大津、湖西浄化センターのバラ

 大津の住まいの近くに滋賀県湖南中部流域下水道事務所湖西浄化センターという長ったらしい名前の下水処理場がある。ここにはバラ園があって、結構有名らしい。年に2回、5月と10月にそれぞれ12日間ずつ一般公開され、今年の5月は17日から28日まで。先日自転車でぶらりと出かけてみた。
 帰宅後、写してきた写真とバラを歌った詩を並べてみようかと思い、本箱からいろんな詩集を引っ張り出してページをめくってみたが、バラの詩は意外と少なく、あっても自分の内面をバラに託して表現したものが大半で、バラそのものが中心である詩はとても少ない。結局、以下のように白秋とリルケの詩を選んだ。

   薔薇二曲
          北原白秋

   一

薔薇ノ木ニ
薔薇ノ花サク。

ナニゴトノ不思議ナケレド。

   二

薔薇ノ花。
ナニゴトノ不思議ナケレド。

照り極マレバ木ヨリコボルル。
光リコボルル。

       

   薔薇の葩〔はなびら〕
          リルケ(大山定一訳)
・・・
ごらん、純白の花が幸福そうにそっとひらいているのを。
おおきな満開の花々のなかに 彼女は
まっすぐ貝殻のヴィーナスのように立っている。
やや赤らみかけた花が いささか取りみだしたように
隣の日かげの花に凭れ寄ろうとする。
すると そのすずしげな花はしずかに身をかわす。
・・・

また薔薇は ほとんどありとあらゆるものに変身する。
すっかり開き切ってしまった黄いろの薔薇は
ある果物の外皮だったのかもしれぬ。
そして同じ黄いろが もっと濃く
オレンジの果汁となって 満々と湛えているのだ。
この一輪はおそらくもう開花がささえきれぬのだろう。
名づけようのないみごとなピンク色が空気にさらされて
そろそろ疲れた淡臙脂〔うすえんじ〕のほろ苦い後味に変わろうとしている。
あの白麻のような一輪は 古い池の森のほとりで
朝つゆの木かげに脱ぎすてられた真夏のドレス。
・・・

しかし薔薇は ただもう一途に わが身をささえることに必死なのだ。
なぜなら じっと切なく開花をささえるのは――外部のありとあらゆるものを、
風や雨やなまあたたかな春の焦心を、
罪や不安やどこかにそっと隠れる運命を、
暮れなずむ大地の夕闇を、
雲の流れや飛翔や変化を、
はるかな星のかすかな感応を、
ただ一切を「内部」に変身さすことにほかならぬのだから。

かくて 咲きこぼれた薔薇の葩に 何の不安もなくすべてが宿っていた。

   
   
   薔薇の内部
         リルケ富士川英郎訳)

何処にこの内部に対する
外部があるのだろう? どんな痛みのうえに
このような麻布があてられるのか?
この憂いなく
ひらいた薔薇の
内湖〔うちうみ〕に映っているのは
どの空なのだろう? 見よ
どんなに薔薇が咲きこぼれ
ほぐれているかを ふるえる手さえ
それを散りこぼすことができないかのよう
薔薇にはほとんど自分が
支えきれないのだ その多くの花は
みちあふれ
内部の世界から
外部へとあふれでている
そして外部はますますみちみちて 圏を閉じ
ついに夏ぜんたいが 一つの部屋に
夢のなかの一つの部屋になるのだ

   

   幸福な薔薇よ、・・・
         リルケ(山崎栄治訳)

幸福な薔薇よ、おまえのすがすがしさが
ともすればわたしたちをこんなに驚かすのは、
おまえがおまえ自身のなかで、うちがわで、
花びらに花びらを押しあてて、やすんでいるからなのだ。

全体はすっかり目ざめているのに、奥のほうでは
眠っている、――ひっそりしたそのこころの
数知れぬやさしさは触れあいながら
はずれの口もとまでつづいて。


   〈リルケの墓碑銘〉
Rose, oh reiner Widerspruch, Lust,
Niemandes Schlaf zu sein unter soviel
Lidern.
               
薔薇 おお 純粋な矛盾 よろこびよ
このようにおびただしい瞼の奥で なにびとの眠りでもない
という
                             (富士川英郎訳)