若きウェルテルは何を悩んだのか?

 一番有名なドイツの文学者といえばゲーテだろうし、そのゲーテの一番有名な作品といえば『若きウェルテルの悩み』か『ファウスト』のどっちかだろう。でもこれらを読んだことのある日本人はどのくらいいるのだろうか。正宗白鳥が次のように書いたのは1904年のこと。「ゲーテの作中で日本の文学者や学生間に最も其名を知られてゐる者は、ヴエルテルとフアウストとであらう。フアウストは彼が畢竟の大作だといふ西洋人の評判により、一も二もなく珍重せられ、ヴエルテルは青年時代の煩悶失恋の苦痛を写したとかいふので一部の読書家の虎の巻となつたのである。しかし此等の書は原書にても英訳にても、世間で喋々される程読まれているのではなく、殊にフアウストは極めて難解ゆゑ、一通り素読をした者も甚少なく、ヴエルテルを抱いて泣いたという、青白い顔の青年も、多くは日本文の筋書を読んだ位であらう」。当時の読書事情は私には知る由もないが、現在はどうか。ゲーテって読まれているのだろうか。読まれていなさそうな気がする。『ウェルテル』を抱いて泣く青白い顔の青年は論外としても、実際に読む人が明治時代より増えているとは考えにくい。多くの人にとって、せいぜい、許婚のいる女性に恋した多感な青年が苦悩の末にピストル自殺する話であるとは知っているくらいが関の山か。『ウェルテル』の日本語訳が20種類以上もあると聞くと驚かされる。
 白鳥はさらにこうも書いている。「ヴエルテルは一青年が友人の女房に惚れて、どうかして思ひを遂げたいと思つたが、意気地がなくて決行し得ず、さらばとて男らしく思切られもせず、浮世はいやだいやだで、遂にピストルで自殺したといふ話。まるで新聞の三面種である。叙述は稍々巧であつて、俸給が少くてよければ、ゲーテという男を新聞記者に聘して艶種を書かせたり、花柳だよりの主任にしたいやうな気がするが、彼れを日本の大小説家紅葉や一葉に比べて、文章が上手だとも着想が巧みだとは信ぜられない。独逸人はヴエルテル等を以て紅葉一葉などの失恋小説よりも面白いといふかも知れぬが、吾人日本人は又金色夜叉や、心の闇や、たけくらべの方が幾十倍もゲーテの作よりも身に染みて感ぜられるのである」。
 私もゲーテを崇め奉るつもりはまったくない。若い頃にも中年の頃にも『ウェルテル』を読んだが、なるほど身に染みて感じることはなかった。ナポレオンが7回も読んで、エジプト遠征にも持って行ったとか、ウェルテルを真似て自殺する青年がたくさん出たとかというエピソードが遠く感じられた。今、老人になって読んでみても同じで、主人公に深く共鳴するということはない。それでも白鳥には(悪乗りは問わないことにしても)賛成しかねる。彼はほんとうにちゃんと読んだのだろうか。「浮世はいやだいやだ」はまあそのとおりかもしれないが、「友人の女房に惚れて、どうかして思いを遂げたいと思つた」というのは誤読だろう。まちがった刀でバッサリやってしまっている。
 主人公の名前はドイツ語でWerther。ウェルテルという日本語表記が定着しているが、これは原音からかけ離れること著しい。他にはヴェルテル、ヴェルター、ヴェールターなどといった表記を見かける。ドゥーデン発音辞典にはve:@t@とのっている。といっても@なんていう表音記号はなく、私が今ここでやむをえず使っているだけで、ほんとうはaを180度回転させた(私のパソコンでは打てない)記号が載っている。で、この記号は弱いあいまいな「ア」音であるので、ヴェーァタが一番ドイツ語原音に近い発音表記になると思われる。しかしヴェーァタなどといっても誰のことやらイメージも湧いてこないし、結局はウェルテルでとおすのが一番妥当ということになってしまうのである。私も主人公をウェルテルと呼ぶことにする。(なお以下の作品からの引用は手塚富雄訳によるが、論旨をはっきりさせるために一部変更を加えた)。
 『若きウェルテルの悩み』は形式的には2部構成の書簡体小説である。第1部は1771年5月4日付の手紙で始まり、9月10日付の手紙で終わる。第2部は10月20日付の手紙で始まり、翌1772年12月、ウェルテルの自殺で終わる。手紙の大半は友人ウィルヘルム宛で、時々ロッテ宛のもの、誰宛か定かでないもの、手紙というより日記の一節と理解したほうがよさそうなものが混じる。第2部の後半でウェルテルの煩悶が高まり、死への思いが不可避となってくると、ウェルテルの手紙だけで話を進めながら決着をつけるのがむつかしくなって、編者の語りが中心となる。それまでの一人称の語りが三人称へと移行する。それでも全体としては一人称で語られる手紙が中心であることに変わりはない。そして、手紙で吐露されるのは書き手ウェルテルの心の内である。外面的な出来事が報告される場合でも結局は彼の心が問題なのである。
 小説の始まりは5月。ハイネの詩にシューマンが作曲した『詩人の恋』には「いとも美しき5月、すべてのつぼみが芽吹くとき、私の胸に恋が萌え出た」とあるが、5月はドイツが一番生命溢れる季節。ウェルテルも一時的に滞在している土地で自然を満喫している。彼がなぜ母親や友人ウィルヘルムのいる町を離れた、あるいは逃れてきたのかははっきりとは示されないが、彼に思いを寄せたレオノーレという女性を傷つけた自責の念(ひょっとして彼女は自殺したのかもしれない!)から逃れるため、遺産相続のことで叔母と交渉するようにと母親から託された用事を果たすため、最低限この2つが理由らしいと察せられる。ともあれ、自分は元気になったと彼は書いている。「ここに来てぼくは非常に元気だ。この天国のような土地にいて、孤独でいられるということは、ぼくのこころに貴重なバルザム(鎮痛剤)のはたらきをしてくれる。それにこの青春の季節は、ともすればおびえがちなぼくのこころを惜しみなくあたためてくれるのだ。木という木、生垣という生垣が花束なのだ。いっそのことこがねむしになって、かぐわしい香りの海のなかを泳ぎまわり、食物のすべてをそこに見つけだす身になれたらと思う」。「谷はぼくをつつんで、かすみに煙っている。空高い太陽の光線はぼくの森の深い闇の表面にたゆたって、なかの聖殿には、ほんの幾すじかの光りが忍び入ってくるだけだ。そういうとき、ぼくは音をたてて流れる谷川のほとりの深い草のなかに身をよこたえ、大地に近近と顔をよせて、数限りないさまざまの草に目をとめる。そして茎と茎の間に行われる小さな生きものの世界のうごめき、這っている子虫や羽虫などの究めつくせぬ無数の姿を、胸に抱きとるように感ずるのだ。そしてさらにぼくは感ずる、われわれを自分の姿にかたどって創造された全能者の存在を。・・・ぼくの眼はわれ知らず濡れてきて、ぼくをめぐる世界と空はすっかりぼくの魂のなかに、まるで恋人のおもかげのようにやすらうのだ」。過剰なまでの自然との一体感である。ルソーの「自然に帰れ」という呼び声がこだましているようでもある。太陽、空、大地、谷、森といった大きな存在から木や生け垣や草を経て小さな虫たちに至るまでの全自然を自分の周りというよりむしろ自分の内部に感じ取り、さらにそれを超えて自然と溶け合いたいというような感覚。
 それとは逆に人間世界は必ずしも彼を幸福にしてくれない。「町そのものは愉快でない」と彼は書いている。下層階級の素朴な人たちとの気の置けない付き合いは彼を楽しませ、くつろがせはするが、それ以上ではない。根底には彼の人間観がある。人間が不自由で限定的な生を生きなければならないことに彼は我慢できない。「たいていの者は、大部分の時間を生きるために使ってしまう。そして、わずかに残った自由な時間があると、かえって落ちつかず、あらゆる手段をつくして、それを振り捨てようとするのだ。ああ、これが人間のさだめなのか!」「人間の一生は夢にすぎないとは、すでに多くの人のこころにうかんだことだが、この思いはぼくにもいつもつきまとっている。人間の活動や研究もどうにもならない限界のなかに閉じこめられている。そのことを見つめたり、または、すべての活動の目ざすこともつまりは種々の欲望を満足させることで、この欲望というのも、その目的はぼくたちのあわれな命を引きのばそうということのほかにはないのだということ、そしてまた、探求がある点まで達すると満足するのは、われわれがわれわれを閉じこめている牢獄の壁に、はでな見込みや明るい眺めを描いて喜んでいるような態のいい諦めにすぎないということを考えたりすると、ウィルヘルムよ、ぼくはもう言う言葉がなくなるのだ」。このように嘆くウェルテルもしかし、牢獄に閉じ込められて夢にすぎない一生を送るあわれな人間のひとりなのである。どうすればいいのか。
 ウェルテルはまた激しく揺れ動く心の持ち主でもある。「このぼくの心ほど、はげしく変わりやすいものがあるだろうか。・・・ぼくが悲しみの気持ちからとめどもない心のたかぶりへ、甘い憂うつから破壊的な情熱へと移っていくのに立ち会って、きみが迷惑したのは一度や二度ではないのだから。まったく、ぼくは、ぼくの心を子供のように扱っている。どんなわがままも許しているのだ」。ウェルテルのような友人を持つのは大変そうである。ウェルテルが破壊的な情熱に身をまかせたとき、ウィルヘルムはどのようにしてなだめたのだろうか。(私は中原中也に対する安原喜弘の友情を思い出す。本ブログ2022.02.28付)
 ウェルテルはまた、規則の本質が人間を縛って自由を奪うことにあると見ており、規則に対しても反感を持っている。規則は偉大な芸術を生みださない。それはウェルテルにとっては、偉大な生を生み出さない、人間を偉大にしないと同義である。「自然だけが無限に豊かで、自然だけが偉大な芸術家をつくるのだ。規則の長所は、大いにあげられようが、それは市民社会をほめていう言葉とだいたい同じことだ。規則通りに芸術の仕事をする人間は、けっして悪趣味なものや俗悪なものはつくらないだろう、それは、自分を世間のきまりや礼儀の鋳型にはめた人が、けっして近所の鼻つまみになったり、ひどい悪党になったりしないのと同じことだ。ところが一方、すべての規則はなんといっても自然の真の感情、真の表現をこわしてしまうのだ」。人間社会のきまりや習慣に従って当たり障りのない人生を送ることは、規則どおりに作った芸術品が自然の真の表現でないのと同じで、真の生ではないとウェルテルは言っているのである。でも、私達凡人は人生を芸術と等置しようとは考えない。ウェルテルはどうするのか。
 規則がいかに自然と真の人間性に反するかを説明するために彼はたとえ話として恋愛を持ち出す。「青年がひとりの少女に夢中になっていて、来る日も来る日も彼女のところに入りびたりで、自分の精力と財産を傾けて、その少女にいっさいをささげていることを、ひっきりなしに示そうとする。そこへ一人の俗物、なにか公職についているような男がやってきて、青年にむかって、こう言ったとする。〈お若いかた! 恋をするのは人間的なことです、ただ、あなたは人間的に恋をしなければいけません! あなたの時間をおわけなさい、一部を仕事にあて、休養の時間を恋人にささげなさい。あなたの財産をよく計算なさること。必要経費をさしひいて、残った分で恋人に贈りものをすることを、わたしはとやかくは言いません。ただあまりたびたびではいけない。恋人の誕生日とか、命名日くらいになさるのがよろしい〉などと。その忠告に従えば、有用な青年ができあがるだろう。ぼくだって、どこの君主にでも、彼を役所に採用するよう推薦する。だが恋人としての彼はそれでおしまいだ。そして彼が芸術家なら、彼の芸術はそれでおしまいだ」。恋人のところに入りびたりでいっさいをささげる青年というのはまるでロッテに対するウェルテルの恋を予告しているかのようである。ウェルテルにとって恋とは全身全霊をささげるべきもので、仕事や実生活から必要分を差し引いた残りの時間や財産を充てるような計算によるものではないのである。そのような計算の得意な人間は有能な官吏にはなれても恋人にはなれない。芸術家にもなれない。ほんとうは、人間にもなれないとウェルテルは言いたいのかもしれない。
 上に引用した箇所はすべて小説の最初、日付では5月の手紙からの抜粋である。人間は規則に縛られた不自由な存在で、人生は牢獄のようなものというウェルテルの世界観が、このように小説の冒頭においてはっきりと示される。孤独と自然を愛し、自分の心に忠実であろうとする彼の性格もやはり冒頭で明確にされる。そして、規則や知識に拘束されない自由な心こそ人間を人間たらしめているものであるという彼の思いは小説が進展した段階においても繰り返される。例えばウェルテルが知り合いの公爵について次のように不満をもらす箇所。「公爵は、ぼくの知性や才能をぼくの心より高く評価している。この心こそぼくの唯一の誇りなのに。これだけがすべてのもの、すべての力、すべての喜び、すべての不幸の泉なのに。ああ、ぼくのもっている知識は、だれだってもつことができる。――ぼくの心、それはぼくだけのもちものだ」。自分の心に無限の自由を与えようとする心の持ち主が、理性や知性や知識や規則に従うことなしには生きられない人間社会に居所を見つけられず破滅へと突進する物語、それが『若きウェルテルの悩み』である。
 ロッテに初めて会う直前にウェルテルは警告を受ける。「きれいなひととお知り合いになれますよ」「ご用心あそばせ、見染めたりしないように」「その方はもうお約束ができているのです」。にもかかわらず彼は一目ぼれするのである。この日の舞踏会でロッテとワルツを踊った後「ぼくは誓いをたてたのだ。ぼくが愛し、求めている少女には、けっしてぼく以外の者とワルツは踊らせないと、たとえそのためにぼくが滅びようと」。「彼女は一つのメロディーをもっていて、それをピアノで、天使のような力で弾く、素朴に、心をこめて。それはロッテの愛する曲だ。彼女がその最初の音をひびかせるだけで、ぼくはあらゆる苦悩、惑乱、懊悩からときはなされる」。このようにダンスや音楽に託して表現されるウェルテルの情熱はとどまるところを知らない。ロッテの許婚アルベルトが旅から戻ってきても状況は変らない。むしろ悪くなったというべきかもしれない。理性と社会的常識が、今となっては身を引くか、少なくとも控え目にすることを求めるのに対して、規則にとらわれない、そして自分の心にしか従おうとしないウェルテルは足しげくロッテを訪れる。彼としては情熱の命じるがままに行動するしかないのである。たとえ滅びようと。
 そして、「祈りといえば、彼女に向ける祈りしか知らない」「空想に浮かんでくるのは、彼女の姿だけ」「周囲の世界のいっさいを、ぼくはただ彼女に結びつけて見るだけ」といった「狂おしい、果てしのない情熱」が彼の生命力を消耗させる。かつては大きな喜びの源であった自然さえもが呪わしいものとなる。「自然のあらゆるもののなかにひそんでいる蚕食する力、これが僕の心の土台を掘りくずすのだ。自然からつくられたいっさいのものは、自分の隣人を破壊し、自分自身を破壊せずにはいない。ぼくは、不安のあまりくらくらとする」。「みじめだ、ウィルヘルム! 僕の活動力は調子が狂って落ちつかぬ怠惰に変わってしまった。じっとしていることはできない。そのくせ、なに一つしあげることができないのだ。ぼくには、もうものを考える力も、自然を味わう感情もない。そして書物は胸をむかつかせる。自分自身を失うことは、いっさいを失うことだ」。このような症状を精神病理学がどのように呼ぶのか知らないが、やはりこれは病的症状、控え目に言って病気への入り口ではあるだろう。
 だからウェルテルが友人たちの忠告を入れて公使館に職を得、公使につき従ってよその土地へと立ち去ったことは賢明な処し方であったと、一応は言うべきであろう。とはいえ、役所仕事への嫌悪感を繰返し表明してきた彼が官吏としてつつがなく勤めを続けるだろうと信じることは不可能である。事実、杓子定規の形式主義者で俗物の公使と折り合いを付けられない彼は半年で辞職する。気に入らない上司の下では働きたくないなどと言い出したら切りがないではないか、我慢が大事だ、などと説得してもウェルテルは聞く耳をもたないだろう。それにもうひとつ、彼に辞職の気持ちを固めさせた出来事があった。赴任地で知り合った貴族C伯爵は広い見識の持ち主であり、ウェルテルを理解してくれ、この人とは気心の知れた交際をしていたのだが、ある時、食事に招かれて、それも終わった頃。夕方にはその屋敷で貴族のパーティーが開かれることになっており、市民の自分はそいう場には同席を許されていない身分であることに思い至らないウェルテルが辞去するタイミングを失していると、集まってきた貴族たちの態度が彼を避けているようでよそよそしい。やがてC伯爵がやってきて「われわれ仲間の身分上のしきたりはまことに妙なものでね。みんなはどうも、あなたがここにおられることが不満らしい。私自身は決して」と告げる。伯爵はとても気を使った言い回しを使ったのであるし、この人の思いやりは明らかだが、それでもウェルテルが、自分自身には何の価値もないくせに身分制度の上にあぐらをかいている貴族たちの鼻持ちならない高慢さに傷つけられたことに違いはなく、彼は「いやな目にあった。もうここにいるわけにはいくまい。ぼくは歯ぎしりしている! 悪魔め! この不快さは、つぐないようがない」という屈辱感をかかえ込む。なお彼は、自分が上層市民階級に属していて、その利益を享受していることも承知しており、身分制度を一概に否定しているわけではない。また、貴族をのみ弾劾するわけではなく、一つでも上の席を占めるべくきゅうきゅうとしている同僚に対しても批判的である。こうして、元々役所勤めを奴隷船の苦役に例えていたウェルテルは愚物の上司、高慢ちきな貴族に代表される俗世間に愛想をつかした形で職を投げ捨てる。
 こうなると彼が帰るところはひとつしかない。心のすべてを占めているロッテのところ。というわけで、彼は再びロッテの近くに戻る。しかし、彼が留守のあいだにロッテとアルベルトは結婚していて、今や夫婦なのである。ウェルテルの出番はないはずである。どうするつもりだ、ウェルテル?
 1774年の初版にはなかったが後の版で付け加えられたエピソードがある。ウェルテルはある農家で下男をしている若者と知り合いになる。この男の雇い主は未亡人で、彼はこの主人を慕い尊敬している。最初の結婚でひどい目にあった女主人は再婚する気持ちはないのだが、下男のほうは彼女と夫婦になることを望んでいる。彼が女主人について語る言葉の純粋さと真実とにウェルテルは感激する。「ぼくは生まれてこのかた、せつない欲情、熱い願いがこんな純粋なかたちで現われるのを、見たことがない。・・・この無邪気さと真実を思いだすと、ぼくの魂が奥底から燃えてくる。このまごころと情愛の生きた姿は、どこへ行ってもぼくを追ってくる。そしてぼく自身、その火が燃えうつったように、あえぎ、こがれている」。この男はウェルテルの精神的兄弟だと言ってよい。で、この若者はどうなるか。ウェルテルが公使館勤めを辞めて戻ってきて偶然再会した時、彼は奉公先をくびになっていた。女主人を暴力でわがものにしようとしたというのである。女主人に対する情熱が日増しにつのり、自分を見失い、飲み食いも眠ることもできなくなり、まるで悪霊にとりつかれたようになっておよんだ仕業であったという。今では別の男が下男として雇われ、この新しい下男が女主人と結婚するという噂も村人たちのあいだでささやかれている。
 そして事件が起きる。この若者が彼の後釜にすわった新しい下男を殺すのである。彼のせつない思いを我がことのように感じていたウェルテルは心を激しく揺さぶられ、ロッテの父である老法務官とアルベルトに対して殺人者を弁護するのだが、もちろんとおるわけがない。道理ある反論に言い負かされて引き下がるしかない。老法務官のダメ押し「だめだ、あの男は救われない」を受けて、その日に彼の書いた紙片が彼の絶望を物語る。「おまえは救われない。不幸な男よ! ぼくにはよくわかった、われわれは救われないことを」。「われわれは救われない」のである。あの下男が死刑になるのならウェルテルも死刑になるのか!? 「ご主人はだれのものにもなりません。だれもご主人のものにはなりません」というあの男の叫びは、ご主人をロッテに置き換えて、あと一言つけ加えれば、そのままウェルテルの叫びとなる。「ロッテはだれのものにもなりません。だれもロッテのものにはなりません。ぼく以外には」。「不幸な男を救うためにウェルテルの重ねたむなしい努力は、消えようとする灯の最後の燃えあがりであった。彼はいよいよ深く、苦悩と無為のなかへ落ちこんで行った」。
 ウェルテルの精神的兄弟はもう一人いる。11月の末、だから自らの死の1カ月前だが、花も咲いていない季節に川沿いの岩場で恋人のために花を探している精神を病んだ若者ハインリヒにウェルテルは出会う。息子を探しに来た老母から、ハインリヒが幸せであったと言っている時期は精神病院にいて自分のことは少しも分からなかった時であったと聞かされ、ショックを受ける。「天上の神よ! あなたはこのように人間の運命をおさだめになったのですか? 理性に達する前と、またそれを失ったあととを除いては、人間が幸福になれないように!」。ウェルテルは後にアルベルトから、この若者はかつてロッテの父親の下で書記として働いていて、ロッテに思いを寄せ、打ち明け、それで解雇されたのだと聞かされる。これを語るアルベルトの口調が平然としているとは対照的にウェルテルは「物狂わしく心をうごかされる」。「胸に育てていた情熱がこの男の精神を狂わせたのだ」。
 彼の精神的兄弟のひとりが精神の薄明の中へさまよいこみ、もうひとりが殺人犯となったのに対して、ウェルテルはもう一つの残された道を歩むことになる。「この世を去ろうという決心は・・・ウェルテルの胸のうちにいよいよ強くなっていった。ロッテのところにもどって来てから、これはいつも彼の最後の期待であり、希望であった」。なるほど、彼がロッテのところに戻ってきたのは生きるためではなく死ぬためであったのだと私たちは納得する。
 人間は規則に縛られた不自由な存在で、人生は牢獄のようなものと考え、自分の心に無限の自由を与えることで人間存在の限界を突破したいと願うウェルテルは、ロッテへの愛のなかに自由な心を発動させる契機を見出した。彼にとってロッテを愛しているという状態から離れることは自分の世界観を否定することにほかならない。敗北である。絶対にできない。では彼女を自分のものにすることができたらそれが勝利で、彼はそれを目指しているのだろうか。どうも違う。その点に関してロッテが彼に次のように言うのは正鵠を得ていると私には思える。「どうしてわたしを、ウェルテル、よりによってわたしを? わたしはひとのものですのに、どうしてそれを。わたし、こんな気がします、そうではないかしら。わたしをご自分のものになさることができない、できないというそのことが、あなたの心をそんなに引きつけているのではないでしょうか」。これは、他人の持っているおもちゃを欲しがる子供の心理を言ったものと解しては間違いだろう。文字通り、自分のものにできないからこそ彼はロッテをどこまでも愛そうとするのである。少しでもロッテが自分のものになる可能性があったならば彼はここまで情熱に身を焦がすこともなかったであろう。彼に必要なのはロッテその人ではなく、ロッテを愛しているという状態なのである。ロッテが彼のものになってしまってはウェルテルはウェルテルでなくなってしまう。
 ロッテの夫アルベルトは妻に対するおもいやりを十分に持っているが、仕事で家を留守にすることも多く、四六時中ロッテのそばにいて彼女のことを考えているわけではない。自分に与えられた時間と心のすべてをロッテに捧げるのではなく、まず職務をこなすことにそれらを使い、余った分をロッテに振り分けることをわきまえている。有能な役人であり、かつ思いやりのある夫なのである。しかし、ウェルテルがそのように理性的に生活を律する人間を恋人にも芸術家にもなれない人間だとして断罪していることはすでに見たとおりである。アルベルト相手に自殺の是非をめぐって議論をしたときにも彼は言う。「思いつめた人間をよく見るがいい。さまざまな印象が彼にはたらきかけ、観念は固定し、ついには激情が昂進し、彼の平静な思考能力をいっさいうばい、こうして彼は破滅するのだ。冷静な理性的人間が、この不幸な人間の状態を高みから見おろし、こうしろ、ああしろと言ったところで、どうにもならないのだ」。理性の人アルベルトのロッテに対する愛と、思いつめた人間であるウェルテルのロッテに対する愛は共通点のない、まったく異質のものである。そして、ロッテが必要としているのはアルベルトの愛である。幼い8人の弟妹を母親となって世話をする彼女は生活の人であって、激情に身を任せて破滅する人間ではない。たとえクロップシュトックの詩やオシアンを通じてウェルテルと心を通わすことができたとしてもである。彼女はエマ・ボヴァリーやアンナ・カレーニナではないのである。彼女の母は臨終の床でロッテをアルベルトに託したが、その委託は神の祝福以上に神聖な祝福となって二人を結びつけている。
 この世で絶対に手に入らないものを手に入れたいと願い続ける限り、それを手に入れる手段はひとつしかない。あの世で手に入れるしかないのである。この世で手に入らなかったロッテをウェルテルはあの世で得ようとし、死へとおもむく。「ぼくは先に行きます。ぼくの父、あなたの父のもとに行きます。そして訴えるつもりです。すると父たちは、あなたが来るまでぼくを慰めるでしょう。あなたが来たら、ぼくは跳びあがって、あなたを迎え、あなたをとらえ、無限の父のみそなわす前で、永遠の抱擁をつづけてあなたといっしょにいることでしょう。・・・ぼくたちは滅びることはありません! ぼくたちは再会します」。
 『若きウェルテルの悩み』を恋愛小説ないし失恋小説として読むのは間違いではない。しかし恋愛小説として片づけるのは間違いである。ロッテへの愛をつらぬくことのなかにウェルテルが真の自己を実現する道を求めているのだという点を見逃してはならない。すでに書いたことを繰返すが、この小説は、自分の心に無限の自由を与えようとする心の持ち主が、理性や知性や知識や規則に従うことなしには生きられない人間社会に居所を見つけられず破滅へと突進する物語である。
 ゲーテは晩年、エッカーマンが「およそどういう時代にも、多くの言うにいわれぬ苦悩や隠れた不満や生の倦怠があります。またひとりひとりの人間には、社会との摩擦や自分の素質と社会制度との葛藤がいろいろとあります。ですから、『ウェルテル』は、たとえ今日初めて世に出たとしても、一時期を劃すものになることでしょう」と言ったのに同意して次のように述べている。「個人は誰でも生まれながらの自由な心を持って、古くさい世界の窮屈な形式に順応することを学ばなければならないのだ。幸福が妨げられ、活動がはばまれ、願望が満たされないのは、ある特定の時代の欠陥ではなく、すべての個々の人間の不幸なのだよ。誰でも生涯に一度は『ウェルテル』がまるで自分ひとりのために書かれたように思われる時期を持てないとしたらみじめなことだろう」(エッカーマンゲーテとの対話』、山下肇訳)。しかし、今、日本の若者が『ウェルテル』を読んだとして、はたして自分のために書かれたように思うだろうか。思わないと私は思う。下手したら「なによ、このストーカー男、キモい」と一蹴されかねないのではないか。いつの時代にも人間はいろいろな不幸を抱えている。この点はエッカーマンゲーテの言うとおりである。言うにいわれぬ苦悩、隠れた不満、生の倦怠、社会との摩擦と衝突、実現できない活動、満たされない願望などに現代人も苦しめられている。しかし、だからといって現代人はウェルテルのような悩み方はしないのではないか。自分の心に絶対的な自由を与えることによって現実世界の桎梏に抵抗するというような形而上学的と呼んでいいかもしれない考え方、あるいは絶対自我の確立といった抽象的な思想は現代人のよくするところでなくなっているのではないか。我々が今日、不幸と向き合う仕方は具体的、実際的、個別的になってきているのではないか。ウェルテルの悲痛な叫びが私たちの胸に届きにくい状況のなかに私たちがいると私には思えてならない。そのことは別に不幸なことではないのだが。