工藤直子さんの詩

 半年前に『工藤直子全詩集』が出た。30年か40年か昔に読んだ『てつがくのライオン』はとてもおもしろかった。でも、その本は誰かに読めと勧めて貸したかして行方不明。今、私の手元にはハルキ文庫版の『工藤直子詩集』があり、時々読む。今回出た『全詩集』は9000円。ちょっと高いな。最初は図書館で借りて目を通した。10代の工藤さんが書いた未発表の詩や300部発行の私家版にしか載っていないらしい詩、雑誌や新聞に発表された詩などを含め工藤さんのすべての詩が載っている。やっぱりそばに置いておきたいな。エイヤッと買った。以下、いくつかの詩を取り上げ、蛇足ながら私の感想を付け足した。

◇まずは未発表の詩をひとつ。

晴れた日

ちょうど こんな日だった
城の松の木をすかして
空を眺めたのは
雲の色が目にツンとしみて
“コンチクショウ”と
石を投げたっけ

*『全詩集』の末尾に工藤さんが自分と詩の関わりを簡潔に振り返った「小さい頃 出会った、コトバたちが・・・」という文章がある。そこでは、中学高校時代に島崎藤村中原中也大手拓次などに夢中になったと述べられていて、石川啄木の名は挙げられていない。しかし、どうも啄木も愛読していたのではないか。上の詩は「不来方〔こずかた〕のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」という啄木の歌を思い起こさせる。
 不来方城は盛岡城の別名で、これは啄木が15歳の頃の盛岡中学時代を回顧して詠んだ歌。工藤さんの詩は1951年と明示されているので15歳か16歳の時のもの。「ちょうど こんな日だった」と回顧した形になっているけれど、15、6歳あるいはそれに近い年頃の少女の気持ちを表現したものと理解していいだろう。その頃彼女は彦根在住だったので彦根城の松の木越しに青空と雲を眺めてこの詩を作ったのかもしれず、啄木の歌とは直接の(あるいは間接的にも)関係はないかもしれない。それでも、共通する感受性があると私は感じる。子供から大人へと変身しつつある若者の屈託をかかえた心。何かから逃れるようにしてやって来たお城。見上げると青い空。心は一瞬救われる。というのが共通した感受性。ただしその先はちょっと違う。啄木の心はその空に吸い込まれ一体となるが、直子少女の心はそこまで行かない。青空に雲が浮かんでいるように心にも何かしらわだかまりが湧き上がってくる。実際にか、あるいは心の中でかコンチクショウと叫び、石を投げずにはいられない。そのように屈折した思春期の心。

◇屈折した心は同じく未発表の詩(1953年)で次のように表現されている。



くたびれた
たくあん石のように
わたしの心は
かびの匂いがする

*1行目の「くたびれた」は2とおりに解釈が可能。「ああしんど」という作者のため息であり、この1行で切れていると取るのが解釈1。「くたびれたたくあん石」と続けるのが解釈2。私は両方とも妥当であり、どちらかに決定などしないで両方に解釈したらよい、むしろそうすべきだと思う。人間もたくあん石もくたびれているのである。それにしても、17、8歳の直子さんの心がかびの匂いがしたとは!

◇次の詩も未発表のもの(1951年)。

悲しみって……

悲しみって
ほんとうに
胸いっぱいに
なるものですね

こころって
ほんとうに
からっぽに
なるものですね
わたし
しらなかった

◇そんな10代の直子さんが見た太陽はまだ孤独であった。次もやはり未発表の詩(1954年)。



あおい あおい
  お空の真ン中で
あぶらのしずくのような
  おひさまが
きんきらきんきら
  光っています
だあれもいない
  お空の真ン中で
ひとりぼっちのさみしさを
  じっとかみしめて
きんきらきんきら
  光っています

◇でもみんなが心配してくれたおかげでその後太陽は孤独でなくなった。次の詩はそれの始まりの一端を伝えるエピソードと読める。直子さんの孤独感も癒されたのかな。

てんてん(でんせつ・てんとうむし)

まわるほしのまんなかで たいようはひとりぼっちだった ひとりというのは からだによくない たいようは メソメソひえこんだ こりゃいかんとみなはそうだんして あそびあいてをおくることにした てんとうむしが「ぼくがいこう」といった たいようも ぼくも あかくてまんまるで 「おにあい」だろ? それいらい てんとうむしは たいようにむかって とびあがり アッチッチとなったりするので くろいこげめがてんてんとついた

*言われてみれば、赤くてまん丸の太陽とテントウムシって意外といい友達なのかもしれない。それにどちらも黒点まであるし! それから天に到達する天到虫などとダジャレ解釈だってできるし!!

◇ともあれ今では太陽は遊び好きの元気者である。

いつも いまでも いつまでも

「おーい」
きょうも空から太陽が呼びかけている
「なーんだい」
きょうも緑色の地球が
へんじしている

「いっしょに あそぶもの
このゆび とまれ」

あはは
また いってるよ
いつも いまでも いつまでも
太陽は あそびずきだね

◇直子さんも元気に野原や森や空や海のいろんなもの達と言葉で遊んでいる。ライオンに哲学させたり、イルカにクジラ宛の手紙を書かせたり、地球にでんぐりがえりさせたり、風に子守唄をうたわせたり、アマガエルとシジミチョウにおしゃべりさせたり、クヌギおやじにニュース放送をさせたりで、直子さんの詩の世界は動物、虫、花、木、海、空、太陽、月、風、等々がいっぱい。なかでも『のはらうた』シリーズは「のはらみんなのだいりにん くどうなおこ」さんが「のはらむらのみんなが しゃべるたびに、うたうたびに、・・・かきとめました」というもので、「あげはゆりこ」「ありんこたくじ」「からすえいぞう」「こざるいさむ」「こぶたはなこ」「すみれほのか」「へびいちのすけ」「けやきだいさく」「にじひめこ」など100人を超える人物(?)の歌を掲載。子供たちに人気があるのは当然として大人が読んでも楽しい。次の詩は小学校1年生の国語教科書に載せられたもの。

かたつむりのゆめ
      かたつむりでんきち

あのね ぼく
ゆめのなかでは、ね
ひかりのように はやく
はしるんだよ

◇『のはらうた』のなかで最も多くの作品(10篇)を提供している「こねずみしゅん」君の1篇。

あきのそら
       こねずみしゅん

くぬぎばやしで
どんぐりを
だいていたら
かぜが ひゅうと
とおりすぎました
みあげると
こえだを すかして
あおいそらが みえました
きれいだよ きれいだよ と
なんかいも いいたくなる
あおい そらでした

しんこきゅうしたら
こころの なかまで
そらいろに そまりました

*こねずみしゅんの心は15歳の啄木と同じように青空と一体化したぞ。よかったね。

◇『のはらうた』のなかで私が好きな詩を使ってクイズを出してみたい。次の詩のタイトルと最終行の「○○○ぜ」には同じひらがな3文字が入るが、それは何でしょう?

○○○ぜ
      かまきりりゅうじ

もちろん おれは
のはらの たいしょうだぜ
そうとも おれは
くさむらの えいゆうだぜ

しかしなあ
おれだって
あまったれたいときも
あるんだぜ
そんなときはなあ
おんぶしてほしそうな
かっこになっちまってなあ
  ・・・・・・
○○○ぜ

*カマキリの恰好がほうふつとしてくる。そして、あの格好であの気持だったのか。思わず膝を打って笑ってしまう。ここに入るのは「おこるぜ」「わらうぜ」「なけるぜ」「こけるぜ」「はしるぜ」「だるいぜ」「へこむぜ」「あせるぜ」なんかではありません。答は末尾で。

◇工藤さんには『のはらうた』以外にも虫や動物の詩がたくさんある。次の詩は『のはらうた』の「みのむしせつこ」さんとは別のミノムシが主人公の作品。

ゆれるミノムシ

クヌギの木陰で やすんでいたら
アタマのうえで声がした
「こまったもんだわ、まったく」
みあげるとミノムシが 中途半端に ぶらさがっている
それは じつに「こまった」ふうにみえる

「なにか 手伝えること ある?」
「あたしったら……
のぼりたいのかしら くだりたいのかしら」
ミノムシは どんどん こまっているので
わたしは どんどん 手伝いたくなる

そこで
「あんた まるでクヌギの首飾りみたく かわいい」
と つんつん つついて ゆらしてやる

ミノムシは わらった……
  ようにみえた
ミノムシは「中途半端がいい」と思った……
  ようにみえた

初夏のある日の 林のなかの はなし

*上か下か、どちらに行きたいか分からず決定不能に陥って困っているミノムシ。それを見た工藤さんはますます困らせてやろうと突っついてやる。上へも下へも行かずにそんなふうに揺れているのがいいんじゃないの、かわいらしいよ、と。するとミノムシは、なるほどね、中途半端でいるのがいいかもねと笑っている(悟っている? 居直っている?)・・・ように見える。ほんとうはどう思っているのか。これがミノムシでなくて人間だったら深刻になってしまうところである。例えば次のような短歌。「自動エレベーターのボタン押す手がふと迷ふ真実ゆきたき階などあらず」(富小路禎子)。

◇工藤さんの詩に登場する動物たちはだいたいフレンドリーで、互いに仲良しである。しかし、そうでないこともある。

ライオン

雲を見ながらライオンが
女房にいった
そろそろ めしにしようか
ライオンと女房は
連れだってでかけ
しみじみと縞馬を喰べた

*最後の1行が強烈。音韻とイメージが巧妙に組み合わされていて、一度読めば忘れることができない。simijimitosimauma。3行目の「めしmesi」とも響き合っている。ライオンがしみじみと縞馬をめしにしたのは音に素直に従っただけなのかもしれない。それとも自然界の法則に従ったのだろうか。別の詩「夕陽のなかを走るライオン」では孤独なライオンは縞馬と友達になったのだけれど・・・

◇最後に、何がなんだかわけが分らないけれどおもしろいと感じた詩(!)をひとつ。『蕪・象・船長・猫…たち』(1969年私家版)初出で、それ以後他に転載されたかどうかは不明。10代の直子さんでも『のはらうた』の直子さんでも書かなかった不思議な詩である。

都会のたくさんの卵への葬式の歌

あんたらは年をとりすぎたので
口紅をぬりながら 死にたいと叫び
そうだ死ぬべきだというと
たちまち ふくれて また10年生きのびる
部屋は あんたらと あんたらの卵でいっぱいだ

都会の温度は卵にぴったりで
あんたらのスカートのなかに
二つや三つや六つや七つの卵がぬくもっている
あんたらは足もとがみえないほど ふくらんで
くすくす笑って空に浮かぶのだって?

知りあいの彫刻家は 卵あたまを
あとからあとから彫るが
人間そっくりなので売れやせん
そのうちあんたらは もっと年をとりすぎたので
もっと口紅をぬりながら もっと死にたいと叫び
もうだれも何も言わないから
不機嫌に卵をふやしてなさい
なぜあんなのっぺりした卵を
愛したり頬ずりしたりするかといえば
それはおそらく陽気のせいであって
そろそろ都会は卵でうずまり
あんたらはじめ みんな目を閉じてしまう

しかし 卵は割るべきで
かきまわすべきで喰べるべきで
卵も嵐も踏みこえて
あんたら笑って立って言ってみな それ
卵の葬式
卵の葬式
卵の葬式
卵の葬式

◇クイズの答「てれるぜ」