2022年バイロイトの『神々の黄昏』

 近頃ご無沙汰気味のクラシック音楽を聴こうかという気になって、年末から年始にかけ、NHKオンデマンドの「プレミアムシアター」で過去の番組を興味のおもむくままに見てみた。そのなかにバレーがいくつかあり、これがなかなか楽しい。ベートーベンの『第9』にモーリス・ベジャールが振付けたNHKホール公演、パリ・オペラ座のバレー『赤と黒』、同じくパリ・オペラ座の創立350年記念ガラ公演など。鍛え上げられた人間の肉体はここまで美しいのか。バレーって、飛んだり跳ねたり回転したりするだけではないのである。ダイナミックな跳躍もさることながら、小さなしぐさや顔の表情まで表現力に満ちている。しかも、すべての動作に過剰な部分がない。バレーダンサーの肉体に贅肉がないのと同様に踊りそのものにも贅肉がない。贅肉をそぎ落とした肉体による贅肉をそぎ落とした踊りがバレー芸術と言えようか。
 贅肉がないといえば、音楽にも贅肉のない音楽がある。純粋な音楽。例えばバッハの『無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ』。やはりオンデマンドの「五嶋みどり バッハを弾く」で全曲演奏を聴き、見た。バッハが宮廷楽長を務めたケーテン城での収録。ひたすら耳を傾ける。「ほかの音楽からの引用や旅から得たひらめきで作られたものではなく、バッハ自身が内に秘めていたものから作られています」という五嶋さんの言葉に納得。ヘーゲルが同じようなことを言っていたと思い、後で調べてみた。『美学講義』のなかで建築や彫刻や絵画と比べつつ音楽について次のように述べている。「音の原理にふくまれる外面性は内面的主観性を表現するのにふさわしい存在」「石や絵具は広く多様な物の形を受け入れ、それをありのままに表現するが、音はそれができない。・・・音楽の中心課題は、対象となる物ではなく、内奥の自己の主観的で観念的・心情的な動きを、そのまま音として響かせること」(長谷川宏訳)。
 もちろん音楽も100パーセント純粋になることはできない。楽器の干渉を排除することだけは不可能であり、それゆえ音が音自身によってのみ存在することはできない。バイオリン、ピアノ、人間の声など、音を出す手段により、同じ楽譜(楽器が違えば完全に同じ楽譜はあり得ないから、ほぼ同じ楽譜というべきかもしれないが)から違った音楽が生まれる。それでも原理的に音楽は他の芸術に比べて純粋である、あるいはもっとも純粋に近づきうる芸術であると考えられる。そして、なかでも一本のバイオリンで演奏される『無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ』のような作品は純粋性においてきわだっているといってよかろう。
 しかし、音楽は純粋性を志向するとは限らない。むしろそうでないほうが普通かもしれない。標題音楽や描写音楽といったものがあるだけではない。行進曲はどうか。言葉と一体となった歌曲があるし、民謡も軍歌も歌謡曲もコマーシャルソングも音楽だろう。バレー音楽があり、映画音楽がある。実際の音楽は現実世界とのつながり、他の芸術との提携を積極的に求めているとさえ言ってよいだろう。その頂点にあるのがオペラ。オペラには音楽以外の要素がいっぱい詰め込まれており、音楽として扱われるだけでなく、芝居としても扱われる。だったら楽劇と呼ぶのがふさわしいかも。音楽、脚本、劇場、大道具、小道具、衣装、振付、照明、そして演出などを考慮すれば総合芸術と呼ぶべきかもしれないが、これは映画なども含む上位概念なのでやはり楽劇と呼ぶのが妥当か。楽劇は音楽の観点からいえば贅肉がいっぱいで、それが魅力でもある。
 バイロイトの観客はガラが悪い。やはりNHKオンデマンドで2022年バイロイト音楽祭『神々の黄昏』を見て、そう思った。ブーイングの激しいこと。カメラは舞台上の歌手やスタッフしかとらえないが、ここはぜひ観客席も写してほしいところであった。興味深い見世物かつ歴史的映像になったはずである。第1幕、第2幕が終わった時にもブーイングはあったが、劇全体が終了すると、待ってましたとばかりにブーイングが鳴り響く。歌手が姿を見せた時には少し和らぎ、拍手も交じってはいたが、指揮者コルネリウス・マイスターに対しては厳しく、演出のヴァレンティン・シュヴァルツ以下、衣装や美術のスタッフ6人が登場するや否や容赦ないブーイングの嵐。もしバイロイトが野外劇場だったら石が投げられていたかもしれない。
 ブーイングはガラが悪いと思うけれど、観客の不満は理解できる。私はこの『神々の黄昏』の映像を3回見た。1回目はなにげなく、餅つき器(正しくは餅こね器だが)のつきあげる餅を丸めたり、あんこをつけて食べたりしながら、太鼓腹のジークフリートやな、などと思いながら眺めていた。そして最後のブーイングで目が覚めた。興味がわいてウェブ上でいくつかの記事やブログを読んでみると、この上演に対して否定的ないし懐疑的な評価しか見当たらない。それでもう一度映像を見た。今度は集中して見ているのだがよく理解できない。訳が分からない。ピンとこない。登場人物や音楽は『神々の黄昏』なのだが、なにかずれている。そこで3回目は、同じバイロイトパトリス・シェロー演出のもの(1980年収録)とハリー・クプファー演出のもの(1991年収録)を見て『神々の黄昏』はこういうものだったはずと確認した後で、2022年のシュヴァルツ演出版に戻った。気になる箇所は停止したり繰り返したりしながら、音楽を楽しむというよりもっぱら好奇心であれこれ詮索しながら見てみると結構おもしろい。

 Festspielhaus in Bayreuth © picture alliance / Eventpress Herrmann | Eventpress Herrmann

◇幕が開いてまず登場するのは3人のノルンではなく、台本にはない女の子と、その子に本を読んでやっている母親らしい女性と、少し離れた所に立つ男性。この3人は指環とブリュンヒルデジークフリートである。この女の子はなんと指環なのである。権力の象徴である指環が愛の結晶である子供の姿を取って、この後ずっと登場する。舞台も炎に包まれた岩山ではなく、普通の家庭の居間。ブリュンヒルデジークフリートが退場すると女の子は眠りにつき、3人のノルンが登場してうたい出す(普通はこの歌から劇が始まる)。そのうちの1人は女の子のベッドのカバーの下から姿を現す。ひょっとしてノルンとその絶望の歌(運命を紡ぐことができなくなってしまった)は女の子の見ている悪夢なのかもしれない。ノルンたちが紡ぐ運命の綱は浮き輪とビーチボールに置き換えられている。
ブリュンヒルデジークフリートの仲はどうもうまく行っていないみたいである。ジークフリートが新たな行動を求めて旅立つのを見送るブリュンヒルデの態度は別れを悲しむ妻のそれではなく、行きたいならさっさとどこへでも行ってしまえとでも言いたげな、どこか投げやりなものを含んでいる。旅の荷物の手渡し方もそっけない。その文脈でブリュンヒルデの歌に耳を傾けると、どうせ私は値打ちのない憐れな女ですよ、あなたは私をバカにしてるんでしょうと拗ねているように聞こえなくもないのがおもしろい。ブリュンヒルデジークフリートの夫婦仲が険悪であるという設定は必ずしも無理筋(台本に対する裏切り)ではないと私は感じた。
◇出立に際してジークフリートブリュンヒルデに指環(女の子)を贈り、それと交換にブリュンヒルデジークフリートに愛馬グラーネを贈るのであるが、指環が人間の女の子になっているのと同じくこのグラーネも人間の姿で登場する。白い髪を伸ばした中年か初老かの男である。この人物はすでに『ワルキューレ』でも登場しているらしい。キャリーバッグを持った彼を連れてジークフリートは旅に出る。グラーネを人間の姿で登場させる試みはこのバイロイトが初めてではない。私はたまたま2008年ワイマル国民劇場ライブ(ミヒャエル・シュルツ演出)のディスクを持っているが、そこでもグラーネは人間になっている。白髪を長く垂らした初老の婦人。しかし、この人間グラーネは理解可能である。彼女が母なるものを寓意していることは劇全体からはっきり見えてくる。ところがこちら2022年バイロイトの人間グラーネは意味不明。もしかしてブリュンヒルデの意向を受けてジークフリートを監視する役?
◇ギービヒ家一族はどうか。飲んだくれのグンター、けばい(としか言い表しようがない)衣装で超グラマーのグートルーネ、ポロシャツでジーパンのハーゲン。部屋の中央には3人がアフリカ(らしい)で縞馬を仕留めた時の写真。部屋にはさらに半透明の袋に入れた象(の模型)らしい物が転がっている。彼らは狩猟が趣味で、動物を殺すことに喜びを見出しているのか。グンターのシャツの胸には〈WHO THE FUCK IS GRANE?〉という上品とは言いかねる一文が縫い取りしてある。劇全体としてグラーネへのこだわりが強すぎるのではないか。グートルーネはスマホに夢中だしドラッグ依存。どうもこの人たちは品格も威厳もあったものではない。現代の軽佻浮薄でいかれぽんちの金持。それが演出の意図なのだろうが、ワーグナーとどう繋がるのか?

◇妹グートルーネをジークフリートの妻とすべくハーゲンは、過去に出会った女性のことを忘れる薬をジークフリートに飲ませるわけだが、この演出では、ジークフリートは薬の入った酒杯から飲むことなく、中の液体をグラーネの頭にかけるのである。緑の液体で服までドロドロになったグラーネ。忘れ薬の力を借りなくてもジークフリートブリュンヒルデのことを忘れてグートルーネに夢中になるということなのか。浮気者ジークフリート? 忘れ薬をかけられたグラーネは、かつての主人ブリュンヒルデのことを忘れるべし、新しい恋に余計な口出しするべからずということなのか。
 この場面でおもしろいのは、ジークフリートが液体でぬれた床で足を滑らせ転ぶところ。これも演出かと思ったが、どうも違うらしい。ほんとうに転んでしまったらしい。病気のステファン・グールドの代役で急遽ジークフリートをうたうことになったクレイ・ヒリーはまともなリハーサルなしで舞台に上がり(休暇中のバリから前日に電話で呼び出されたとか!)、予定以上の液体をこぼしてしまい、それに足を取られたのだろうか。もし彼が怪我をしたら代役の代役はいたのだろうか。怪我で代役といえば、この4日前に上演された『ワルキューレ』でヴォータン役のトマス・コニエチュニーが舞台上で負傷し、第3幕ではミヒャエル・クプファー=ラデツキー(『神々の黄昏』のグンター役)が代わりにうたったという。まだある。そもそも『二ーベルングの指環』を指揮する予定だったのはピエタリ・インキネンだが新型コロナにかかりコルネリウス・マイスターが代わりに振った。ここまで不運に見舞われてよくぞ上演にこぎつけたと言うべきか。不運に見舞われなくともブーイングの嵐には間違いなく見舞われたであろうけれど。
◇グンターとジークフリートが義兄弟の杯を交わす場面が興味深い。いや、いっそグロテスクと呼ぶべきか。二人がそれぞれ腕を切って血を酒に入れ、それを飲み交わす。はずなのだがそうならない。ハーゲンがコップに入った赤い液体を運んでくる。グンターは一口含んで吐き出す。ジークフリートはちょっとだけ口をつける。ハーゲンは血の付いたゴム手袋をはめている。ジークフリートとグンターがブリュンヒルデ獲得へと出発した後にハーゲンが一人残っていると、給仕が運搬用台車に裸で血みどろで痙攣しているグラーネを乗せて運んでくる。給仕の手にはナイフの入ったビニール袋。ハーゲンがナイフを手にしているところで第1幕2場の終了。コップの赤い液体はグラーネの血だったのか?! 


◇動画映像では見られないのだが、『ラインの黄金』でアルベリヒはラインの黄金を盗む代わりに子供を誘拐するということになっているらしい。つまり、この男の子がラインの黄金ないし指環ということになる。しかし『神々の黄昏』では指環は女の子になっている。さらに、男の子の服とハーゲンの服の色が一緒である。ハーゲンは誘拐されてアルベリヒに育てられた男の子なのか。ラインの黄金(指環)、男の子、女の子、ハーゲンの繋がり具合が見えてこない。 
ブリュンヒルデを妹ヴァルトラウテが訪れて、父親ヴォータンの窮状を救うべく指環をラインの乙女たちに返してほしいと頼む場面はあまり奇抜な演出ではないが、1つだけ目立つのはヴァルトラウテの衣装。かつては豪華な服だったようだが今は汚れ、擦り切れて穴が開いている。彼女の様子は、まるで嫁ぎ先の姉のところへ来て実家の困窮ぶりを訴え、何とか助けてほしい、このままだとお父さんが可哀そうと泣きついているような趣である。ブリュンヒルデの左胸に青いバラのタトゥーらしきものが見えて気になるのだがよく分からない。
◇妹を追い返したブリュンヒルデの前に求愛者グンターが現れる。これは変身したジークフリートなのだが、私にはグンター本人にしか見えない。彼は変身兜をかぶっていることはかぶっている。穴の開いた汚れたキャップである。それでもとにかく変身兜ではある。ギービヒ家を出る時にジークフリートが見せびらかしていた鍵も持っている。この2つの点からすれば論理的にはこれは変身したジークフリートであると考えるのが妥当である。しかし視覚的にはグンターである。視覚的にはキャップと鍵という小道具はほとんど効果がない。むしろ効果がないということを示すのが演出意図なのかもしれない。ブリュンヒルデは燃える炎に囲まれた岩山の上ではなく普通の家の居間にいるのであるから、ジークフリートの力を借りずに彼女に近づくことは誰にでもできる。鍵さえあれば変身兜など不必要で、野球帽をかぶったグンターがなんなく侵入してブリュンヒルデを手に入れると考えてもおかしくない。 
 それにまた、このグンター、かなり暴力的である。子供に猿ぐつわをかませて後ろ手に椅子に縛りつけるかと思えば、ブリュンヒルデの首を絞めあげて壁に頭を打ちつける。さらにベッドに押し倒して暴行。幼児虐待と家庭内暴力なのか。そしてグンターは暴力でブリュンヒルデを我が物としたのか。ここまで来るとワーグナーから随分隔たったという感じがする。
◇ハーゲンと父親アルベリヒが出会う場面ではボクシングのサンドバッグをハーゲンが殴っている。アルベリヒはミットを構え、それをハーゲンが打ち込む。父親がコーチで息子が選手。神々に復讐し、ジークフリートを倒して指環を手に入れるためのトレーニングか。
◇しかし、なんといっても最大の不評の的は第3幕。皆さん異口同音に貶している。幕が上がると、空っぽの錆びついたプールの底の水たまりでジークフリートと子供が魚釣りをしている。ジークフリートは頻繁にビール瓶を手にする。3人のラインの乙女は破れコートにハイヒール、サングラスをかけた女性たち。かつてはしゃれたオフィス勤めだったが会社倒産で路頭に迷い出たホームレスか。1人は片方しか靴を履いていない。彼女たちが手にしているのはミネラルウォーターの入ったペットボトル。ライン河が水たまりとビールとミネラルウォーターによって置き換えられているのか。
ジークフリートはハーゲンに槍ではなくナイフで背中を刺されて死に、その後ずっとその場に転がったままである。男たちに担がれてギービヒの邸宅へ戻る場面もない。あの「ジークフリート葬送」が重々しく鳴り響くあいだも転がったまま。私たちの目が見ているものと耳が聴いているものとの乖離が著しい。このように音楽を無視することがはたして正当なのだろうか。
◇グンターはすでに第2幕の途中から白いビニール袋を処分に困ったように持ち歩いていたのだが、ここにきてこの袋をプールの片隅に投げ捨てる。ジークフリートの誠実さを称え、裏切りを嘆き、その彼に対する愛を滔々と歌い上げたブリュンヒルデがポリ容器の液体(ガソリン? さすがに実際に液体は出ないが)を自分の頭からかけた後、白いビニール袋を開けるとグラーネの首が出て来る。ブリュンヒルデはそれに接吻し、抱きしめつつ、ジークフリートの遺骸と並んで横たわる。何ですかね、この首。リヒャルト・シュトラウスの『サロメ』のように倒錯した愛という文脈で理解できるわけでもない。デイヴィッド・リンチャ―監督の映画『セブン』との関連に言及している人もいる。ブラッド・ピット扮する刑事の妻が殺されて、その首が段ボール箱で送られてくる話。関連あるかどうか、私には判断不可能。
◇そしてフィナーレ。燃え上がる炎にブリュンヒルデが愛馬グラーネとともに飛び込む場面などは、ここまでの経緯からしてあり得ない。ジークフリートの遺骸、グラーネの首、ガソリンをかぶったブリュンヒルデがそこに横たわっているだけ。静かなものである。指環を争ってグンターがハーゲンに殺される場面もない。火が燃える気配もない。ブリュンヒルデは最後に上方に腕を伸ばす所作を2回繰り返す。ワルハラも燃えていることを暗示しているのだと私は理解したが、どうだろうか。そして最後におまけが付いて来る。大型プロジェクション画面に2人の胎児が映し出される。『ラインの黄金』の最初でも2人の胎児が映し出されるそうである。胎児に始まり胎児に終わる『二ーベルングの指環』。こうなると私には理解する術がない。
◇◆◇
 バイロイトにおけるブーイングはなにも今回が初めてではない。これまで何度も繰り返されてきた。特に1976年のパトリス・シェロー演出、ピエール・ブーレーズ指揮の『二ーベルングの指環』初演時のそれは有名である。ブーイング派の観客とブラボー派の観客の間で小競り合いまで起こり、警察が出動したとか。この演出はその後若干の手直しが加えられたようだが、映像化された1980年のライブを見る限り、なぜブーイングを浴びせられたのかよく分からない。違和感は感じない。清水多吉『ヴァーグナー家の人々』(中公新書)は次のように記している。「パトリス・シェローの演出は、奇想天外なものであった。彼のねらいは、ヴァーグナー楽劇における神話性の徹底的否定であり、人物、時代設定の完全な現代性であった。・・・ギビフング族の王グンターは、蝶ネクタイにモーニング姿のエスタブリッシュメントであり、梟雄ハーゲンはプロレタリアートの指導者、労働組合の委員長然としている。そのうえ事もあろうに、英雄ジークフリートはヒッピー青年まがいである。したがって、プロレタリアートが、横死したヒッピー青年ジークフリートの棺を担ぐ様は、何やら過ぎ去った60年代後半の思想状況に対する挽歌のようにも思える」。
 1980年ライブ版に見るシェロー演出は年ごとの手直しを加えられたせいかもしれないが、そこまで過激とは私には見えない。しかし、神話性が否定されているという点は確かにそのとおりであり、神話性を否定した演出は必然的なものであったとも思う。『二ーベルングの指環』はとうてい神話や伝説や寓話で終わる作品ではない。北欧神話やゲルマンの英雄伝説、メルヘンといった衣に惑わされてはいけない。権力をめぐる闘争、富への欲望、没落への恐怖、信頼と裏切り、愛と憎しみ。これらを過去の物語としてではなく、現代的アクチュアリティを持ったものとして理解することはまったく理にかなっている。ワーグナーの台本と音楽がそうさせる力を秘めているのである。今では、シェローの演出がワグナーからの離反だとは、たいていの人は考えないだろう。
 今回のシュヴァルツはどうか。シェローのように、初演時の反発も徐々に収まり5年後には認められるという道を進むのか。そうはならないと私は思う。なぜか。ワーグナーからの逸脱が大きすぎ、そのうえ追及するところがよく分からないからである。擦れ違い夫婦になってしまったブリュンヒルデジークフリート、頽廃した富裕層であるギービヒ一族、暴力的なグンター、経済的に困窮しているらしいヴォータンとワルキューレ、ホームレスらしきラインの乙女たち。これらの姿形をとおして現代社会の病理を描こうという意図があるのだろうと私はなんとなく察するのだが、確信はない。とにかく劇全体のイメージが焦点を結ばない。人間の姿を取った指環とグラーネは劇の展開にうまく嵌まり込んでいるとは思えない。女の子(指環)が絶えず登場するのは目障りでさえある。グラーネがリンチされ(たぶん)、首をちょん切られることは必要なのか。興味本位すぎないか。女の子のところからアルベリヒが持ち去るおもちゃの(水?)鉄砲、ハーゲンがはめているメリケンサック、女の子が持ち歩く馬のぬいぐるみなど、小道具の使い方にも疑問が残る。
 『ヴァーグナー家の人々』は『二ーベルングの指環』演出の歴史について次のように述べている。「『指環』の舞台は、多種多様な寓意性をこめて上演されてきている。あのヴァルハラをニューヨークの摩天楼に見立てた演出の仕方もあった。とすれば、黄金の指環にまつわるさまざまな人間の葛藤は、資本主義社会の欲望と権力争いになぞらえられる。また、ヴァルハラをクレムリン宮殿に見立てれば、『指環』の演出は、社会主義社会の権力争奪を揶揄する内容となる。あるいはまた、ラインの三人の乙女にヌード・ダンサーを配し、その他、神々、英雄たちに宇宙服まがいのコスチュームをつけさせ、ヴァルハラを宇宙船のコントロール室にでも擬するなら、『指環』は、『スター・ウォーズ』ばりのエロチック・アクションものになる。これらは、実際に演出され、上演されたもののほんの数例にしかすぎない」。いやはや、いろんなおもしろい演出があったものである。しかも1980年時点の回顧でこれだから、それ以後どんな演出があったことやら私の想像を絶する。
 資本主義社会の欲望と権力争いとか社会主義社会の揶揄への作り替えであれば、好き嫌いは別として、あり得る、つまりワーグナーから逸脱していない、と思う。2013年からのバイロイトにおけるフランク・カストルフ演出の『二ーベルングの指環』は、石油資本をめぐって米国やロシアが争う構図になっていたらしい。『ラインの黄金』ではルート66号沿いのガソリンスタンドとモーテル、『神々の黄昏』ではニューヨークの証券取引所が出て来たりするそうである。私は見ていないので無責任な事は言うべきでないと承知の上で言うのだが、こういった演出もあり得るのではないか。
 こうなれば、是非2022年のバイロイトニーベルングの指環』4作すべてを映像で見てみたいところである。『ワルキューレ』ではジークリンデは最初から身重の状態で登場するという。ではジークフリートの父親はジークムントではないのか。いったい誰が父親? 素直に考えれば夫のフンディングだが、ヴォータンだという説もある。どちらにしても大問題だが、そのような変更がはたして可能なのか、説得力があるのか、自分の目で確かめたい。それ以外にも『ラインの黄金』では保育園に子供がいっぱいいる場面があるとかで、好奇心が疼く。しかし残念ながら映像で確かめることはできない。
 今年の夏も『二ーベルングの指環』は引き続きシュヴァルツ演出で上演されることになっている。指揮はピエタリ・インキネン、ジークフリートをうたうのはステファン・グールドで、昨年の当初に予定されていた顔ぶれである。ブリュンヒルデはキャスリン・フォスターに替わる。アホみたいなことを言うようだが、昨年代役でジークフリートをうたったクレイ・ヒリー、ブリュンヒルデのイレーネ・テオリン、そして今年のグールドにフォスター、皆さん揃って肥満体である。クラシックの歌手は立派な体格の人が多いことは多いのだけれど、よくぞこれだけ太い人が勢ぞろいしたものである。思わず、これも演出の一環かと勘ぐってもみたくなる。シェローなどの演出は神話性を否定するかに見えて権力をめぐる相克を基軸にしていて実は神話性を保持している、神話性の否定を徹底させるためには神や英雄にふさわしい体型の歌手ではなく現代的肥満体型の歌手にうたわせるべきだ、とシュヴァルツが考えたわけではないだろうけれど。今年のバイロイトはどうなるのだろう。またもやブーイングなのか。野次馬としては興味津々。
 音楽の贅肉で始めた今日の駄文も歌手の贅肉の話が出たところでこれにて終了。