この年末は近畿でも北のほうはよく雪が降っている。滋賀でも大津坂本あたりではうっすらと地面が白くなる程度だが彦根や米原では数十センチの積雪。年末の掃除は暖かい日を選んで少しずつやって今はすっかり終えているし、競馬の有馬記念もボートレースのグランプリも終わったし(グランプリ優勝戦はとんでもないレースだった)、騒がしいばかりのテレビ番組を見るのもアホらしいし、今年の回顧番組も楽しいことはないし、というわけで、つれづれなるままに身近にある詩集から雪をうたった詩をいくつか探し出して読んでみた。まずはなんといっても三好達治のとても有名な「雪」。
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
たった2行。これ以上あり得ない単純な構造の詩。太郎と次郎を入れ替えただけの詩句を2行並べただけ。太郎とか次郎という名前の男の子は少なくとも現代では多くないかもしれないが、太郎次郎は日本の昔を感じさせる古典的な名前であり、民話的な名前となりおおせている。1行目の、太郎、眠り、屋根、雪の組み合わせが民話的世界に私たちを連れて行ってくれる。しかも太郎が2回使われることによりリズムがしっかりときざまれ、物語性も強くなる。これが、「太郎を眠らせ、その屋根に雪ふりつむ」では駄目である。そして2行目。ここで次郎が加わることによって世界が一挙に拡大される。たんに1人が2人になったということではない。これは、雪のふりつもった屋根の下で静かに眠っているのは太郎だけではなく次郎もですよ、という意味ではないのである。太郎次郎と続くことによって、雪の降りつもる屋根の下で眠るすべての子供へとイメージは広がり、「○○を眠らせ、○○の屋根に雪ふりつむ」が読む人の心のなかで無限に繰り返されることになる。
山村暮鳥に「風景」という詩があって、これは第1連は「いちめんのなのはな」を7行繰り返し、8行目が「かすかなるむぎぶえ」、9行目にもう一度「いちめんのなのはな」となる。第2連も同じ構造で8行目だけが「ひばりのおしやべり」となり、あとはやはり「いちめんのなのはな」の繰り返し。第3連も8行目が「やめるはひるのつき」で、あとはすべて「いちめんのなのはな」。一面に咲く菜の花を同じ詩句の繰り返しによって視覚的に(あるいは聴覚的にも)表現しようとしたのだろうが、このようなエキセントリックな試みはあまり上手なやり方ではないのではないか。それに比べて達治の「雪」はたった2行で大きな広がりを生み出すことに成功しており、じつに巧みな詩と言えよう。また、これは2行だからいいのであって、「三郎を眠らせ、三郎の屋根に雪ふりつむ」などと続けたらつまらない詩に堕したところである。
降り積もる雪はしかし、常に人間とその生活を優しく包み込んでくれるものとして表象されるわけではない。次の「雪はふる」も三好達治の作であるが、ここには平和な人間の生はもはや存在しなくなっている。「雪」が収められた詩集『測量船』が刊行されたのは1930年で、「雪はふる」が発表されたのは1946年のこと。そのあいだに三好達治の人生にもいろいろあった。それ以前に何もなかったというわけではないが、大きな出来事はこの時期のことと言ってよかろう。雪は今も昔も同じように降るが、それを受けとめる人間と人生は変わるので、雪もまた違ったふうに感じとられ、違った意味を与えられる。安住の地(屋根はそのシンボルでもある)を失い、過去を振り返るなと自らに呼びかける詩人の肩に降る雪は、生を肯うものではなく死へといざなうものである。死を祝福する雪。
海にもゆかな
野にゆかな
かへるべもなき身となりぬ
すぎこし方なかへりみそ
わが肩の上に雪はふる
雪はふる
かかるよき日をいつよりか
われの死ぬ日と願ひてし
雪は屋根にも降るし人の肩の上にも降る。そして、さまざまなものの上に降る。中原中也は「汚れつちまつた悲しみに/今日も小雪の降りかかる」とうたった。「汚れちまつた悲しみ」の上に降るには確かに「小雪」がふさわしい。次に挙げる高野喜久雄「雪よ 小止みなく」の雪は激しく降り積もる雪で、すべての上に降る。
降り積もれ 降り積もれ
ぬかるみの泥の道の上
立ち枯れた木々 向日葵の上
腐った犬の腹の上
降り積もれ 降り積もれ
踏まれ 汚れた雪の上
歔欷の上 嘘の上 あやまちの上
抱きあえぬ恋の上
降り積もれ 降り積もれ
希みつつ のぞみ失った心の上
祈りつつ 神を見なかった心の上
凡て 自ら消え入ろうと願うもの達の上
ここで雪は降るのを眺められるのではなく「降り積もれ」と呼び掛けられる。第1連では、自然の上に降り積もり、ぬかるみ、枯木、向日葵だけでなく、死んで腐敗した犬のようにおぞましいものの上にも降り積もって、すべてを覆い隠せと呼び掛けられる。第2連では、愚かにも悲しい人間の営みが対象となる。すでに降った雪は人間が踏んで汚してしまったが、まず、その穢された雪の上に降れ。それから、歔欷、嘘、あやまち、成就しない恋の上に降って人間世界を覆い隠せ。そして第3連では、拠り所を失った人間の心の上に降れと呼び掛けられ、雪は形而上的な存在になる。最終行の「凡て」はどうかかるのだろうか。「自ら消え入ろうと願うもの達すべて」なのか。そう読めば、自ら消え入ろうと願わないもの達もいて、その上には雪は降らなくていいということになる。でも、どうもそういうことではなさそう。この世界の「凡て」は自ら消え入ることを願う存在なのであり、雪はその「凡て」の上に降り積もれと詩人はうたっていると私は理解した。
しかし、いくら呼び掛けても雪がすべてを覆い隠してくれるとは限らない。次に挙げる会田綱雄「一つの序詩」は、雪がすべてを覆い隠してくれるとは限らないことを明らかにする。
雪ふり
雪つもり
わたくしはわたくしの
あなたはあなたの
火を掻き立て
わたくしはわたくしの
そして
あなたはあなたの
無を見すえる
うずくものは
わたくしたちがそれを生きてきた
夢であり
わたくしたちをささえるものは
生傷である
雪ふり
雪つもり
足跡はきえない
どれほど雪が降り積もろうとも消えない足跡がある。それは例えば「雪をふみいでてゆきしが白骨となりて還れり春あさき家に」(小泉苳三)と戦死した息子を悼む歌にあるような足跡であるかもしれない。父親の心のなかでは、息子が雪を踏みしめて戦地へと赴いたあの日の足跡は消えることがないだろう。もちろん、人間の悲劇にはいろいろな形があり、心の傷もさまざまである。わたくしの火はわたくしの火であり、あなたの火はあなたの火、わたくしの無はわたくしの無であり、あなたの無はあなたの無である。消えない足跡もさまざまである。戦死した息子の足跡とは限らない。心の傷はさまざまに疼く。「疼く」という語に関して注目したいのは、この詩で疼くのは夢であり、私たちを支えるのは生傷であるという逆説である。なるほど、そう言われればそうとも言える。見果てぬ夢はいつまでも疼くし、心の生傷は痛むことによって、私たちが生き続ける支えになっているのかもしれない。私たちは心のなかに火を掻き立て(このイメージは雪の日に暖炉やストーブの火を掻き立てることとダブっている)、無を見すえて生きるしかない。無は消えない足跡となって心のなかにいつまでも残る。無であるから消すことはできない。
さて、では最後に少々長いが分かり易い詩を1つ。田中冬二「雪の日」は雪が何を覆い尽くすかなんてことには頓着しない。太郎次郎も、かへるべもなき詩人もいない。腐った犬の腹も、自ら消え入ろうと願うもの達も、消えない足跡も存在しない。しんしんと降る雪と静かに暮れてゆく町だけがある。
雪がしんしんと降つてゐる
町の魚屋に赤い魚青い魚が美しい
町は人通りもすくなく
鶏もなかない 犬も吠えない
暗いので電燈をともしてゐる郵便局に
電信機の音だけがする
雪がしんしんと降ってゐる
雪の日はいつのまにか
どこからともなく暮れる
こんな日 山の獣や鳥たちは
どうしてゐるだろう
あのやさしくて臆病な鹿は
どうしてゐるだろうか
鹿はあたたかい春の日ざしと
若草を慕つてゐる
ゐのししはこんな日の夜には
雪の深い山奥から雪の少い里近くまで
餌をさがしに出て来るかも知れない
お寺の柱に大きな穴をあけた啄木鳥は
どうしてゐるだろう
みんな寒いだろう
すつかり暮れたのに
雪がしんしんと降つてゐる
夕餉の仕度の汁の匂ひがする
色彩を与えられているのは魚屋の赤い魚青い魚だけで、これはなかなか印象的である。聞こえるのは郵便局の電信機の音だけ。視覚的にも聴覚的にも静かな、絵本にしたくなるような光景(電信機の音はどう表現するか?)である。暮れ方も秋の日のつるべ落としとは対照的に「いつのまにか/どこからともなく暮れる」。すべてが静寂に包まれたなかで山の獣や鳥のことが思われる「どうしてゐるだろう/みんな寒いだろう」。このように詩が童話的世界に漂っているあいだに日はすっかり暮れる。そして雪は降り続いている。詩の最初の句「雪がしんしんと降ってゐる」が繰り返され、雪の一日が穏やかに終わることが確認されて詩は完結するのか、と思いきや、もう1行「夕餉の仕度の汁の匂ひがする」が付け加えられる。そういうことか。しんしんと降る雪の下にあったのは人間のきわめて平凡な日常的営みであったのだ。絵本の世界と童話の世界と人間の日常世界とがひとつに溶け合ってなんだかホッとする。ここでなら人間は悩んだり苦しんだりしなくともよい。暖かい夕餉にありつけるぞ。
以上、窓の外にちらつく雪を眺めながらの雪の日の雪の詩鑑賞でありました。