けた。見晴らし抜群。☟


外の展望テラスからの眺め。左下には湖西線と坂本の街。☟

 昼食後、再びシャトルバスでもうひとつ手前の西塔まで戻る。このエリアは以前にも訪れて、静かなたたずまいのいい所だと思った。法華堂〔ほっけどう〕と常行堂〔じょうぎょうどう〕、二つ合わせて(廊下で繋がれている)にない堂と呼ばれている建物。☟


徒歩で東塔方面へ向かうと途中に伝教大師御廟である浄土院へとやって来る。とても厳かで落ち着いたたたずまい。☟

そのまま歩いて東塔地域へと向かう。途中の上り坂はちょっとしんどい。☟登り終わって下を見る。☟

西塔でバスを降りてから1時間弱で東塔地域に到着。戒壇院。☟
大講堂の鐘楼。1回撞くのは50円也。☟

 再びバスセンターからシャトルバスで今度は反対方向の比叡山頂へ。そこからロープウェイで京都側へと下降。☟ロープウェイを降りると八瀬へ下るケーブルカーの駅☟
眼下には京都、岩倉の市街。左にプリンスホテル、中央に同志社高校。☟
最近日本各地に出没する熊が比叡山にも。ケーブルカー駅のすぐそばに警告。☟時間の関係で八瀬まで下りるのは諦め、ロープウェイで山頂へとユーターン。山頂からの大津の眺め。☟もう少し右を見ると浜大津大津京タワーマンションの後ろにボートレース場と大津港、遊覧船(ミシガン?)が見える。☟

 山頂からバスで東塔地域まで戻り、坂本ケーブルで下山。行きもそうだったが立っている人が多くいて、結構な込み具合である。朝9時20分に家を出て、帰り着いたのは午後4時。大半が乗り物利用で徒歩は5㎞くらいだったか。でも疲れは十分。比叡山には紅葉する樹木は少なく全山が赤や黄に染まるということはないが、空気は澄んでいたし、東塔地域以外は人出も少なく、十分堪能できた秋の一日。