ボートレースで死者が出たが

 昨年の12月19日、ボートレース1年の締めくくりであり最大の大会である「ボートレースグランプリ」の優勝戦では1号艇峰竜太が転覆し妨害失格、後続3艇もそのあおりを受けて転覆失格、走り終えたのは2艇のみというとんでもないレースになってしまった。年明けの1月2日にはその峰がまたもや転覆した。ボートレース界の頂点に立つこの選手の立て続けの転覆にはまさかの感をぬぐい得ない。グランプリ優勝戦での転覆は、外からまくりに来たボートに対してとっさに反応して内側ぎりぎりを回るべくハンドルを切ったのがわずかに切り過ぎてターンマークのブイに引っかかってしまったという、峰ならではの反応の鋭さが招いた事故と言えないこともないが、1月2日の転覆は、リプレイビデオで確認してみると、そんなぎりぎりの状況ではなく、凡ミスと言うべきか。グランプリの失敗が尾を引いて何か調子がくるっているのか。この人がまさかそんなことはないと思うが。それから、峰選手と関係はないが、12日の多摩川で死亡事故が起こってしまった。18日にボートレース徳山のナイター中継を見ていたら4艇が転覆ないし落水で失格するレースがあったし、14日にも丸亀で3艇転覆の事故があった。このところ多数艇の転覆事故が続いているという印象。ボートレースに転覆事故はつきものだが、重大事故だけはあってほしくないものである。12日の事故について「BOAT RACE オフィシャルウェブサイト」には次のように掲載されている。
「令和4年1月12日(水)ボートレース多摩川の第6レースに6号艇として出走した登録4026号小林晋選手(B1級 東京都出身 44歳)は、2周バックストレッチ航走中、他艇と接触し転覆、その後、後続艇と接触しました。直ちに救急車で多摩総合医療センターに搬送され、集中治療室で治療を行いましたが、本日15時52分に死亡が確認されました。なお、死因は現在調査中です。レース中における選手の死亡事故は、令和2年2月9日ボートレース尼崎で事故に遭った登録第3529号松本勝也選手(兵庫)以来、開催当初から32件目となります。謹んでお悔やみ申し上げますとともに、心からご冥福をお祈りいたします。」

 ボートレースが発足したのが1952年。以後70年の間に32件という数値と現在のボートレーサー約1600人という数値とから計算すると、1年で死亡する確率は3500分の1。日本の交通事故死者は最多であった1970年16765人から2021年の2636人にまで減少。これで計算すると現在1年で交通事故死する確率は47800分の1。これと比較するとボートレーサーのレース中死亡率は13から14倍となり、やっぱり高い。危険な職業なのだ。(それにしても1970年頃の交通事故死者の多さには驚く。普通に生活していても危険度はボートレーサーの2分の1より高かったとは)。
 危険な職業といえば競馬の騎手なんかもそうで、JRA所属の騎手で事故死した人はこれまで20人くらいはいるらしい。地方競馬を入れるともっと多くなるだろう。思い出すのは1993年に24歳で亡くなった岡潤一郎。この落馬事故はたまたま京都競馬場で目撃してよく覚えている。死に至らなくても重傷で再起不能となった人たちもいる。よく知られているのが福永洋一さん。天才騎手と呼ばれた彼も事故には勝てなかった。その息子の祐一はダービーにも2回勝ち、今やトップクラスのジョッキーだが、その彼が結婚するとき、いつ何時事故で死ぬかもしれないけれどその覚悟はあるかと相手に念を押したそうである。
 競馬にせよボートレースにせよ、あるいはその他の競輪やオートレースやカーレースにせよ問題はスピードである。競馬だったら芝2000メートルを2分くらいで走るから時速60キロ。カーブのない新潟競馬場直線1000メートルコースなら時速65キロくらいになる。ボートレースの場合、1週600メートルのコースを3周するのにかかる時間は1分50秒程度だから時速は約60キロで競馬と同じくらい。ただしコーナーを6回まわるたびに減速して一瞬はスピードゼロまで落とすから直線のトップスピードはもっと速く、80キロくらいは出ている。ファンサービスの一環として、二人用のボートの前に素人が乗って手すりにつかまり、後ろに選手が乗って操縦し、実際のコースを走ってくれるペアボートというのがあって、私も一度琵琶湖で乗せてもらったことがある。その時一番感じたのは水が固い物質であるということであった。ボートの底にガンガンとぶつかってくる。レース本番なみの速度を出しているはずはなく、せいぜい時速40から50キロくらいだろうが、それでも水が固いと感じるほどに速い。水上で時速80キロを一般人が体感する機会はまあないだろう。
 人間が自力で走れる最高速度は100メートルを10秒でも時速36キロ。ウサイン・ボルトがトップスピードに達したときは40キロを超えるだろうが、せいぜいそのていど。このあたりが人間にとってコントロールできる限界なのではないか。馬やエンジンの力を借りてそれ以上のスピードを得た場合、人間の視力や判断力、神経や筋肉の瞬発力はそれに追いつかないというのが実際なのではないか。時速60キロで走る車から放り出されて無事でいることはまずあり得ない。
 ボートレースの場合、水が固いといってもコンクリートや土とは違うから、ボートから投げ出されて水にぶつかっただけで大怪我をすることはまずない。2年前の松本選手の死因は水死と発表されたが、転覆したらレスキュー艇がすぐ駆けつける体制があるなかでたんなる水死とは考えにくい。意識を失った状態で水の中に放り出されたのではないだろうか。怖いのは他の選手のボートがぶつかることである。とくに高速で回転しているプロペラが一番危険。現在、ボートレース振興会のボートレースアンバサダー(よく分からない役職名だが)としてレース解説などでよく見かける元レーサーの植木通彦さんはデビューして3年目に大事故にあい、顔面を75針縫合した。転覆後、後続艇のプロペラにやられたのである。視神経が無事だったのが幸いし、その後復帰して、SGタイトルを何度も取り、不死鳥と呼ばれた。
 今回の事故で亡くなった小林晋さんの死亡時点での等級はB1。半年ごとの成績でランク付けされる等級(A1、A2、B1、B2)の下のほうで、SGやG1といったビッグタイトルとは無縁の選手。B2に落ちることもあったようである。B2は、デビューして1~2年の新人とか、怪我や病気や産休などの長期欠場から復帰した選手が一時留まるゾーンであり、普通にレースをこなしていてB2というのはよほど成績の芳しくない選手である。小林さんは、レーサー養成所同期に井口佳典、田村隆信、丸岡正典、湯川浩司といった錚々たるA1メンバーが揃っているなかで日の当たらない存在に甘んじざるを得なかった人なのか。それとも自分の実力のなさを恬淡として受け入れつつ20年余りをレーサーとして過ごしてきたのだろうか。
 ボートレーサーになるには福岡県柳川にある養成所で1年間訓練を受けなければならない。養成所は半年ごとに訓練生の募集を行っている。「スポーツで食っていく」「15歳未経験から目指せるプロアスリート、なんて他にあるか?」がキャッチコピー。定員50名程度に対して応募者は1000人を超える。この狭い門を突破しても1年後のレーサーデビューまでたどり着けるのは30人を切るのが普通で、半数近くが途中でやめていく。昨年のボートレースのCMでも訓練生が中途退所する場面があった。どんな訓練をするのか知らないが、厳しそうだとは察しがつく。西山貴浩選手がテレビのインタビューで「あんな所、二度と戻りたくないですよ」と言っていたことがある。それにどうも軍隊(規律優先、絶対服従という点でです。人殺しの訓練をしているという意味でではもちろんありません)じみているような気もする(違っていたら御免なさい)。とにかく、ボートレーサーになるのが狭き門であることに間違いはない。募集サイトによれば平均年収は1700万円。悪くない。現役在籍の平均年数は26年で、プロ野球(9年)やJリーグ(5年)に比べて長いとの説明もある。現役最年長の高塚清一選手は74才で頑張っておられるし、息の長い現役生活というのは確かに魅力的である。2017年からは養成所の費用も要らなくなった。応募者1000人超えも理解できようというもの。
 スポーツは得意だが野球やサッカーで一流を目指すには体格に恵まれていない、あるいは、体格は大きくなくても通用するスポーツであっても小さい頃から練習していないとトップクラスは望めないスポーツをやってきたわけでもない若者が「スポーツで食っていく」道として選ぶにはボートレーサーは恰好の職業であるのかもしれない。でも、どんな仕事でもいい事尽くしといかないのは世の定め。平均収入1700万といっても、あくまで全選手平均での話。上と下の開きは大きい。養成所の募集サイトによれば、クラス別の平均年収は以下のとおりである。カッコ内に合わせて人数(2022年前期)も示しておく。A1級(325人)4000万円、A2級(323人)2100万円、B1級(761人)1200万円、B2級(198人)500万円。約半数が占めるB1級レーサーとして26年務めた場合の生涯収入は1200万×26=31200万。国税庁統計(2020年)によると民間給与所得者5245万人の平均年収は433万。45年働いたとすれば生涯収入は19485万。もちろんレーサーもレーサーを辞めた場合には何らかの職について収入を得るだろう。これを433万×19年とすれば8227万。レーサー時代の収入と合算して生涯収入は39427万。一般民間人の2倍。これを多いと見るか少ないと見るか。狭き門をくぐり抜けなければならず、厳しい訓練に耐え、危険を伴う仕事としては少ないと私は思うけれど。
 なるほど、こんなちまちました銭勘定はレーサー志望の若者にとって意味のないことなのかもしれない。誰だってずっとB級レーサーを続けようと思ってレーサーを志すわけではない。A1級になり、さらにそのなかでもトップクラスとなり、最高レースであるG1やSGの常連となり、年末「グランプリ」の栄冠を目指す。お金は後からついてくるだけのこと。みんな、まずは夢を見るのである。とはいえ、夢を見るのは簡単でも実現は困難。半数がB1級で終わるのも事実である。最後には銭勘定もせざるを得まい。怪我は日常茶飯事だし、死とも隣り合わせ。それに、減量というのも辛そう。出走体重は男子52キロ以上、女子47キロ以上と決められているため、そして、軽量のほうが有利な(スピードが出る)ため、この理想体重を維持するのもボートレーサーの大事な仕事。女子の場合は元々小柄で体重47キロ以下の人も多く、レースでは2キロとか3キロとかの調整重量を背負う人が多いようだが、男子の場合はほとんどの選手が減量を余儀なくされているようである。60キロでレースしても違反ではないけれど、強い選手のなかにそういう人はまずいない。52キロぴったりに減量するのも一流選手の証し。ボクサーなら減量は試合前だけでいいが(それもしんどい事には違いないけれど)、ボートレーサーは日常的にレースがあるので日常的に減量しなければならない。つまり、普段でも好物をお腹いっぱい食べられない。茶化すようなことを言うようだが、私のような食いしん坊から見ると生きる喜びを奪われたみたいで、耐えられないことである。
 狭き門、厳しい訓練、減量、怪我、もしかしたらの事故死。やっぱりボートレーサーは過酷な職業だと思わずにいられない。ボートに取り付けるモーターを最高時速30キロまでしか出ないように「改良」すれば大きな事故はなくせるかもしれないと現実無視者の私なら言いたいところだが、与太話として一笑に付されるだけだろう。人間は自力では出せないスピードに魅了される動物でもあるらしい。乗るほうも見るほうも。そうである以上、残念ながら今のところ、死亡事故を防ぐ完全な手立ては存在しない。
 小林晋さんの死はどのように遇せられるのだろうか。たんに御冥福をお祈りするだけではすまないだろう。私が言っても仕方ないことではあるが、遺族に対して手厚い補償がなされるよう願うのみである。