樋口一葉『たけくらべ』

 樋口一葉は21篇の小説を書いた。筑摩書房樋口一葉全集』には小説として22篇が収められているが、そのうち『裏紫』は未完なので、完成したものとしては21篇ということになる。『たけくらべ』『にごりえ』『大つごもり』はこれまでに読んだことがあるが、今回、全21篇を読んでみた。いずれもそれほど長くはない。一番長い『たけくらべ』でも45頁、短い『雪の日』『琴の音』などは6頁しかない。簡単に読めるだろうと思っていたが、意外とてこずった。文語文はやはりそれなりにハードルが高い。歴史的背景や文化的背景で分らない点も多々ある。和歌や古典の知識を前提にしているらしい文章も理解できないことが多い。というわけで以下の本を参考にした。①筑摩書房『明治の文学第17巻、樋口一葉』(主な小説12篇と日記の一部を注釈付きで収録)、②学研『明治の古典3、たけくらべ にごりえ』(円地文子訳『たけくらべ』、田中澄江訳『にごりえ』『十三夜』『日記(抄)』を収録、注釈前田愛)、③角川書店『ビギナーズ・クラシックス、一葉の「たけくらべ」』、④岩波文庫にごりえたけくらべ』。(以下①②③④と表示)
 どの作品も2回ないし3回読んでみた。でないと分かりづらい。部分的には5,6回読んだ箇所もある。不思議なことに繰り返して読むと最初分らなかった箇所も分かるようになることが多い。もちろんすべてがそうではないが、繰り返しが理解を深めることは確かである。外国語だとそうはいかない。未知の単語や表現は辞書を引くしかない。しかし日本語なら、知らない語や言い回しが挟まっている文章でも何度か読んでいるうちにもやもした霧が晴れるように納得のいくことがある。今回はそういう体験をした。母語の不思議さというべきか。いやいや、そうではなくて、一葉の名文だからこその不思議なのかもしれない。
 ④の解説(和田芳恵)は、一葉の小説の代表作として『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』『わかれ道』『大つごもり』を挙げている。『たけくらべ』『にごりえ』『大つごもり』を代表作とするについては大方の意見が一致するだろう、たぶん。これがベストスリー。それに次ぐのは何かということになれば、個人的好みによるしかない。私は、『十三夜』は新派の演目にもあり(新派にピッタリ!)、有名な作品ではあるが、小説としての完成度に欠けるのではないかと思う。むしろ『やみ夜』なんかのほうが小説としておもしろい。文章の魅力を味わうなら『ゆく雲』。ストーリーはたわいないが、簡にして要を得た文語文の流れに思わず引き込まれてしまう。というふうに興味をひく作品はいくつかあるけれど、結局は『たけくらべ』に戻る。これは別格。以下は『たけくらべ』のストーリーを追いつつの感想文。
 小説冒頭で物語の舞台が提示される。「廻れば大門〔おおもん〕の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝〔どぶ〕に燈火〔ともしび〕うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来〔ゆきゝ〕にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前〔だいおんじまへ〕と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き」。この前半部分は多くの情報が省略されていてむずかしい。説明付きの現代口語文になおせば次のようになるだろう。「裏からぐるっと回って吉原の正面入口である大門まで来る道のりは、大門の近くにある見返り柳、これは遊郭帰りの客がここで名残りを惜しんで振り返ったのでそう呼ばれているのだが、その柳の枝と同じくらいに長くて遠回りである。しかしそんな遠回りをせずに裏手からでも、吉原を取り囲むお歯黒溝遊郭の三階の灯りがうつるし、賑わいぶりも手に取るように分かる」。これは翻訳というより解説というべきで、原文の趣など微塵もないが、いくら名文といっても意味不分明のままに読み流せばよいというものではなく、このように理解したうえで改めて原文に戻ると、より深くその魅力を味わうことができるのではないか。
 物語の舞台は吉原の西側、裏手に隣接する大音寺前一帯。お歯黒溝によって吉原から隔てられているが、跳ね橋を下せば出入り可能。住民の多くは吉原で働くという土地。彼らも大門まで回り道をするのではなく跳ね橋を使って仕事に出かけたのであろう。この大音寺前で横丁組と表町組に分かれて反目しあう思春期の子供たちが主人公。
 横町組を取り仕切るのは鳶の親方の息子長吉(16歳)で、頭よりも腕力をふるうほうが得意の乱暴者。親の威光も笠に着ていっぱしの大人気取りだが、金持の正太郎がいて、美登利もいて、大人の後ろ盾もついている表町組には太刀打ちできない。公立学校に通う正太郎と比べ私立学校(多くは江戸時代の寺子屋が小学校に昇格したもので、地縁的な親しみはあったが、設備の点では公立の小学校に劣っていたと②の注)に行っている身としてコンプレックスも感じている。そのような実際的及び心理的な弱点を補うために、お寺の息子で勉強のよくできる真如を横町組に引き入れる。
 藤本真如(15歳)は龍華寺の跡取り息子で、今は長吉と同じ私立学校育英舎の生徒だが、やがて僧侶養成の学校へ入るはず。かば焼きが好物で酒のみで金貸しまでやっている生臭坊主の父親とは対照的に、おとなしく内向的で、悪くいえば煮え切らない性格。父親に反感を持つが表立って反抗することはない。「お前は何も為〔し〕ないで宜〔い〕いから、唯横町組だといふ名で、威張つてさへ呉れると豪気に人気〔じんき〕がつくからね」と長吉に説得されて否とは言えず、横町組の陰のリーダーに仕立てられてしまう。
 表町組。ここを取り仕切っているのは田中屋の正太郎(13歳)。家はかつて質屋を営んでいたが、正太郎が3歳の時に母が亡くなり、父は「田舎の実家に帰つて仕舞たから今はお祖母さんばかり」だという。つまり父親は入り婿であって、妻の死後、義母(正太郎の祖母)とうまく行かず家を出たということらしい。今はこの祖母が金貸しをやっていて、経済的には恵まれてはいるが、祖母と孫の二人きりという淋しい家庭。金貸しは裏では人々から恨まれ軽蔑される日陰の生業でもある。年上の美登利(14歳)を一途に慕っているが、美登利がその思いに異性として答えてくれる可能性はゼロ。どこまでいっても仲良し、最善でも弟的存在としか見てもらえない。
 主人公美登利はこの土地ではなく紀州の生まれ。「姉なる人が身売りの当時、鑑定〔めきゝ〕に来たりし楼の主が誘ひにまかせ、此地に活計〔たつき〕もとむとて親子三人〔みたり〕が旅衣、たち出〔いで〕し・・・」。姉を連れに来た遊郭大黒屋の経営者が妹の美登利を目に留めスカウトしたというわけである。父母まで一緒に東京に呼び出したというのだから期待の大きさも分かろうというもの。美登利の容貌については、「色白に鼻筋とほりて、口もとは小さからねど締りたれば醜くからず、一つ一つに取たてゝは美人の鑑に遠けれど、物いふ声の細く清〔すゞ〕しき、人を見る目の愛敬〔あいけう〕あふれて、身のこなしの活々したるは快き物なり」とある。これが売れっ子遊女になるための条件か。朝湯から帰って来る美登利を見て廓帰りの若者が「今三年の後に見たし」などと言う。鏑木清方の筆になる美登利(下)はなかなかの美人である。

 姉は大黒屋の看板花魁。美登利自身は大黒屋の主にとってダイヤモンドの原石。皆からちやほやされ小遣いにも不自由しない。「子供に似合ぬ銀貨入れの重きも道理」。同級生20人にゴムまりを買ってやるとか、なじみの筆屋で売れ残ったおもちゃを買い上げてやるなどのバラマキをやってのける。普通なら(普通の社会で普通の人間がやれば)、歓心を買うためじゃないのかと警戒されたり、馬鹿じゃないかと軽蔑されかねないこうした行為も、しかも14歳の女の子だというのに、美登利の場合は誰も批判や非難はしない。ひとつには美登利の人柄(愛嬌、天衣無縫)のせい、ひとつには吉原という特別な環境のせいなのであろう。とにかく美登利は吉原とそれを取り巻く世界に完全に溶け込んでいる。しかも吉原の陰の部分はまだ意識せす、日の当たるところだけを見ている。「美登利の眼の中に男といふ者さつても怕〔こわ〕からず恐ろしからず、女郎といふ者さのみ賤しき勤めとも思わねば、過ぎし故郷を出立の当時ないて姉をば送りしこと夢のやうに思はれて、今日此頃の全盛に父母への孝養うらやましく、お職を徹〔とお〕す(もっとも玉代の多いお職女郎の地位を張り通すことであると①の注。また、お職女郎とは最上位のおいらんのことであると④の注)姉が身の、憂いの愁〔つ〕らいの数も知らねば・・・廓ことばを町にいふまで去りとは耻〔はず〕かしからずと思へるも哀なり」。
 表町組でもう一人忘れてはならないのが三五郎。13歳の一昨年から働いていると書いてあるので15歳かと思えば、別の箇所では生意気ざかりの16となっていて、どっちかよく分からない。まあ、これは些細なこと。大事なのは、大げさにいえば、三五郎が社会的矛盾を背負わされた子供であるという点である。父親は人力車夫(ついでながら車夫は一葉の他の作品でも落魄の身となった男の世過ぎとして登場する。『別れ霜』の芳之助、『十三夜』の録之助)で横町の住人。三五郎は6人子供の長男。住む地処は龍華寺のもので家主は長吉の父とくれば是非とも横町組でなければならないはずなのに、父親が田中屋に金を借りているがために年下の正太郎に頭が上がらない。「内々に此方(表町組)の用をたして、にらまるゝ時の役廻りつらし」と書かれてはいるものの、暗い影は感じさせない。「横ぶとりして背ひくゝ、頭〔つむり〕の形〔なり〕は才槌とて(小型の木槌に似て額と後頭部が突き出た頭)首みじかく、振むけての面〔おもて〕を見れば出額〔でびたい〕の獅子鼻、反歯の三五郎といふ仇名おもふべし、色は論なく黒きに感心なは目つき何処までもおどけて両の頬に笑くぼの愛敬、目かくしの福笑ひに見るやうな眉のつき方も、さりとはをかしく罪の無き子なり」。「滑稽者〔おどけもの〕と承知して憎くむ者の無き」キャラクターで、物語にはなくてはならない人物。三五郎がいるおかげで小説『たけくらべ』がどれほど豊かになっていることか。千足神社の夏祭の日に殴り込みをかけてきた横町組にボコボコにやられるという役回りも割当てられていて、重要な登場人物である。
 殴り込みの先頭に立った長吉の本来の攻撃目標は正太郎であったが、不在であったため三五郎が割を食う。女の美登利は殴られはしなかったが、長吉に「何を女郎め頬桁たゝく(何をぬかすか女郎めが、というくらいの意味)、姉の跡つぎの乞食め」と罵られ、泥草履を額に投げつけられる。額に傷はつかなかったが心には大きな傷がついた。今まで誰もあえて口にしなかった「女郎」「乞食」という語を面と向かって浴びせられ、自分がどういう存在であるかに美登利は厭でも気づかざるを得ない。
 美登利に泥草履と悪罵を投げつけたのは長吉であるが、その陰には真如がいて糸を引いていると美登利は考える。長吉は実行犯、真如が黒幕というわけである。「ざまを見ろ、此方〔こち〕には龍華寺の藤本がついて居るぞ」という長吉の捨てぜりふを真に受けたからだが、濡れ衣を着せられた真如こそとんだ迷惑。翌日から美登利は学校に行こうとしない。「我れ・・・姉は大黒屋の大巻、長吉風情に負〔ひ〕けを取るべき身にもあらず、龍華寺の坊さまにいぢめられんは心外と、これより学校に通ふ事おもしろからず、我まゝの本性あなどられしが口惜しさに、石筆を折り墨をすて、書物〔ほん〕も十露盤〔そろばん〕も入らぬ物にして、中よき友と埒も無く遊びぬ」。憎むべき相手が長吉ひとりであったなら美登利もここまでは思いつめなかったのではあるまいか。
 そもそもの始まりは4月。美登利も真如も通う育英舎の運動会の日。真如が転んだ際、泥をお拭きなさいと美登利が紅の絹ハンカチを差し出してやったのが馴れ初めである。しかし、これを普通の意味で馴れ初めと呼ぶのは適切でないかもしれない。内気で羞恥心の強い真如は噂されるのが嫌で、美登利が親しげに接してくるのを避けてばかりいて、二人の仲が深まることはない。それどころか、真如のそっけない態度に業を煮やした美登利は最後には無視を決め込む。「用の無ければ擦れ違ふても物いふた事なく、途中に逢ひたりとて挨拶など思ひもかけず、唯いつとなく二人の中に大川一つ横たはりて、舟も筏も此処には御法度、岸に添ふておもひおもひの道をあるきぬ」というのが、殴り込みがあった時点での状態。二人の心が通っているとは見えない。
 祭の騒動も一段落し、美登利が学校に行かなくなり、季節が夏から秋へと移るとともに、物語はゆっくりと、しかし確実に動く。秋雨の淋しく降る夜、いつもの筆屋に美登利と正太郎に加えて2、3人の子供がたむろしておはじきで遊んでいると外にどぶ板を踏む気配。正太郎がくぐり戸から外を覗くと立ち去ってゆく真如の後姿が見える。正太郎から真如だと知らされた美登利の科白と行動は次のように描写される。「信〔のぶ〕さんかへ、と受けて、嫌やな坊主つたら無い、屹度筆か何か買ひに来たのだけれど、私たちが居るものだから立聞きをして帰つたのであらう、意地悪るの、根性まがりの、ひねつこびれの、吃〔どんも〕りの、歯〔はっ〕かけの、嫌やな奴め、這入つて来たら散々と窘〔いじ〕めてやる物を、帰つたは惜しい事をした、どれ下駄をお貸し、一寸見てやる、とて正太に代つて顔を出せば軒の雨だれ前髪に落ちて、おゝ気味が悪るいと首を縮めながら、四五軒先の瓦斯燈の下を大黒傘肩にして少しうつむいて居るらしくとぼとぼと歩む真如の後かげ、何時〔いつ〕までも、何時までも、何時までも見送るに、美登利さん何うしたの、と正太は怪しがりて背中をつゝきぬ」。美登利の気持、とてもよく分かる。まずは冒頭の「信さんかへ」だが、ほんとうに憎ければ「あのくそ坊主かへ」とかいうべきところをこの優しい言い方。「ひねつこびれ」「吃り」「歯かけ」といった悪口雑言も決まり文句を並べただけで、逆に、本気でないことが見え見え。そして、わざわざ自分で見に出て、冷たい雨だれを受けながらじっと見送るのである。同じ語を繰返すやり方は一葉がよく使う手で、凡人がやれば安易に堕しやすいが、一葉はうまく使う。ここの「何時までも」の3回繰り返しもぴったりはまっている。正太郎につつかれなければずっと見送っていたはずであると私たちは感じる。
 でも、しかし、である。美登利は、こちらから声をかけてもそっけない態度しか示さない真如を無視することに決めていたのではなかったか。千束神社の夏祭のさいに長吉を使って女郎だの乞食だのと自分を罵らせた張本人は真如だと考えていたのではなかったか。その誤解は解けたのか。そんなことがあったとはどこにも書かれていない。状況は秋となった今も変わっていないはず。だとすれば考えられることは一つしかない。何があっても真如を思う美登利の気持は揺るがなかったのである。真如を無視したのも本意ではなかった。「龍華寺の坊さまにいぢめられんは心外」と学校を辞めたのも、真如に対する嫌悪からではなく、憎むべき真如を憎みきれない心の整理がつかず、自分をどこにもって行くべきかが分らなかったからなのである。
 そして物語のクライマックスがやって来る。美登利が両親と共に暮らしている大黒屋の寮の前で吹きさらしの雨のなか、通りかかった真如の下駄の鼻緒が切れる有名な場面。誰かが下駄の鼻緒が切れて困っているのを見た美登利が友仙ちりめんの切れ端を手にして出てみると、そこには真如。彼女は固まって、声をかけることができない。「物いはず格子のかげに小隠れて、さりとて立去るでも無しに唯うぢうぢと胸とゞろかすは平常〔つね〕の美登利のさまにては無かりき」。「這入つて来たら散ゝと窘〔いじ〕めてやる」と言っていたのもやはり正太郎の手前があっての嘘、虚勢だったのである。美登利に気づいた真如も「わなわなと慄〔ふる〕へて顔の色も変るべく、後向きに成りて猶も鼻緒に心を尽すと見せながら、半ば夢中に此下駄いつまで懸りても履ける様には成らんともせざりき」。どんくさい真如にもどかしさばかりを募らせる美登利だが声をかけることはようしないで、母親の呼ぶ声に家の中へと戻ってしまう。格子越しに布きれを投げてよこすのが精一杯であった。あとに残された真如が振り返ると紅色の友仙の切れ端が雨に濡れている。「そゞろに床しき思ひは有れども、手に取あぐる事をもせず空しう眺めて憂き思ひあり」。気になってしかたがないのだけれど取り上げようとせず眺めているだけ。心はせつなく苦しい。この場面以前に、真如の美登利に対する気持ちについて書かれることはなかった。今やっと明らかになる。真如、やっぱり美登利のことを思っていたのである。

木村荘八たけくらべ絵巻』

 美登利と真如の恋は、恋と呼んでいいのかどうかもためらわれるほど淡くてはかない。どう転んでも情熱的などではない。この淡くてはかない恋を一葉は写実的にではなく象徴的に描いた。美登利がなぜ真如を好きになるのかの理由は明らかにされない。真如がどんな気持ちなのかの説明もない。このあたり、正太郎が自分の気持や家族のことを美登利に向かってしみじみと語る場面などと比較すれば違いがよく分かる。あるいは、三五郎の容貌や性格が明確に描写されるのと比較してもよいだろう。このような写実を避けての象徴的な手法。まずは、筆屋の店先での場面も大黒屋の寮の前での場面も雨降る中であるのは偶然ではない。二人の恋はお日様のもとで明るく咲き誇るものではないのである。次に恋の始まりと終わりに注目。転んで羽織を泥で汚した真如に美登利が差し出した紅の絹のハンカチで恋が始まり、雨に打たれて取り残された紅の友仙ちりめんの切れ端で恋が終わる。紅は美登利の思いの象徴であるが、真如がそれを受け取ることはない。そして巻末に登場する造花の水仙も忘れてはならない。かつて学校からの帰り道、高い所に咲いた花を折ってくれと美登利に頼まれた真如は人の目を気にして「手近の枝を引寄せて好悪〔よしあし〕かまはず申訳ばかりに折りて、投げつけるやうにすたすたと行過ぎ」ていったものであった。小説は、真如が僧侶になる学校に入るべく大音寺前を去るところで終わるのだが、出立の前日、美登利の家の格子門に水仙の造花が差し入れてある。「誰の仕業〔しわざ〕と知るよし無けれど、美登利は何ゆゑとなく懐かしき思ひにて違い棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでける」。真如はかつての冷淡な仕打ちを詫びているかのようである。しかしそれは本物の花ではなく造花によってするしかなかった。恋が成就しなかったことの象徴か(②もそのように注釈)。
 真如その人の人物造形に言葉があまり費やされていないにもかかわらず、とくに、美登利のあこがれの対象としての魅力が描き出されているわけでもないのに(勉強のよくできるお寺の跡取り息子というだけでは何の魅力もない)、美登利と真如のはかない恋が印象に残るのはなぜか。『たけくらべ』が美登利と真如の恋物語であると考えても間違いでないのはなぜなのか。畢竟、大黒屋前の場面があるからだ、ということに落ち着く。はかない恋の存在は象徴的に暗示されるが、その恋の終結を告げる場面は徹底して写実的に描かれる。真如が雨のなかを大黒屋の前まで来たとたん突風に傘をあおられ、脚を踏んばった瞬間下駄の鼻緒が切れて、それを繕おうとするが焦るばかりでうまくゆかず、友仙ちりめんの切れ端を持った美登利が出て来るが真如と気づいて顔を赤らめ胸はドキドキ・・・振り返った真如も無言のままで冷汗が脇の下を流れ・・・母親の呼び声で家の中へと戻る美登利が投げていった紅入り友仙の切れ端が雨に濡れて取り残され、真如は手に取ることができない、心はせつなく苦しい・・・というふうに二人の所作と感情が細かく描写される。写実的だからいいというわけではもちろんない。いい写実だからいいのである。ここに来て、これまで影の薄かった真如がクローズアップされる。そして、はかない恋の強烈なはかなさが浮かび上がるのである。はかなさは必ずしもはかなくはない。ここで描かれているのは、はかない恋の強烈なはかなさなのである。
 真如は切れた鼻緒をなおすのを諦め、羽織の紐を下駄に巻き付けて2歩ほど行くが、「友仙の紅葉〔もみじ〕目に残りて、捨てゝ過ぐるにしのび難く心残りして見返」る。そこへ偶然長吉が通りかかり、自分の下駄を真如に貸し与え、自分は慣れっこだからと裸足になって歩み去る。真如はお使い先の姉のもとへと向かう。「思ひの止まる紅入の友仙は可憐〔いじら〕しき姿を空しく格子門の外にと止めぬ」との一文でこの場面は終わる。映画だったら雨に打たれる赤い布切れがアップで映し出されるはず。可憐しき姿などと形容されるこの布切れは、美登利、真如と並んで、この場面の主人公である。
 さて、粋なところを見せた長吉ではあるが、じつはこの時、廓からの朝帰り。これが初めての廓通いであるとはっきりとは書かれていないが、16歳の長吉が以前から廓通いをしていたとは考えにくい(16歳でも早くてびっくりだが)。「黒八の襟のかゝつた新らしい半天、印の傘をさしかざし高足駄の爪皮も今朝よりとはしるき漆の色、きわぎわしう見えて誇らし気なり」。黒八丈の襟のついた新品の半天を羽織り、今朝おろし立てとはっきりわかる爪皮(雨降りに下駄の爪先にかけるカバー)を付けた高下駄を履き、どこぞやの遊郭の屋号の入った傘をさして意気揚々と引き上げて来る長吉の様子を見ると、どうもこれが初めてらしいと読める。しかし、初めてかどうかにこだわる必要はなく、要点は、物語の進行するこの半年の間に長吉が大人になったということである。

木村荘八たけくらべ絵巻』

 長吉は大人になった。しかし大人になったのは長吉だけではない。三五郎だけはちょっと置き去りの感があるが、他の3人はもはや子供ではなくなるのである。真如は育英舎を辞めて僧侶養成学校へと立ち去りゆくし、正太郎はといえば、大鳥神社の酉の市に三五郎がやっている大頭〔おほがしら〕(酉の市の売り物の一つである唐の芋のことと、①の注)の店やその他の知り合いの汁粉屋などを見回って「どうだ儲けがあるか」などと声をかけ、商売の仕方を伝授したりして、いっぱしの的屋の胴元みたいな雰囲気を漂わせている。
 そして美登利の決定的な変貌。外面的には髪型が桃割れから島田に変わり、子供から娘への変化を明示するのであるが、事はもっと重大。島田に結った美登利の艶姿にうっとりの正太郎が、何時結ったのだい、もっと早く見たかったのに、などと甘えかけるの対して美登利のとった態度はどこか奇妙。「美登利打しほれて口重く、姉さんの部屋で今朝結つて貰つたの、私は厭やでしようが無い、とさし俯向きて往來〔ゆきゝ〕を耻ぢぬ」。「憂く耻〔はづ〕かしく、つゝましき事身にあれば人の褒めるは嘲りと聞なされて、島田の髷のなつかしさに振かへり見る人たちをば我れを蔑む眼つきと察〔と〕られて・・・」。憂鬱で恥ずかしい事とはいったい何があったのか。被害妄想を伴った羞恥心と憂鬱の原因は何なのか。正太郎を振り払って独りで家へ帰ろうとするのをいぶかしがられると「美登利顔のみ打赤めて、何でも無い、といふ声理由〔わけ〕あり」。顔赤らめる事情とは何か。家に帰るとうつぶせに臥して口をもきかず、ついには忍び泣きまでする始末。なぜかと問われても、つらい事はいろいろあるが、これは人に話すような事ではないと、ただ顔を赤らめるばかりである。やたらに恥ずかしがっている。「ゑゝ厭や厭や、大人に成るは厭やな事、何故このやうに年をば取る」。この日を境にして美登利は生まれ変わったかのように別人になる。もう、正太郎とも他の誰とも遊ばない。たまり場であった筆屋へも行かない。表町は火の消えたように淋しくなる。
 美登利の突然の変貌をどう見るかについては2つの有力な説があるとか。初潮説と水揚げ説。議論の中身をまったく知らずに勝手なことを言わせてもらえば、私は水揚げ説に賛成。美登利の過剰な反応を見れば初潮説は説得力に乏しいのではないか。女性が初潮を迎えた時にどんな気持ちになるか男の私には分らないが、ここまで大騒ぎするかしら? 周辺の女性たちに尋ねる蛮勇は私にはないけれど、初潮に美登利ほど過激に反応することはないだろうと思う。それに、物語の筋道からしても初潮では通りがよくない。美登利が肉体的に成熟して子供でなくなったというだけでの話では、遊女として宿命づけられた美登利の物語が最後に来て貧弱なものになってしまう。ここはしっかりと決めておきたい。ところで水揚げとは何か。私の手元にある国語辞典はどれも、芸妓・遊女が初めて客に接することであるという程度の説明しか載せていない。これではよく分からない。美登利はまだ遊女にはなっていない。③にズバリの説明があるのでそれを引用する。水揚げとは「初めて男性に接して処女を喪失すること」であり、「処女が初めて店に出る場合、事前準備として水揚げが行われた。水揚げする男性は信頼のおける顧客から選ばれる。極秘ではないけれど、廓内の関係者だけで執り行われる大事な儀式で、廓の外に公表されることはない」。まさしくこれだろう。本人以外に事情を承知しているのは母親のみというのもぴったり符合する。皆は美登利が病気ではないかと心配したりするのに「母親一人ほゝ笑みては、今にお侠〔きゃん〕の本性は現れまする、これは中休みと仔細〔わけ〕ありげに言」う。美登利がスター遊女になるのを待ち望んでいるのは大黒屋の主だけでなく母親もなのである。その日も近い。
 表町は火が消えたように淋しくなり、正太郎が歌をうたうこともほとんどない。彼は今や毎晩借金の取り立てに忙しい。提灯をともして夜の土手を行く寒そうな姿が遠くに見える。彼がこれからやらなければならないのは祖母の期待に応えて質屋を再興することである。もう美登利と遊ぶことはないだろうし、美登利への思いも胸の内に封印しただろう。真如は坊さんになるために大音寺前を出て行った。美登利を愛した二人の少年はもはやいない。今後美登利を人間として愛してくれる男はいるのだろうか。真如とのはかない初恋が美登利にとって最後の恋になる可能性は大きい。遊女は本気で人を愛してはならない。偽物の恋が遊女の務め。真如が彼女に贈った造花の百合は二人の実らなかった恋を象徴しているだけでなく、美登利の行く末をも暗示しているのである。

木村荘八たけくらべ絵巻』