
◇透明な秋がやって来た。昔の人は「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」と秋の到来をうたったが、現代の詩人たちはどんなふうに秋を形象化するのだろうか。まずは一枚の葉っぱの落下に、それから雲と石と菊に秋を感じてみよう。
秋
壁に沿うて黄葉が一つひらひらと落ちたが――見ると白い螺旋がずうっとついてゐる。
秋
渕上毛銭
しやつくりのやうに
雲の美しさを知る
この頃である
*
秋は
そこらへんの
石までが冴えて
石も秋になつてゐる
*
やがて菊の花が
私を懐しい
お祖父さんにしてしまふ
◇しゃっくりは私たち誰もが経験したことがあり、どんなものかは分かっている。しかし、それほどしょっちゅう起こるものではない。たまに出会うだけだけれど、違和感は感じない。ああこんなものがあったんだと気づかされる。雲の美しさも似たようなもので、忘れていたのに、ある秋の日、なにげなく夕空を見上げてその美しさに気づくのである。第2節は芭蕉『奥の細道』の「石山の石より白し秋の風」という句を連想させる(この句は石山寺ではなく那谷寺で詠んだもので、石山寺の石より秋風のほうが白いという意味とは少し違うらしいが)。第3節で詩人は、菊の花を丹精込めて育てていたおじいさんを思い出しつつ自分もやがておじいさんのようになるのだろうかという思いにとらわれているのか。。
◇次に八木重吉の短い詩2編によって秋の明るさを感じてみよう。
秋のひかり
ひかりがこぼれてくる
秋のひかりは地におちてひろがる
このひかりのなかで遊ぼう
素朴な琴
この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美しさに耐へかね
琴はしづかに鳴りいだすだらう
◇人間の心も秋の美しさに静かに鳴りだす。酷暑も去り、気候も穏やかになり、体が楽になり、気持ちも落ち着いて来ると、なにはともあれ秋の訪れを素直に喜びたいものである。千家元麿の次の詩はまさしくその喜びを実直に表現している。
初秋の庭に
初秋の庭に
芙蓉が咲き
萩がこぼれ
時々風が来て
木立をゆする
百舌が来て歌ふ
友がたづねて来て
詩を見せたり、画を見せる
庭に面してゐると
自分の心も落着いて
いつも平和で楽しく
いつまでこの生活をしてゐても飽きさうもない
◇これ以上望むものはないという心境。しかし、秋の訪れを心静かに受け入れるだけではものたりず、秋の景色に叱咤激励され、精神の高揚を感じる人もいる。千家元麿と同じく白樺派に依った尾崎喜八の詩には千家にはみられない自己向上意識が強い。
秋風
けさはやく井戸端で、
まつさをな空に、
秋風の高いひびきを私はきいた。
おお蔓草の葉のむれに日は落ちこぼれ、
藤むらさきの物のかげ
さはやかに地をぬらす初秋よ!
水晶に似てつめたく、すきとほり、かつ清らかなもの、
肉親とたましひとにひとみをあけて静かにそだつ初秋よ!
天空に風がふきならす狩猟の角笛をきき、
地に青苔の石をなでる黄金の縞もつ水を見る。
心は新らしい善を願ひ、
精神はかぎりない飛躍を欲し、
堅きがゆゑにくだかんとする気魄、
未来の一切を現在に集結してこれに突き進む!
◇私なんかは秋だからといってそこまで力まなくてもいいのにと思うのだが、個人的事情や資質の違いに加えて時代的な隔たりのなせるわざか。
◇しかし、すべての人が秋の訪れを喜ばしいものとして迎えるわけではない。無関心に秋を迎える心もあれば、哀切に涙する心もある。そんな詩を1編ずつ。
十月のノクターン
つひに意味なく秋でした
ペイヴメントにアパアトの窓に
プラタナスの葉は散るだらうか
タイプライタアのやうな音をたてて
あ
口笛を吹かう
過ぎた日の美しい恋が貝殻なら
壊れた貝殻は何の風刺だらう
雲が飛ぶ
月がちぎれる
電車がヴァイオリンの真似をする
◇プラタナスの葉の落ちる音はタイプライターのようにカタカタと乾いた音しかたてない。美しい貝殻にたとえられるような恋の思い出がよみがえるわけでもなし、吹きすさぶ風に雲が飛び、月がちぎれ、電車が線路をきしませてとおり過ぎるだけ。口笛を吹いても多分かすれた音しか出ない。秋なんてこんなものさ、という冷めた気持ち。
秋のピエロ
泣笑ひしてわがピエロ
秋ぢや! 秋ぢや!と歌ふなり。
Oの形の口をして
秋ぢや! 秋ぢや! と歌ふなり。
月の様なる白粉の
顔が涙を流すなり。
見すぎ世すぎの是非もなく
おどけたけれどもわがピエロ、
秋はしみじみ身に滲みて
真実なみだを流すなり。
◇ピエロの仕事は人々を笑わせること。しかしたつきのためにおどけざるを得ないその裏には隠された涙がある。秋になるとその悲哀がことさら身にしみて、秋ぢあ秋ぢあとうたうピエロの白く塗りたくった顔にも涙が流れてしまう。ピエロは詩人の心でもあるだろう。Oの口の形で発音する秋とは英語のautumnかフランス語のautomneなのかな。
◇上の2編の詩は秋を喜ぶ感情からはほど遠い。それでも、どちらも秋を秋として受けけ入れ、様式を整えた詩としてうたい込んでいる。それに対して次の詩は秋の風景を拒絶する厳しさにおいて他に例をみない。人生に背を向けた心には秋もへったくれもない。
秋冷
寝床は敷いたまゝ雨戸も一日中一枚しか開けずにゐるやうな日がまた
なんといふわけもなく痛くなつてくる頭や、鋏で髯を一本づゝつむことや、火鉢の中を二時間もかゝつて一つ一つごみを拾い取つてゐるときのみじめな気持に、夏の終りを降りつゞいた雨があがると庭も風もよそよそしい姿になつてゐた。私は、よく晴れて清水のたまりのやうに澄んだ空を
◇なんという詩か。降り続いた雨がやみ、よく晴れて澄んだ空を見ながら思いっきり放尿したというのならある種のおもしろみがあって救いもあろうが、そうではなく、小便するのがつらくなるってどんな心か。この詩は、私たちが「引きこもり」などと簡単に呼んでいる生き方が実は深い虚無の世界に通じているらしいことをうかがわせる。この人は秋に限らず春夏秋冬すべての季節を拒絶するであろうから、この詩を秋の詩と呼ぶのはためらわれるのではあるが、こんな詩もあるということで取り上げてみた。
◇上昇があれば落下がある。秋は「実り、成熟、完成」の時であるとともに、それに続く「滅び、凋落、死」の時でもある。そのなかで人間は「悲哀、寂寥、孤独、不安」とともにあらねばならない。それを巧みにうたったのがライナー・マリーア・リルケ「秋の日」。
秋の日
主よ 時です 夏はまことに偉大でした
あなたの影を日時計の上に置き
そして野に風を解き放ってください
残された果実たちにみのるように命じ
いっそう暖かな日をさらに二日与え
彼らを成熟へと駆りたて そして
最後の甘みでブドウをずっしりと満たしてください
今 家を持たぬ者はもはや家を建てることなく
今 孤独な者はずっと孤独にとどまるでしょう
眠らず 書を読み 長い手紙を書くでしょう
そして木の葉が舞い散る頃 並木道をあちこちと
不安げにさまよい歩くことでしょう
◇「主」といっても必ずしもキリスト教の神を思い浮かべる必要はない。私のように神を信じない人間にでもこの世界を創造した何者かを思い浮かべ、呼びかける気持ちは無縁ではない。とくに自然界が豊穣に満たされる秋はそういう汎神論的な気持ちに最も近い季節だろう。リルケには「秋」という詩もあって、それも有名だが、そちらは多分に形而上学的な趣が強く(「木の葉が落下する・・・我々はみんな落下する・・・それはすべての中にある・・・この落下を限りなくおだやかに手で受け止める誰かがいる」)、私はくっきりした形象に支えられたこちらの「秋の日」のほうが好きである。ドイツ語を習い始めた学生のころにまっさきに暗唱した詩。音楽に例えれば第1節第2節の長調から第3節の短調への移調がみごと。豊穣のなかでこそ孤独者はいっそう孤独である。この孤独者は他の季節ではなく、まさに秋の孤独者である。
◇リルケが日本の詩人たちに与えた影響の大きさは計り知れないが、直接にこの詩の影響を受けているのではないかという詩もある。「父よ、秋です、朝です、」で始まる尾崎喜八の「秋」は最も顕著な例だろうが、ここでは他の詩人の2作を挙げたい。
あきかぜ
城左門
その頃、
さうして、五月だつた、六月だつた。紫の
或晩、
その頃、
さうして夏が爛け、秋が訪れ、冬が巡り、一年はかくして去つた。
◇夜中に起きて手紙を書いて本を読むなんて「秋の日」の孤独な人のモチーフそのままである。それから「かれ」にはすべて傍点が振ってあるが、ひょっとしてこの「かれ」は特定の人物を指すのか。だとすればそれはリルケその人ではないか。この詩は定住の場所を持たずヨーロッパをさ迷い歩いたリルケのことをうたっていると考えてもこじつけではないだろう。(そんなことはもしかしてとうに作者本人が述べていて、私が知らないだけなのかもしれないが)。
忘れてしまつて
深い秋が訪れた!(春を含んで)
湖は陽にかがやいて光つてゐる
鳥はひろいひろい空を飛びながら
色どりのきれいな山の腹を峡の方へ行く
葡萄も無花果も豊かに熟れた
もう穀物の収穫ははじまつてゐる
雲がひとつふたつながれて行くのは
草の上に眺めながら寝そべつてゐよう
私は ひとりに とりのこされた!
私の眼はもう
しかしその眼は時の祝祭に耐へないちひささ!
このままで 暖かな冬がめぐらう
風が木の葉を撒き散らす日にも――私は信じる
静かな音楽にかなふ和やかだけで と
◇やはり秋の明るく成熟した自然のなかで孤独な者がいる。それはここでは端的に詩人自身である。彼の眼は凋落(世界の?)を見るほど暗くはないが、自然の祝祭をともにするほど大きくもない。最後の節は分かりにくいが、「風が木の葉を撒き散らす日にも静かな音楽にかなふ和やかだけで暖かな冬がめぐらう、と私は信じる」とつなげたらいいのか? いずれにせよリルケの孤独者ほど孤独ではなさそう。それに「(春を含んで)」は蛇足ではないか。出来のよくない作品を引っ張り出されて立原も迷惑だろうが、「秋の日」と関係がありそうだという私の独断であえて挙げてみた。
◇孤独な人間は眠れない夜に誰に手紙を書くのだろう。遠く離れた故郷の友人へか。出すあてのない手紙かもしれない。秋ははるかかなたへと思いを馳せる季節でもある。
ふるさと
淙淙 として
天の川が流れてゐる
すつかり秋だ
とほく
とほく
豆粒のやうなふるさとだのう
◇「淙淙」は「さらさら」に同じ。遠く離れた故郷への思いが最後の1行に凝縮されている。天の川と同じように故郷も手の届かないところにあって遠く望み見るするしかないのか。
◇手の届かないといえば死者こそまさにそうである。手の届かないところに行ってしまった死者を追憶するには秋の日は最適かもしれない。
秋の日
村野四郎
私はきょう
死んだ彼と一緒に歩いた
木犀やコスモスの墻の向うに
青い空のある道を
私は花をとって彼の釦の穴にさしてやろうとした
すると彼は痩せた胸骨を硬くしてあらぬ方を見ていた
遠く流れていた雲
涯なく深い青空
彼の眼を捉えていたものは何であったろう
道には枯れた蔓草が乱れていた
鶏が慌てて遁げた
彼の冷たい影の中で虫がないていた
言おうとして言えなかった
私のたくさんの言葉
きこうとしてきけなかった
彼のたくさんの言葉
それから悲哀の中で騒いでいた
よわよわしい鶸のこえ――
◇詩人は空想のなかで死者をよみがえらせ、秋の景色のなかを彼とともに歩く。彼が生きていたころもそうして一緒に歩いたのかもしれない。かつての現実と今日の空想とが混然一体となって詩人をとらえる。十分に言葉を交わすことができなかったのは今日の空想のなかだけでなく、昔の付き合いのなかででもそうであった。彼の視線は何を見ようとしていたのか。なぜもっとたくさんしゃべり、耳を傾け、心をかよわせなかったのか。懐かしさと悔恨。秋の景色のなかで鶸の声が悲哀を呼び覚ます。私のように年を取り、この世を去った友人知人も少なからぬ身にはしみじみと心に滲みる詩ですね。なお、3行目「墻」に「ほばしら」とルビを振っている詩集があるが、これは間違いだろう。「かき」が正しいと思う。
◇秋の滅びは感覚的に人間の心をとらえるだけではない。それ以前に自然界の出来事そのものなのである。
月夜
秋もふかくなると
虫もぼろぼろになり
ひげも長い脛もない
足の吸盤もすりきれてしまふ、
つばさはすぢばかりになり
ひろげたらすぼがらない、
すぼめることが出来ない、
それでもゆうべもをとついも
たそがれてくれば鳴かぬわけにゆかない、
半分ひろがつたつばさをかついで
どうやらかうやら鳴いてゐる
お腹の向う側からお日さまが見え、
月夜に月が見え
やつれた草むらの骨に風が鳴る。
◇鳴くのを止めたらもう虫ではなくなる。体がぼろぼろになっても鳴き続けなければならないのは虫の宿命か。最後の1行が暗示するように、もう死も間近である。この詩を人間の心象風景ととってもおかしくないが、そうせずに自然の描写ととることも可能だろう。いずれにしても深まる秋が滅亡と死を連れてくることに違いはない。
◇虫たちは鳴くだけだが、詩の世界には人間の言葉をしゃべる蛙がいて、私たちは彼らの気持ちを知ることができる。私たちと同じように彼らも虫の声に死を感じているのである。
秋の夜の会話
さむいね。
ああさむいね。
虫がないてるね。
ああ虫がないてるね。
もうすぐ土の中だね。
土の中はいやだね。
痩せたね。
君もずいぶん痩せたね。
どこがこんなに切ないんだろうね。
腹だろうかね。
腹とったら死ぬだろうね。
死にたかあないね。
寒いね。
ああ虫がないてるね。
◇思わず耳を澄ませてしまう会話である。でもやっぱり私たち人間はできることなら光と成熟の秋を喜びたい。手放しにではなく、凋落や滅びの気配をも感じながらしんみりと。
山実
蔵原伸二郎
山の庭に桃が実っている
秋風に光り
秋の陽にかがやいている
ようやく充実してきた
山桃にとって
雲だけがその長い生涯の
希望であり 友であった
完成に近い いま
次第に深い孤独を感じ
はちきれる 生命が
やがて地に墜ちねばならない
運命をしりながら
最後の光を放っている
この
こおろぎのないている
秋風の中で
へこたれもせず
不平も言わず
ただ あるがままに
静かな 山の庭でかがやいている
ある日ある時
秋の空が青く美しいという
ただそれだけで
何かしらいいことがありそうな気のする
そんなときはないか
空高く噴き上げては
むなしく地に落ちる噴水の水も
わびしく梢をはなれる一枚の落葉さえ
何かしら喜びに踊っているように見える
そんなときが






☟
☟12日(土)に一番盛り上がったレースはメインではなく
☟
☟「熊に注意」の警告もとおり一遍のものと軽くとらないほうがよい。前日にはここから50キロほど西の海沿いにある福島町の住宅街で熊による死亡事故が起きている。



☟中には入れないので塀越しに望み見る。ここに祈りと瞑想と労働の日々があるのか。
☟来るときは気づかなかったが(振り向かないので)海の向こうに




☟旧函館区公会堂




☟ミーメから母親のことを聞き出す
☟「おまえに恐怖とはどんなものかを教えてやろう。急に体じゅうがゾクゾクッとしたり、心臓がドキドキしだすことはないか」と言ってミーメが取り出したのは女性のヌード写真。
☟アルベリヒが見舞い(様子を探り)にやって来る。「ファーフナーのやつ、そろそろくたばる頃だが」。
☟続いてヴォータンもやって来る。「わしは指輪を狙っているわけではないぞ、アルベリヒ。ファーフナーを起こしてやるから交渉してみたらどうだ」。
☟「起きろ、ファーフナー。まもなく英雄がお前を殺しに来るぞ」。
☟母親への思慕の念はところどころで顔を出す。「お母さんはどんな人だったのだろう。女鹿よりきれいな目をしていたにちがいない。会いたかったなあ」。
☟ファーフナーからハラスメントを受けた看護師(森の小鳥)を慰める
☟ミーメの
☟起き上がったファーフナー。「水を飲もうとしてやってきたら食い物にもありつけるとは。さあ小僧、食ってやろう、かかって来い」。
☟
☟死にゆくファーフナーの警告。「いいか、若者よ、おまえをそそのかしてわしを殺させた者こそ腹黒い奴で、おまえの命を狙っているのだぞ」。
☟ファーフナーの死後、そのコートのポケットから指輪を取り出す看護師(森の小鳥)。
☟☟小鳥は指輪を

☟そのあと


☟
☟『



☟エールダとともにいる少女は何者か? 『

☟
☟「頭がボーとして、何も分からなくなってしまった。目がグルグルまわる。誰か助けてほしい。かあさん、かあさん。これが恐怖というものなのか」。











フンディングと








☟「いいですか。
☟「でも
☟この場面の最後に
☟
☟「あなたは死んで英雄たちのところに行くのよ」「父にも会えますか」「はい」。
☟「
☟



☟ヴォータンの命令に背き怒りを買った
☟「
☟逃走経路の相談。東の森では巨人ファーフナーが竜となって
☟「お前は神でなくなり、普通の人間の男の妻となり、糸を紡ぎながらくだらない一生を送ることになるのだ」。
☟「お父様がほんとうはやりたかったけれど神ゆえに許されなかった事を私がやったのですわ。私はあの若者のひたむきな愛と苦悩に心動かされました」。
☟「喜んで罰は受けます。だけどつまらない男のものにだけはなりたくありません。私をわがものとするのは英雄でなければなりません」。「臆病者が近づけないようにお前の周囲に炎を燃やしてやろう。その炎を突破した勇者、神である私より自由で幸せな男がお前を獲得するのだ」。

乾杯を拒否するヴォータン。
☟ヴォータンは自分の指から指輪(もちろん










☟フライアの世話している黄金のリンゴは神々にとって不可欠の食べ物。これなしには彼らは若さを保つこともできず、衰弱するしかない。


しかしローゲの策略にまんまとしてやられる。

☟宝を奪われ
☟指輪も奪われる。
☟すべてを奪われたアルベリヒは指輪の持主に不幸と破滅あれと呪う。
☟ヴォータンは指輪には執着するが、エールダ(大地と知恵の女神)の警告に心動かされ
☟しかし指輪をめぐって巨人たちは争う。ファーフナーの右手には

☟踊り浮かれるヴォータン。
☟しかしフライアの鬱屈は晴れない。なにか危なそう。
駅前のレンタサイクルで自転車を借りて大王わさび農場へ。
けっこう賑わっている。

ここに来た私の第一の目的はこの水車のある風景。









帰りは徒歩で
引退したジャー

せっかくだから御殿場までのバスを山中湖で下り、遊覧船に。見えるのは湖畔の景色だけ。富士山はどこにあるのかな。
