中原中也と安原喜弘

 去年の10月山口市湯田の中原中也記念館を訪れた時、「君に会ひたい。―中原中也の友情」というテーマで展示が行なわれており、8人の友人についてそれぞれコーナーが設けられていた。そのなかで私が知っている名前は大岡昇平小林秀雄河上徹太郎だけで、他の5人、正岡忠三郎、竹田兼二郎、安原喜弘、関口隆克、高森文夫については知識の持ち合わせがなかった。
 最初の3人は言わずと知れた文学上の大きな存在であり、かつ、中也との関係においても注目されるべき人たち。まずは何といっても小林秀雄長谷川泰子をめぐる確執と「友情」によって中也と固く結びついていた人。中也から「奪った」泰子に献身的に尽くしたが、最後には、潔癖症で精神不安定な彼女から逃げ出さざるを得なかった。展示テーマの「君に会ひたい」というフレーズは小林がまだ泰子と暮らしていた時期に中也が彼に宛てた手紙から取られたものである。大岡昇平は「自分と同じように不幸になれと命じた」中也に背いたという意識を持ち続け、贖罪であるかのように(御本人は違うとおっしゃるだろうが)中也の全集の編集に携わり、詩集の解説をし、中也伝をいくつも書き、中也を今日あるような形で世に有らしめた第一人者。河上徹太郎は、「生前その奇行を以って身辺の者を一人残らず(つまり河上をも)悩ました」中也に、「今はそういう私情を棄てて彼の純潔さの面を見てみたい」として、自著『日本のアウトサイダー』の最初の2章をはじめとする幾多の文章を捧げた人。
 では、この3人のような著名な文学者ではなかった人たちは中原中也とどんな関係にあったのか、どのような付き合いをしていたのか。あの、さぞかし付き合いにくかったであろう中原中也の友人であったこの人たちってどんな人たちであったのか、という興味が少し湧き、『中原中也全集4、日記・書簡』(1968年、角川書店)を手に取った。
 そこに収められた中也の手紙は全部で178通。受信者別一覧表を見ると、安原喜弘が100通、次に河上徹太郎14通、長谷川泰子9通、小林秀雄8通、正岡忠三郎8通となっている。大岡昇平宛の手紙は中也と大岡が大喧嘩をした後、大岡が燃やしてしまったので残っていない。それにしても安原宛の100通というのはけた違いである。書かれた手紙の数と残された手紙の数は必ずしも比例しないであろうが、それでも安原の100通はたまたまと片付けられる数字ではない。量的違いは質的違いに通じるのか。中原中也と安原喜弘との付き合いはどんなものであったのだろうか。記念館でもらったハンドアウトには次のようにあった。〈成城高校を経て、京都帝大卒業後、百科事典の編集・執筆や文筆活動を行う。戦後、玉川大学出版部などに勤務し、「文学草紙」に連載した原稿をもとに『中原中也の手紙』を出版した〉。
 私は知らなかったが、中也のファンなら先刻承知のことなのであろう。安原宛の手紙はこれまでも独自に公開されていたのである。まず、中也の死後3年を経た1940年から同人誌「文学草紙」に発表され始めた。しかし戦争のためにその同人誌は廃刊となり、連載も中断された。戦後1950年に既発表分に未発表の分も加えて単行本『中原中也の手紙』(書肆ユリイカ)が刊行され、翌年の創元社版『中原中也全集』にも掲載された。しかしまだ欠けているのもあったらしく、1968年の角川版全集になってようやくすべての安原宛手紙が公にされたということらしい。その後さらに単行本『中原中也の手紙』が玉川大学出版部(1979年)と青土社(2000年)から出されている。角川版全集以後に加えられた重要な資料というのはないようであるが、単行本には、安原の注釈や解説が「文学草紙」に書かれたものと新たに書かれたものとが掲載されており、これによって、中也と安原の交友関係がどのようなものであったかが理解しやすくなっている。私も青土社版を読み、さらに『新編中原中也全集第五巻、日記・書簡、解題篇』(2003年、角川書店)も参照しながら、安原喜弘という人物について考えてみた。以下、安原喜弘の引用は『中原中也の手紙』(青土社)により、大岡の引用は大岡昇平中原中也』(講談社文芸文庫)による。
 安原喜弘は1908(明治41)年5月生まれなので中也より1歳年下。中也との出会いを「中原が初めてその仮借なき非情の風貌を私の前に現したのは昭和三年秋のことであつた」と記している。成城高校の同級生であった大岡昇平が彼の家へ中也を連れてきたのである。西暦では1928年、中也21歳、安原20歳。「仮借なき非情の風貌」とは抽象的で分かりにくいが、「彼の皮膚は一種非情な色を湛えて澄んでいた」「彼の眼は深い不安を宿してはいたがその光は飽くまで澄んでいた」という叙述から推すに、つややかな肌やキラキラ光る眼の持ち主でなかった、つまり一般に21歳の若者から世間が期待する健康さなど持ち合わせていなかったことは確か。安原は病的な透明さに驚愕したのであろう。そこにまた深い精神性をも見て取ったのだろう。以後、中也が死ぬ1937年まで9年間付き合いは続くのであるが、それがもっとも濃密であったのは1929年から1933年にかけての4年ほどで、中也のもっとも孤独で不幸な時期にあたる。
 1929年には成城高校を出た安原、大岡昇平、富永次郎の3人が揃って京都大学に入学している。その間の事情について大岡は、「東京に家を持つ我々が京都を選んだのは、幾分富永〔太郎〕、中原の放浪癖にかぶれたからであるが、同時に中原の影響から逃げだしたい気持もあった。当時中原は絢爛たる話し手であって、その詩と共に、議論で我々を眩惑したのであるが、中原は崇拝者に対しても甚だ嫉妬深く、我々が彼の教えるところ以外を考えることを許さなかったので、中原との交際がだんだん息苦しくなって来たのである」と述べている。とはいえ、この頃、この3人に中也、河上徹太郎などが加わった9人で同人誌「白痴群」が創刊されている。これも大岡に言わせれば「主に中原と河上徹太郎のもの」「はっきりした主義主張があるわけでなく、中原の交友範囲の文学青年が十円の同人費を持ち寄っていたずら書きを活字にしただけのもの」であり、翌30年4月に6号を出して廃刊になってはいるが。
 安原は大学の休暇で東京に帰省するたびに彼が「中原との市井の放浪生活」と呼ぶ生活のなかに放り込まれた。「私達は殆ど連日連夜乏しい金を持つて市中を彷徨した。いつも最初は人に会いに行くのであつた。三度に二度は断わられた。それから又次の方針を決定し、疲れると酒場に腰をすえるのである。時には昼日中から酒を飲んだ。酔うと人によく絡んだ」「彼の呼吸は益々荒く且乱れて、酔うと気短かになり、ともすれば奮激して衝突した。彼の周囲の最も親しい友人とも次々と酒の上で喧嘩をして分れた。私は廻らぬ口で概念界との通弁者となり、深夜いきり立つ詩人の魂をなだめ、或は彼が思いもかけぬ足払いの一撃によろめくのをすかして、通りすがりの円タクに彼を抱え込む日が多く続いた」。一般の概念で世界を理解することを拒否する中原を世間と通じ合わせるために安原は通訳を勤めなければならなかったのである。「廻らぬ口」は酒のせいでもあろうが、中原の言葉を通訳するのに不足な自分の表現力のことをも言っているのではなかろうか。
 1930年の4月から5月にかけては中也が京都の安原を訪れ、滞在する。この時すでに大岡と富永は中也と大喧嘩をした後だったので、安原は二人には連絡をせず、中也はもっぱら安原と京都の町を彷徨したのである。その時の様子は安原によって次のように伝えられている。「彼は深夜宿の二階で同宿の学生と喧嘩をして血を流した。それでも彼はその小軀に満々の自信を以て六尺に近い大男に尚も立ち向つた。そして私は血にまみれた彼を抱き深夜医者を起こして彼の瞼に二針三針の手当を乞うのであつた。又或時は彼は裏街の酒場で並居る香具師の会話にいきり立ち、その一つ一つに毒舌を放送して彼等を血相変えて立ち上がらせるのであつた。そして彼は、取り巻く香具師の輪の中で何か呪文のようなものを唱え、やがてそこを踊りつつ抜け出すのである。学者たちの会話は特に彼の奮激の因となつた。誰彼の見境なく彼はからんだ」。安原は飲む場所を選ぶにもできるだけ中也が人と衝突しないような店の衝突しないような席をと心がけるのであるが、徒労に終わる。「私は座席の位置、衝立の在り方、光線の具合、彼と私との向き、周囲の客の種類や配置、私達の会話の内容等それとなくいろいろに心を配るのであるが、それもこれもすべては無駄である。私が気が付いたときには既に彼の声は凡ゆる遮蔽物を乗り越えて遥か彼方に飛んでいるのである。私は又彼をかかえて次の場所を求めねばならなかつた」。安原さん、大変すぎる。これでは酒を味わうどころかトイレに行くこともままならないではないか。私が40年早く生まれていて、学生であって、新京極か出町の酒場で飲んでいるとき、中也が世間の馬鹿さ加減をののしるのに出くわしたとしたら、ぜったいボコボコにやっつけていたはず。二針三針ではすまない。そして、もし、安原と知り合いであったなら(私も文学部なのでその可能性無きにしも非ず?!)、あんな奴と付き合うのやめとけと忠告に努めたはずである。私と同じような思いの人間は当時もいたのではないか。そして、安原に忠告もしたのではないか。ま、これは勝手な空想。いずれにせよ安原は終生中原の忠実な友であり続けた。5月3日に中也は東京へと帰って行き、「後はさながら大嵐の引いたあとのようであつた。手紙はこの頃から遺されている」。以下にそのなかから一部分を抜粋して、中也と安原の付き合いぶり、というか安原の見た中也の姿を垣間見てみよう。◆は中也の手紙、◇は安原の注釈、*は私の補足と感想。
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◆僕が言ふまでもなく、学校はチャンと出てをいた方が好い。世間はオホザッパで、学校に出られれば出るにこしたことはないと、僕にしてからが思ったりする。(1930.05.21)
◇当時私は京都大学の哲学科に籍を置いていたのだが、人生の図式化のすさまじさ・・・に気圧されて屢ゝ去就に迷つた末兎も角も一応はさりげなくこの地域を通過する決意を申し述べたのに対し、この手紙はそれへの回答として書き寄越されたものである。
*安原は大学1年生になったばかりで人生の迷いも多い年頃。大学をこのまま続けるべきかどうか手紙で中也に愚痴ったのだろう。
◆麻雀は三四日前からイヤ気がさして来ました。底の知れたものです。僕事、多分初段位ではあるでせう。三四ケ前までは、正月以来、毎日三卓はやってゐました。(1931.02.16)
◇この頃の彼は殆ど麻雀屋に入り浸つていたようだ。正月の休みに私が彼を訪ねた時も多くはそこに彼の姿を探し当てた。彼の麻雀については彼は非常な自信を持つものの如く見受けられた。そして私の知る限りでは彼の麻雀は一種異様な殺気に満ちたものであつたように記憶する。
◆早く帰って来ませんか。僕は今月末まで東京にゐます。会って話したいと思ひます。先日の君の手紙に、僕は返事をしてゐませんが、僕には君の今の気持に手紙で返事したくなかったのです。・・・僕は早く会って話してみたいのです。君はあんまり無言すぎます。それでは誰もどうにもなりません。(1931.06.14)
*安原の無言について中也は後にもっと長い手紙を書くことになる。
◆この手紙が着く頃は御帰京のことと思ひます。お訪ねしたくも電車賃もない有様、その代り毎日籠ってゐるだけは確実に付、何卒やって来て下さい。(1931.12.30)
◆日大の方運動してみられることよいと思ひます・・・大学ならば、時間も少く、朝八時からとばかりも限らなく、専門的だから却てしらべも楽でせう。君一流の謙遜で中学にしたり、其他一時的なことを始められるより大学か予科はよいと思ひます。(1932.02.07)
*安原は大学卒業間近となり就職のことで中也に相談したのだろう。中也は、大学の教職なら授業時間も少なくて済むし、朝早くから出勤しなくてもよいし、研究環境も整っているからよいのではないか、遠慮して中学にすることはないと言っている。
◆おいで待ちます。・・・二十三日着かれること好都合ですが、尤も君の都合次第では、何時だって結構です。何卒、お待ちします。田舎だってヒト味です。一緒に山登りをしませう。(1932.03.17)
*これは卒業した安原を郷里山口へ招待する便りで、山口湯田から出されたもの。安原は3月末に山口を訪問した。
◇私はこの月の二十四日におみこしを挙げ詩人の郷里訪問の途についた。そして五日の間彼及彼の家族の方々の誠に心からの手厚い歓待に身を委せた。・・・長門峡では俄雨に襲われた。・・・私達は・・・静かに酒を汲んだ。彼は少しずつではあるが絶えず物語つた。・・・詩人は己を育てたこの土地の中に身を置いて今しきりに何事かを反芻するものの如くであつた。そしてそれを私に語ろうとした。然しながら彼の顔には何事か語り尽し得ぬ焦燥と失望の色が漂うのであつた。・・・帰途彼は汽車で途中まで私を送つて来た。彼は未だ何か私を離したくない様子であつた。何事か重大な事柄が彼の心の中に残されている風であつた。途中天神様のある古風な街で下車してそこのうらさびた街々をあてもなく逍遥つた。彼は遂に語らなかつた。私は夜遅い汽車で東に去つた。私は一旦京都に寄り、荷物を纏めて東京に引揚げた。私の京都生活も終わつたのである。詩人も二週間して東京に帰つて来た。詩人と私との交渉は益々繁くなつた。月のうち二十日は私が彼を訪れるか彼が私の宅に来るか、それともどこかで落ち合うかして行を共にすることになるのである。
◆先日は失礼しました。これから一寸京都へ行って来ます。高森と一緒です。立命館の友達が法律事務所を開き、それの披露式が土曜日にあります、それに是非来いといひますし旁方行って来ます。(1932.05.02)
*内容的に安原とは関係のない手紙だが、面白いので引用しておきたい。この立命館の友達というのは田中伊三次で、弁護士を経て京都選出の衆議院議員になった人物。法務大臣、さらにはロッキード疑獄では国会に設けられた調査委員会の委員長も務めた。私はこの人が選挙の候補者立会演説会で開口一番「イサジでございます」と言うのを聞き、ああ、この人は当選確実なんだと思ったことを覚えている。事務所開きのお祝いにわざわざ京都まで駆けつけるほど中也はこの法律の専門家で後に政治家になる人物と親しかったのか。また、東京内を移動する交通費さえ不自由する中也にそんなお金があったのか最初不思議な気がしたが、『新編中原中也全集第五巻、日記・書簡、解題篇』によって疑問は解けた。その解題によると、この葉書表面には「東京駅にて」とあり、京都へ出発する直前に投函したものと思われる。高森文夫は東京大学の1年生。ちょうど新学期で、授業料をもって学校へ行ったら中也が正門の所で待ち構えていた。とっつかまって一緒に飲んだり食ったりしていたら中也が急に京都に行こうと言い出した。金を持っていたのですぐに出かけた。なるほど、そういうことであったのか。
◇この頃さる出版社から平易な画家伝の執筆依頼されて居つた私は、そのうちの一つ『ゴッホ』を幾分でも彼の生活の足しにもと思い、出版社には内証で詩人に代筆をさせたのである。当時の事情は詩人の名を以て売り込むことは極めて困難であつた。・・・この年の五月の初め頃より彼は・・・詩集の編纂に着手した。これが今日詩集『山羊の歌』となつて遺るものである。・・・初めは彼も適当な出版社の手によつてそれが刊行せられることを希つたのであるが、何分当時の彼の真価を認める者はほんの二三の特殊な人々に過ぎず、商品価値の上からは零に近く、従つて誰も危ぶんで手を出さず、その上相手の命の最後の宿命的な拠り所にまで仮借なく打ち込まれる彼の痛烈な毒舌の故に或時は憎悪を捲き起し、或時は単に敬遠され、遂にこの話は実現不可能であつた。 ―今日彼の名を単に嫌悪を以てしか、或は過去の怨霊としてしか思い出さない人すらあるのだ― そこで彼は自家出版によることにした。限定二百部刷とし、会費四円を以て友人知己に予約を求めた。彼の手帳の人名簿が総動員され、案内状が発送された。彼の手帳には彼の一面識のある凡ゆる人々の住所と電話番号が五十音順によつて克明に登録せられ、誰か相手が欲しい時とか、嚢中に一銭の貯えもない時とか、その他何時如何なる時に於ても立ち所に使用に供せられるのである。これは彼の有名なものの一つである。予約会費の方はなかなか捗々しく進行しなかつた。
◇この秋〔1932年〕、詩集の予約成績は依然思わしくない乍らも、原稿は一先ず印刷屋に渡すことにした。差し当つての費用は彼が郷里から調達してきた。
◇やがて本文の印刷だけはどうやらかなり満足に出来上つたのであるが、それ以上の金が最早や如何としても工面出来ず、切り離しのまゝ私の家に引き取つて保管することにした。・・・遂にこの本文の印刷はその紙型とともに全二年間私の家の納戸に埃を浴びることになつてしまつた。
◇一方詩人の魂には漸く困乱の徴が見え始めた。この時まで辛くも保たれた魂の平衡運動は遂にこの疲労した肉体のよく支え得るところでなく、夢と現実と、具体と概念とは魂の中にその平衡を失つて混乱に陥り、夢は現実に、具体は概念によつて絶えず脅迫せられた。人はこの頃の状態を神経衰弱と呼ぶかもしれない。然しながら私は詩人のこの時代の消息について今は単に詩人の魂の動乱時代と呼ぶに止めたいと思う。
◇此の時友人は殆ど去つていた。従つて詩人の魂のこの最大の惑乱の時期について今日それを知る人は殆どないであろう。詩人高森とその弟、下宿の主婦と私、僅かにこの様な極めて少数のものが身を以つてこれを知る丈けである。
◇夜ともなればまた彼は街の灯を求め友を求め、雑踏の巷に足を踏み入れた。・・・私は彼と衝突の恐れあるすべての友人達との接触を極力回避しようとするのであるが、それも結局は徒労である。足はいつしか戦場に踏み込んでいた。・・・最後にはいつも乱酔と乱闘に終わる日々が続くのである。
◆昨夜は失礼しました。其の後、自分は途中から後が 悪いと思ひました。といひますわけは、僕には時々自分が一人でゐて感じたり考へたりする時のやうに、そのまゝを表でも喋舌ってしまひたい、謂ばカーニバル的気持が起ります。その気持を格別悪いとも思ひませんが、その気持の他人に於ける影響を気にしだすや、しつっこくなりますので、そこからが悪いと思ひました。・・・一人でカーニバルをやってた男(1933.01.29)
◇夜前私達は例によつて彼の想念に基き街を行動した結果、銀座方面に於て遂に敵軍に遭遇し、そこに激烈なる市街戦を演じたのである。
*敵軍との激烈なる市街戦てどんなのだったか是非知りたいものだが無理。
◇詩人の動乱はこの年〔1932年〕の九月の末頃に始まり、年の暮とともに一度その極限に達し、やがて年改まり春の訪れとともに魂は再び徐々に平静に帰すかに見えた。
◇私はこの頃〔1933年5月〕・・・一月ほどの間彼の動静に接する機会がなかつたのであるが、この間に彼は急激な変化を示して私を驚かせた。彼は様々な文学界の人々に自ら進んで交つた。一度離反したかつての友人達とも次々に旧交を温めて行つた。又彼は自分よりも遥かに年代の若い文学青年達の中に混つて物識りの伯父さんの様に温しくつつましく、その上なかなか甲斐々々しく共同生活をするのである。
*この頃中也は坂口安吾を中心とする同人誌「紀元」の同人となり、安原も加わった。中也は「今度の号は僕が編輯しますから、何卒何なりと書いて下さい」などと安原に書き送っているが(1933.08.18)、『新編中原中也全集第五巻、日記・書簡、解題篇』によれば、「中原が〈紀元〉第二号(昭8.10)を一人で編集したとは考えにくい」。
*1933年12月中也は郷里で遠縁の上野孝子と結婚し、妻と共に上京する。生活も落ち着き始めたようである。安原と中也の付き合いにも変化が兆し始める。
◇この頃〔1934年2月〕の彼は・・・小林秀雄とも絶えて久しい交友を復活し、同時にこの後の彼のよき理解者であり庇護者でもあつた青山二郎を得て・・・極めて社交的な且又家庭的な雰囲気の中に呼吸しつつ生活していた。彼の新宿花園町のアパートには小林秀雄青山二郎も住んでいた。其処には様々な人々が出入していた。酒宴は相変らず毎晩続けられていた。しかし私はこれらの仲間からは意識して次第に遠のいていつた。私達は前程頻繁には会わなくなつた。
*詩集『山羊の歌』が2年間の紆余曲折を経た末、ようやく1934年12月に出版された。
◇二百部限定自費出版、うち百五十部市販、五十部を予約及び各方面への寄贈本とした。頒価参円五十銭。装幀は高村光太郎氏・・・この詩集が出版されて僅か一週間程してのこと、或日私は神田の古本屋の店先で『山羊の歌』を見出したのである。それは詩人自らによつて文壇・詩壇の知名士に寄贈されたもののうちの貴重なる一冊であつた。それには詩人の達筆で墨黒々と『室生犀星様 中原中也』と記されてあるのだ。私は其時言い様なき怒りが全身を賭け廻るのを暫し如何とも出来なかつた。
*この古本屋で寄贈本発見の件はよほど腹に据えかねたものらしく、安原は他の箇所でもこのことに触れている。詩集出版にこぎつけるまでの苦労を共にした安原の激怒は分からないでもないが、見当はずれの感がないでもない。確か宇野千代だったかが、贈られてくる本なんてどんどんストーブに放り込んで暖を取るんだなどと書いていたことがある。文壇知名士の寄贈本に対する態度なんてそんなものかもしれない。
◇昭和三年秋以来六年半に渡る詩人と私との交友にも今漸く転機が訪れた。詩人は家庭生活に入り、一児をもうけ、その交友の範囲も次第に拡がり、詩名も漸く一部の人々の間に認められるところとなつた。この間私は私なりに唯一筋の心情を以て詩人の身辺に寄り添い、それは謂わば極めて個人的な雰囲気の中での持続であつたのだが、この様な私の心情も私のささやかな努力も今はその必要を失つた。心届かず、無能で失敗ばかりであつた私の介抱も最早無用となりそれは寧ろ詩人にとつて大きな負い目とすらもなりつつあることを私は感じ出していた。私もまた漸く疲労と困憊の極にあり、時偶友人の関係する劇団などの仕事に引張り出される他は一人場末のおでん屋などで酒に親しんで暮す日が多く続いた。・・・私は彼の周囲から身を引きつつあつた。・・・私は華やかでもない私の青春の激情と一と度訣別し更めて当てのない旅路に向つて一人ひそかに逍遥い出すのであつた。私はこうして次第に独りの生活に沈み込んだ。嘗つて燃えたささやかな希望も捨て、私はこの時より謂わば一人の世捨人となつた。
*上に引用した安原の追想は感傷的に過ぎる文章ではあるが、心情はそれなりに分かる。安原は中也のではなく、彼自身の苦しみと向かい合わなくてはならなくなり、今や孤独である。かつては詩も書く文学青年であった彼は青春の激情と決別し、ささやかな希望も捨てて生きる道を模索しているのである。「世捨人」は大げさだけれど。「心届かず、無能で失敗ばかりであつた私の介抱」などにはこの人の謙虚な人柄が出ているように思える。不必要に卑下しているわけではあるまい。こうした時期を経て安原は大学卒業4年後の1936年4月にようやく横浜の女学校に職を得る。そして、この頃に彼は中也から長い手紙を受け取る。そこにはかつての手紙(1931.06.14)で少し触れられていた「君はあんまり無言すぎます。それでは誰もどうにもなりません」という批判がもっと詳しく展開される。
◆安さんがひどく沈黙家であるわけは、自分の判断を決して話すまいとする、非常に遠慮深い気持から来るのだと思ひます。そこでその事が相手にとってはどういふことになるのか・・・相手としては、可なり気味の悪い感じが・・・最初はするのです 何を考えられてゐるのか分らないので。で結局カンに頼ってあと話しつゞければつゞけるといふことになりますが、カンという奴は瞬間的な役には立ちますが、長いことには間にあひません・・・随分見当を違へて話すことも出て来ます・・・話す方は余計な気を使って、使っただけ話は一層不慥かとなったりする・・・相手が意見をドンドン吐いて呉れないといふことは・・・不親切・・・表情をたよりにするとしても、表情といふものは・・・賛不賛を示すものにすぎない・・・不賛のうちの種々性は表示しかねるもの・・・多少とも独善的でない沈黙家といふものは僕には考へられません・・・沈黙家があたゝかい気質を持ってゐる場合にも猶、一種の冷たさを感じさせる・・・あたたかい気質であればあるだけ、その一種の冷たさを感ずる相手を、沈黙家の方では意想外に感ずることになるだけ相手は一層辛くなる・・・沈黙家が如何に相手に添ってゐるやうでも、事実は平行してゐるだけ・・・一口に云へば、「もっと苦情を云って欲しい 察しだけで話が始まるとは思へない」といふやうなことなのです。(1935.04.29)
◇初めて見る私への笞。同時にこれは又、これまで六年余の間変ることなく持続され来つた私達の在り方に対する痛烈な批判でもあつた。私は詩人の笞を甘受し、己れの罪深さに茫然とした。私は崩れゆくものを凝視し、祈るような気持でこの手紙を読んだ。
*「笞」「己の罪深さ」「崩れゆくもの」「祈るような気持」といった表現に安原の受けた打撃の大きさがうかがわれる。中也の言っていることはもっともなのではある。確かに、話し相手が沈黙して何を考えているのか分からない、カンと表情に頼らざるを得ない(日本人の得意な腹芸!)という状況は意思疎通を妨げるものであって、人間関係を築くうえでプラスではないであろう。しかし、それは一般的な人間関係について言えることであって、中也と安原のような普通でない関係には当てはまらないのではないか。むしろ、安原の「自分の判断を決して話すまいとする、非常に遠慮深い気持」に中也は依存していたのではないか。安原が「もっと苦情を云っ」たら衝突し決裂するしかなかったのではないか。今さら何を言うか。中也は安原に言うべきでないことを言ってしまったのである。後日(6月5日)の手紙で「先の手紙の気持が全然変ったのではありませんが、尠くも甚だガタピシした手紙でありましたから、何卒あんな手紙は書かなかったこととして、忘れていたゞきませう」などと書いても手遅れである。
◇こうしてこの年も暮れ、昭和十一年四月、私は永い放浪生活とも愈々別れを告げ、横浜の方の女学校に教師として赴任した。そして私はそこで一切を忘れて子供達との多忙な生活に生命を託した。私は偶にしか詩人を訪れる機会をもたなかつた。従つてこの頃の詩人の動静について私は余り詳しくは知らない。
*1936年11月に中也の長男文也2歳で死去。
◇詩人は打ちひしがれて病床に臥しがちであつた。私は報らせにより彼の病床を訪れた。詩人の魂はともすれば錯乱に戦きがちであつた。かつての惑乱が今又再び彼を襲うのではなかろうか、私には深く危惧されるのであつた。然しこの度は詩人は強い自制に支えられて、そこに多少の錯乱はあつたにしても徐々にそれは平衡を恢復しつつあるかに見えた。私は暇を得ては、愛賞のレコードなど持つて彼を見舞つた。
*しかし神経衰弱が高じた中也は翌1937年1月9日から2月15日まで千葉の療養所(安原の言い方では「異常心理学の権威だとかいう人の経営する千葉の方の脳病院」)に入院。安原がそのことを知ったのは4月になってからで、退院した中也が入院に至る経緯や入院中の様子などを書き記した長い手紙によってである。
◇私はこの手紙を読み、全く泣いても泣き切れない気持で、しばしは為すところを知らなかつた。何という私の迂闊さ・・・詩人は囚われのうちにあつて明け暮れいかに救ひの手を待ち望んだことであろう。そして私の無情をなげいたことであろう。
*文也の死んだ次の月(1936年12月)には次男愛雅が誕生していた。中也は山口へ帰郷して生活を立てなおすことを模索する。
◆大岡からお聞及びのことと思ひますが、十月の末頃田舎に引上げます。・・・まあどんなことになりますやら、自分でも分かりません。・・・小説も批評も、もう読みたくはありません。読むとすればやっぱり詩です。結局詩だけはいやでも読むやうなことになりませう。県庁の衛生課にでも這入れば、出張が多いし、呑気だし、いいと考へたりもしますが、もう十年前ですと、学歴なんかどうでも這入れたのですが、今はどうかと思ひます。うまい酒と、呑気な旅行と、僕の理想の全てです。(1937.09.02)
*中也ここに至ってようやく平凡な人生を夢想することになったのか。でも、遅きに失した。
◇十月四日土曜日。詩人は横浜の私の家を訪ねた。出した酒も手をつけようとせず、帰郷の決意を語つたりした。しきりに頭痛を訴え、視力の困難を述べ・・・往来の歩行も不確かであるとのことだつた。・・・私は・・・バスの乗場まで彼を送つて行つた。詩人はバスの窓から振り返り振り返り、やがて鎌倉の方に去つて行つた。私は今も窓ガラスの向うに浮いた詩人の白い顔を思い出すのである。これが私の健康な詩人を見た最後であつた。
*安原を横浜に尋ねた翌日10月5日に中也は生涯で最後の手紙を安原宛に書き、翌6日に入院。この手紙は中也の死後、遺品の中から見い出され、母親によって安原に送付された。
*1937年10月22日中原中也、急性脳膜炎で永眠。30歳。
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 「中原中也記念館館報21号」(2016年)に安原の長男喜秀さんのインタビューが掲載されている。喜秀さんによると、喜弘は「まれにみるやさしさを持った人」で「自分が何をしたとかほとんど語らない人」であったという。「職場でも、部下に仕事を頼めなくて全部自分で抱えて遅くまでやって、自分で苦しい思いをしてしまう」「まず自分を脇において、人を思う、気遣うっていうか」「中也みたいな青春の20代の、ある種の狂気を持った詩人がのたうちまわっているのを見て、放っておけない。放っておけなくなっちゃって、その深みにはまっちゃった」。
 善意と帰依の人である安原喜弘と奇矯なる天才詩人中原中也の出会いは奇跡的なものと言っても言い過ぎではないと私なんかは思う。まれにみるやさしさをもった人が、ある種の狂気を持った詩人がのたうちまわるのを放っておけなくなったというのはその通りであろう。でも、そのような説明だけでは説明がつかない何かが二人の友情にはあったのではないか。敢えて言うならば親和力。化学反応を起こした。安原がいなかったら中也も存在しなかった。
 安原喜弘は1992年11月84歳で永眠。「ウィキペディア」によれば、晩年は日本育英会奨学部長を務めたらしい。どこまでも人を助ける人であったのだ。さしづめ中也は安原の担当した奨学生第1号。とてつもなく世話のかかる異次元の奨学生であったけれど。