上御霊神社(ごりょうさん)

f:id:sakamotojiji:20211119161848j:plain

 先日5月18日は京都、上御霊神社の祭礼であった。御霊と名の付く神社はたくさんあるだろうが、京都で御霊神社といえば上御霊と下御霊の二社で、御所から1キロほど北にあるのが上御霊、御所のすぐ南にあるのが下御霊である。なかでも一般的に「御霊神社」あるいは「ごりょうさん」と呼びならわされているのは上御霊神社のほうで、私がよく知っているのもこちら。周辺の町内は上御霊という名を冠にしていて、私が生まれ育ち、最近まで住んでいたのも上御霊中町という町である。

f:id:sakamotojiji:20211119162653j:plain

f:id:sakamotojiji:20211119162740j:plain

 子供の頃、私にとって「ごりょうさん」の境内は格好の遊び場所で、さすがに野球はしてはいけなかったが、それ以外のあらゆる遊びのホームグラウンドであった。とりわけ夏の蝉取り。蝉の鳴き声のする季節はほとんど毎日、朝から夕方まで網を持って蝉を追いかけまわした。なぜあんなに夢中になれたのか今となっては不明だが、お盆には、せめてお盆くらいは生き物を取るのは止めとき、と母親から言われるくらい熱中した。
 蝉取り以外によくやった遊びはかくれんぼ。本殿に向かって右側奥手には土を盛って小高くなった所に稲荷神社があり、本殿裏手にまわると神明神社厳島神社八幡宮などのこじんまりした境内社があり、さらによく分からない誰かを祀った石塚も立っていて、一帯はかなりの数の大木も生えていて、少し鬱蒼としている。鬼の様子をうかがいながら身をひそめたり逃げたりするには恰好すぎるほどの場所がいくつもあって、おまけに車も通らない。これ以上理想的なかくれんぼのフィールドは考えられない。

f:id:sakamotojiji:20211119162007j:plain

f:id:sakamotojiji:20211119162143j:plain

 他によくやったのはチャンバラごっこ。秋になると烏丸通のいちょう並木の枝が伐採される。そこから気に入った枝を拾ってきてナイフで小枝を払い、刀とする。これを使って「ごりょうさん」の境内で時代劇を演じるのである。このあいだNHKオンデマンドで「雲霧仁左衛門」というのを見ていたら、御霊神社でロケした(火付盗賊改方の岡田という与力が内通情報を雲霧配下に伝えるなど、いくつかの)場面が出てきて、私が喜ぶいわれはないのだけれど何とはなしにうれしかった。ついでにもうひとつロケの話をすると、やはりNHKの「京都人の密かな愉しみ」での茅の輪くぐりの場面と、それに続く和菓子屋の娘三八子が異母弟と会う場面も御霊神社で撮ったものである。
 というわけで、子供の頃は遊びに遊び、老人の今はテレビ画面で懐かしがっているのが「ごりょうさん」である。2年前から主として大津坂本で暮らすようになって京都に帰るのは月に1,2度となり、散歩の途中で立ち寄って社殿に手を合わせる機会もなくなった。正月のお参りだけは続けており、祭礼にも出かけたい気はあるのだが、こちらは去年も今年もコロナのせいで大幅に縮小され、中心となる神輿の巡行もなく寂しい限り。結局、今年も祭りに合わせて京都に戻ることはなかった。
 今、懐かしがっていると書いたけれど、「ごりょうさん」だって時代に合わせて多少の変化はしており、久しぶりに訪れるとオヤッと思うこともある。最近は応仁の乱とのゆかりの深さを前面に押し出して観光客へのアピールにも努められているようで、境内には細川護煕元首相が揮毫した「応仁の乱発端 御霊合戦旧跡」の石碑が立っている。護煕氏は応仁の乱当事者である細川勝元の末裔であって、その縁での揮毫らしいが、石碑そのものは新しく、建てられたのは数年前のことである。神社の正面入り口、西に面して立っている鳥居の向かって右側にはそれより古い「応仁の乱勃発の地」と刻んだ石標と、京都市による案内板が設置されている。石標がいつからそこにあるのか記憶は定かでないが、少なくとも案内板のほうは私の子供の頃にはなかった。その案内板によれば上御霊神社境内の御霊の森に畠山政長が2千の兵を率いて布陣し、そこを畠山義就が3千余の兵で襲い、打ち破ったとある。うーん、当時の御霊の森はもっと広かったに違いないが、かくれんぼをしたあの辺りで陣が張られ、戦がたたかわれたというわけか。感慨ひとしお。

f:id:sakamotojiji:20211119162343j:plain

 私の子供の頃なかったものは他にもある。子供神輿と御霊太鼓。かつては小さな子供が祭礼に参加するにはお稚児さんとしてしか可能でなく、これは、誰か(たいてい母親)が稚児行列に付き添って一緒に歩かなくてはならず、しかもそれなりの服装(和装の人が多い)ででなければ格好もつかずといった具合で、ハードルは高い。今では、5月5日に子供神輿の巡行が別途行われ、こちらは誰でも気軽に身軽に参加できるようになっている。我が家の子供たちもお世話になった。御霊太鼓は子供神輿より少し遅れて創設されたのか、あるいは昔あったのを復興したのかもしれないが、私の子供の頃は聞いたことも見たこともなかった。最近ではすっかり奉納として定着し、祭礼以外でも節分などには子供たち20人くらいが神楽殿でドンドコドンドコやっている。これも子供が主人公である。
 よく分からないのが茅の輪くぐり。私の子供時代の記憶にはまったく存在しない。この神事自体は昔から全国の神社で行われていて、格別珍しいものではないらしいが、子供の頃に「ごりょうさん」で茅の輪なるものをくぐった覚えどころか、見た覚えさえない。最近になって新たに始められたのか、戦後の一時期途絶えていたのが復活したのか、それとも絶え間なく続けられてきたのに私がボケているのか。どうも最後の可能性が高くて、そう考えると恐ろしい。いずれにしても「京都人の密かな愉しみ」では、輪のくぐり方とまわり方と、その際となえる和歌が紹介されていた。「そやけど、こんな作法で茅の輪くぐりをやってる京都人てほんまにいるのやろか!?」が率直な感想である。むしろ、どこか地方でこそしきたりが守られているのではなかろうかと思う。
 神社正面の鳥居横には「応仁の乱勃発の地」とは別の案内板が設置されていて、神社の由来を次のように記している。「祭神として崇道天皇早良親王)、吉備真備橘逸勢をはじめ十三柱の神霊を祀る。この地には、はじめ付近住民の氏寺として創建された上出雲寺があったが、平安京遷都(794)に際し、桓武天皇の勅願により王城守護の神として、奈良時代平安時代初期に不運のうちに亡くなった八柱の神霊が祀られたといわれ、その後、明治天皇の御願により祭神五柱が増祀され、現在に至っている。平安時代には、天変地異や疫病流行は怨霊のたたりであるとする御霊信仰が盛んで、怨霊をなだめるための御霊会が度々行われ、疫病除けの霊社として名を広めた。朝廷から庶民に至るまで広く信仰を集めたが、特に御所の守護神として皇室の崇敬が厚く、神輿や牛車等、皇室からの寄付品を多数蔵している。…」
 これで見る限り、もし神様にお願いするとすれば、今現在、これ以上ふさわしい神様はいらっしゃらないのではないか。なんといっても筋金入りの疫病除けの神様である。コロナのたたりから日本をお救いくださいとお祈りするのも悪くはあるまい。神様には、人間たちがしっかりせんとあかんのやと言われるのが落ちだろうが、6月30日には京都へ戻って茅の輪くぐりでもしようかしら。