あと何回の晩餐?

 3週間ほど前のこと。関ケ原の古戦場でもぶらついてみようかとJRで出かけたところ、家を出る時は何もなかったのに途中、電車内で気分が悪くなりだした。最初は、これでは予定していたレンタサイクルでの散策は無理なようだから景色を眺めるだけにし、昼御飯でも食べてすぐに戻ってこようかなどと呑気に構えていたのだが、しんどさはきつくなるばかりで、こりゃあかん、帰ったほうがよいと判断し、途中の彦根駅で電車を降りることにした。ところが電車が駅に着く直前だったが、急に周りの景色が色彩を失ってモノクロに見え、物の輪郭がはっきりせず、視界全体がまぶしくなった。おまけに立っているのもやっとの状態。なんとか電車を降り、ホームの柱につかまって倒れるのだけは免れた。おそらく30秒くらいはそうしてじっとしていたと思うが、正確なことは分からない。男の人が大丈夫ですかと声をかけてくれたことは意識に残っている。やがて周囲もはっきり見えるようになり、歩けるようになったので近くのベンチに腰掛けてしばらく休んだ。それから京都に戻り、かかりつけのお医者さんに行ってわけを話すと心電図検査。異常なし。お医者さんの見立ては、脳の血管が小さな血栓で一時的に詰まるか血流が悪くなったが、血栓はすぐに流れて回復したのだろう、今精密検査をしても何もないはずである、というもの。それに、ちょうど1ヶ月前の血液検査(半年ごとの定期的な検査)でも異常は見られないので、血をサラサラにする薬を今すぐ飲む必要もなかろう、というもの。
 そんなものかと一応安堵はしたが、駅のホームで倒れそうになった時にいやな思いが一瞬脳裏を駆けめぐったのは事実である。このまま気を失うのではないか。倒れたら救急車で彦根のどこかの病院に運ばれるのか。連絡を受けた家族はどんなに驚くだろう。もしかしてこのまま死ぬかも。そんな死に方はあっけなさすぎる。あっけなさすぎる死はいやだ。とまあ、今考えてみると笑ってしまうが、その時は大真面目であった。いやいや、今考えても笑う理由はないのかもしない。人間の死に際などどうなるか分かったものではないのだから。
 山田風太郎に『人間臨終図巻』というおもしろい本がある。古今東西の有名人総勢923人について、著者のコメントや感想はあまり交えず、その死(と生)を亡くなった年齢別に分類してずらっと並べたものである。最初は10代で死んだ人々でひと括り、次に20代で死んだ人々もひと括りし、31才からは1才きざみで括ってある。31才から延々99才まで続き、最後は100代で死んだ人々。有名人といってもさまざまで、キリストや孔子聖徳太子クレオパトラソクラテスジンギスカンなど歴史上の人物から近現代の思想家、科学者、画家、音楽家、詩人、小説家、探検家、政治家、武士、商人、軍人、歌手、俳優、スポーツ選手、芸人など、私たちが思いつくような人物はほぼすべてといっていいくらいさまざまな人々の死(と生)が網羅されている。さらには山口二矢(彼に刺殺された浅沼稲次郎も)、凶悪犯罪者として現場で射殺された梅川昭美や死刑になった大久保清まで登場する。じつに多彩。
 若くして死んだ人々の話は意外性や悲劇性が色濃くて興味をひかれるのであるが、それ以外に今の私がとくに関心を持つのが75才から80才あたりで死んだ人々。彼等の臨終がどうであったかを知ったとて私が死ぬ際の参考にできるわけでもないのだが、最近、行政が定めるところの「後期高齢者」に分別されたばかりの身としてはこのあたりでの死に方が身近に感じられ興味がわく。『図巻』には105人がこのゾーンで死んだ人として取りあげられている。
 死因はやはりというべきか、癌、心臓疾患、脳血管障害が多い。これらの疾患は死の直接的(最終的)死因にならなくとも、人々を苦しめ弱らせる場合も多い。それにしても癌というやつは人体のどこにでもできるものだとあらためて驚かされる。肺、胃、直腸、S字結腸、胆嚢、膵臓、肝臓、前立腺、膀胱、喉頭・・・。昔、私の知人が眼の癌で亡くなったが、がんがんですからガンガン頑張って直してくださいなどと申し訳ないことを言ってしまった。心臓癌は少ないが皆無ではないらしい。癌は細胞異変だから細胞のある所はどこにでも発症するということなのだろう。
 この年齢ではさすがに戦死や自殺は少ない。戦死は1例だけで、アルキメデス。彼が75才でローマ軍に殺されたとは知らなかった。ちょっと驚き。自殺も1例だけで、コダック写真機を発明し、巨富を築いたイーストマン・コダック。76才で脊髄下部の硬化症にかかり、歩行困難となり、さらに病は進行し、78才で拳銃自殺をとげたとある。成功と富も病気には勝てなかったということか。遺書に「私の仕事は終った。なぜ待つ必要があろうか」とあったことを考えれば一種の安楽死だったかもしれない。もし拳銃による安楽死があるとすればだけれど。非業の死を遂げたのは犬養毅マハトマ・ガンジー、マウントバッテンで、銃ないし爆弾で殺された。三木露風は郵便局から往来に出たところでタクシーにはねられた。75才。意外なことに『図巻』全体を通じて交通事故死は少ない。有名なのはアラビアのロレンス。郵便局で電報を打っての帰途、オートバイに乗っていて自転車を避けそこない転倒して頭を強打し6日後に死亡。こちらは47才とまだ若かった。郵便局に行った帰り道は注意が必要か!
 世の中には芸術や学問や実業や政治において大きな仕事を成し遂げたけれども人格破綻者であるとしか考えられない人が結構たくさんいる。わがままし放題で周囲のことなど眼中になく、欲望のおもむくままに生きた暴君。現在ならセクハラ、アカハラパワハラとして糾弾されるような事も一昔前まではまかり通っていたのかもしれないし、常識を外れた性格あっての偉大な業績だなどと擁護することも可能かもしれないが、私はそういう人間が大嫌いなので、そういう人が病魔に苦しむエピソードを読むと楽しくなる。とくに女性関係にだらしなかった男がみんなに見捨てられたとなると快哉を叫びたくなる。それはそれで不謹慎な悪趣味だが。
 代表として北大路魯山人に登場願おう。(以下、山田の文章を引用するが、山田は白崎秀雄『北大路魯山人』に依っている。なお以下のすべての引用においては原文の漢数字は算用数字で表記する)。〈赤坂に「星岡茶寮」を経営し、料理はもとより、書、篆刻、陶芸、建築、造園にも、天衣無縫、稀有の大才を発揮しながら、相手がだれであろうと、気にいらないところがあれば横をむき、直情径行の毒舌をふるい、はては非情酷薄とも思われる態度を見せる不幸な性格のために、当然の反応としてだれからも反感を買い、憎まれ、冷眼視され、友人はおろか、何人かの妻にも去られ、一方彼のほうからも肉親の子さえよせつけなかった魯山人〉。〈その彼が、昭和32年74歳の秋ごろから、下痢、しかもところきらわず失禁状態を繰返すようになった。そして、34年秋にはついに尿閉症状を起こして、横浜の十全病院に入院手術の結果、肝臓ジストマに罹っていることが判明した。この病気は、肝臓ジストマという寄生虫を持つ鯉、鮒などを食べることによって起る。彼の「美食の報酬」であった。彼は自分の病室に勝手にテレビや冷蔵庫を持ちこみ、ときにぬけ出して南京街へ支那料理を食いにいったりした。看護婦の注射の仕方が悪いと平手打ちを食わせたりするので、看護婦はあらかじめドアをあけて逃げ腰で注射する始末であった。魯山人は5人も妻をとりかえ、秘書や家政婦にまで手をつけることを辞さなかったのに、どの女性にも下半身を見せることを極端に恥じ、病院ではカテーテルで導尿することを余儀なくされたが彼はそれをはずし、悲鳴をあげながら自分でトイレにゆこうとした〉。〈12月にはいって魯山人は、右の脇腹のあたりに小孔をあけて、そこへカテーテルを入れて尿を排泄させるようになったが、そこから出て来るのは、尿というよりほとんど血であった。大便にも多量の血がまじった。それは本来の臭いに、魚の臓物の腐敗した臭い、腐乱死体の臭いが混合して、人々の戦慄をさそう悪臭を放った〉。こうまでなると快哉を叫びたくなるという気持ちも失せる。ちょっと気の毒。
 しかし、汚れた生をおくったからといって必ずしもむごたらしい最期を迎えるとは限らない。悪運の強い人間もいる。例えば堤康次郎。〈実業家として西武王国を築きあげ、その一方で、気にいった女があればいかなる素性の女であろうと誘拐同然にして犯すという、「英雄色を好む」などというなまやさしい言葉では表現できない人物〉。おいおい、これはれっきとした犯罪ではないのか。しかも〈戦後、参議院議長の要職にまでのぼりつめた〉。どうなっているのだ。1964年、〈首相池田勇人の夫人に真珠のネックレスをプレゼントすべく、車で・・・出かけたが、途中気分が悪くなって、熱海の別荘で静養する気になり、東京駅についたが、そこで倒れた。心筋梗塞であった。ただちに新宿の国立第一病院へ運びこまれたが、3日後の4月26日に死亡した〉。こんなに楽に死なれたのでは全然○○○○○ない(死者に敬意を表してここは伏字にしておく)。
 堤康次郎のライバルであった東急コンツェルンの総帥五島慶太は苦しんだほうだろう。(以下、山田の叙述に従うが、山田は三鬼陽之助『五島慶太の臨終』に依っている)。五島は健康には留意し、2時間の散歩、150回の木刀の素振りを日課としていたらしいが、一方で〈晩年まで大食漢で、うなぎ、てんぷらなどのあぶらっこいものが好物であった。芸者を愛し、「若い女といっしょにいるとホルモンの分泌がよくなり、運動するのと同じ効果がある」という信念を持っていた〉。71歳で脳溢血を起こし、以後半身不随。それでも〈症状が軽快するとともに以前にまさる事業の鬼となり、とくに西武の堤康次郎との間に、箱根伊豆の交通とレジャーの世界での争覇戦をくりひろげた〉。1959年5月21日、持病の糖尿病による血行障害でめまいを覚えたが、医師を呼んで症状が軽快するとお供をつれて伊豆や料亭に出かけた。28日に胸痛が起こり狭心症のおそれありと診断され床につく。6月4日、右の足頸が痛みだし、夜中一睡もせずわめきつづけた。血栓がつまったということらしい。〈東急では、重役、秘書らで40人を超える看護団を組織し、五島が苦痛のため眠れないというと、夜でも彼をかごに乗せて、数人でかついで庭に出て、みなが団扇であおぎながら練り歩いて忠節を競った。五島はかごの中から「馬鹿者ども、おれの苦痛がわかるか」とどなりつけた〉。8月に入ると昏睡状態におちいり、彼がかつて寵愛した京都の料亭「中はな」の女将中島ハナが見舞いに訪れている。〈五島は昏睡からさめていたが、口はきけなかった。眼でハナに扇子をよこせといい、握らせると、その扇子で彼女の体のあちこちにふれ、そのうちに手に若干の力が復原して来たと見えて、顔すり寄せるハナの頬や唇にさわったり、襟もとから手をいれようとしたり、はては抱きしめたいような表情を示した。しかし彼はまたすぐに昏睡におちいった〉。8月14日に77才で永眠。
 芸者を愛したとか、若い女といっしょにいると云々とか、事業の鬼であったとか、お供をつれて伊豆や料亭に出かけたとか、家臣たちが忠誠を競ったとか、朦朧状態のなかでかつての愛人に示した奇妙な態度(性欲の残り火?)とか、これら一連の夾雑物(『図巻』の主旨からすればこれら凡人の関せざる夾雑物こそ本筋なのだが)を取りのけて病気だけに注目すれば、ここに記述されている発病から死に至るプロセスは死に方の一つの典型、モデルコースのように思えてくる。現代にあっては健康に留意して毎日の散歩を欠かさない人は多いだろうし、木刀を振るかどうかは別として何らかの運動をしている人も多い。でも病気にはなる。2、3ヶ月病床にあって苦痛で七転八倒したりもする。かごに乗ってうちわであおいでもらうことはなかろうが、その代わりにモルヒネ注射を打たれたりする。そして臨終を迎える。人間の死に際ってこんなところに落ち着くのではないか。私は御免蒙りたいが。
 魯山人も五島もカネには困らない身分であったから好きな事ができた。それでも病の苦痛から逃れることはできなかった。富が病から救ってはくれないことは明白である。とはいえ、カネはあるにこしたことはない。いや、むしろカネは人間らしく死ぬための必要条件と言えるかもしれない(むろん十分条件ではないし、例外もある)。貧困と病の二重苦はとてもつらい。人間としての尊厳も脅かされる。ジャン=ポール・サルトルの晩年を見るとそういう感慨を禁じ得ない。〈彼は1973年から視力障害を起し、75年には作家廃業を宣言した。以後サルトルはモンパルナス近くの小さな借家で、印税だけの、月に3千フランという、当時のフランスの労働者の月収平均5千~6千フランよりはるかに少ない、いわば最低のつましい生活をし、レストランに現れるときも、よれよれの背広にレーンコート、ウールの襟巻という姿であった。彼自身「80まで生きたら、私は無一文になるよ」といっていた。また、「私の葬式の費用はどうすればいいのだろう?」と尋ねたりした〉。やがて〈高血圧、動脈硬化、糖尿病などによる思考力鈍麻、めまい、顔面その他の筋肉麻痺、運動失調などが相ついで現われ、はては時ところをわきまえない排泄の不始末までひき起すようになった。彼は「恍惚の人」になったのである。そして、1980年3月20日から、肺水腫のためにパリ市内ブルーセ病院に入院したが、4月15日午後9時に死去した〉。75才。私は実存主義に興味はないが、おしっこやうんこを垂れ流すサルトルを想像したくない。
 カネはうんとこさあったのにちぐはぐな生活をして、のたれ死に(現在ならもう少し穏当に孤独死と呼ぶけれど)といっていいような死に方をしたのが永井荷風。1959年3月1日に浅草で転んでひざを打った。その日の『断腸亭日乗』には「日曜日。雨。正午浅草。病魔歩行殆困難となる。驚いて自動車を雇ひ乗りて家にかへる」とある。それまではほとんど毎日出かけていた浅草へもこの日以降は一度も行っていない。寝ていることが多く、食事ももっぱら近所の大衆食堂ですませている。4月29日の昼もそこで食事をし、そして翌30日の朝、出勤してきたお手伝いさんが血を吐いて死んでいる荷風を見つけた。80才。「東京新聞」は「死亡推定時刻は同夜午前3時ごろで、胃かいようによる急死とみられているが、一応市川署では変死と見て、今関捜査課員らが検屍を行っている」と報じた。『図巻』には佐藤春夫の次の文が引用されている。「愛人に対して加虐者〔サディスト〕であった彼は、最愛の自己に対しても最大の加虐者であった」「老躯をいたわって医者に見せることをせぬばかりか、万一にそなえて看病人ひとりを頼まぬばかりか、更に近隣の一品料理屋などへ出かけて何の油を使っているとも知れない安テンドンを残さず貪っていたと伝えられるのを聞いては、これがただ食いしん坊以上、むしろ自然死による覚悟の自殺を企てていたものとしか、わたくしには考えられないのである」。彼が残した預金は2000万円を超えていた。現在の貨幣価値なら2億円以上か。
 堤康次郎永井荷風もいまわの際には苦しまずに死ぬことができたと思われる。苦しんだとしても3日(堤)あるいは10数時間(荷風)だったろう。それでもこの人たちにあやかりたいと思わないのはその生き方に共感できないせいか。堤には嫌悪を、荷風には無惨を覚える。余計なお世話だと荷風は言うだろうが。では誰の死に方ならいいのかというと北里柴三郎美濃部亮吉あたりになる。北里は〈晩年顔面神経痛と音声の不自由をきたしたが、身体そのものは頑健無比で、死の前々日も慶応病院の歯科に歯の手入れにいったほどだったのに、昭和6年6月13日の朝、麻布の自邸の寝室の布団の中で安らかに大往生をとげているのが発見された。脳溢血を起こしたのであった〉。79才。美濃部は〈知事をやめたあと、参議院議員となったが、昭和59年12月24日・・・参議院へ出かけるため・・・時子夫人が二階の書斎に美濃部を呼びにゆくと、ジャンパー姿の美濃部は机の前の椅子に坐り、あおむけざまに眼をつぶっていて、ゆり起こしても起きなかった。机の上には朝刊がひらかれたままになっていた。すぐにかかりつけの医者が呼ばれ、強心剤を打ち心臓マッサージを施したが、11時50分、心筋梗塞による死亡が確認された〉。80才。蛇足ながら102才で死んだ私の母も大往生であった。胸に水がたまっているというので入院したその日の夜、うんともすんとも言わずに息を引き取った。みごとな老衰死。
 山田風太郎には1994年から96年にかけて「朝日新聞」に連載した文章を集めた『あと千回の晩餐』というエッセイ集があり、『人間臨終図巻』で他人の死を俯瞰した山田はここでは70才を超えた自分の老いと死を見つめている。〈いろいろな兆候から、晩飯を食うのもあと千回くらいなものだろうと思う。といって、別にいまこれといって致命的な病気の宣告を受けたわけではない。72歳になる私が、漠然とそう感じているだけである。病徴というより老徴というべきか〉と彼はエッセイの冒頭に記したが、しかし連載途中で入院する羽目になり、半年の休筆を余儀なくされた。視力低下で眼科の診察を受けたら糖尿病が判明し、食餌療養のために入院した病院での検査でさらにパーキンソン病の診断が出たのである。カロリーを制限した薄い味つけの食事もそのために入院したのであるから受け入れ、好きな酒もたばこももちろん絶ち、『図巻』に登場するわがままな病人とは違って模範的な入院患者(これが普通なのだが)であった彼は1ヶ月で退院することができた。しかしその後自宅療養中にパーキンソン病の薬による幻覚症状が出て奥さんが病院へ連れて行ったとき、ベッドで排泄することを拒否して彼は〈ベッドをとりかこむアルミニウムの柵をのり越えて出ようとし、外側にころがり落ちた。そのとき大腿骨の骨頭を欠けさせてしまったらしい〉。おかげで一歩も動けなくなり、3,4メートル先のトイレへも行けず、〈ベッドの上での排泄をごめんこうむろうとして、かえってベッドの上での排泄を余儀なくされ〉る入院生活を送るはめになってしまった。この入院生活は3ヶ月を要し、最初の2ヶ月は車椅子生活であった。病気そのものは苦痛を伴うものではなく何ものでもなかったが、このおむつへの排泄がいちばんつらかったようである。〈およそ死の床にある人間を最も悩ますものは、病気そのもののほかに、残してゆく遺族の運命、多額を予想される場合はその治療費、そして排泄の始末だろう。それは彼自身の尊厳性に直接かかわる問題だからだ〉。
 『晩餐』の病状報告からは山田の死生観ないし人生観とでも呼ぶべきものが垣間見えるのであるが、時としてそれが直接に吐露されることもある。例えば次の文章。〈だいたい私は努力というものがあまり好きでない。「頑張る」という言葉も然りである。少年のころから努力や頑張りに抵抗を感じていた。たいていの芸事、趣味、スポーツもある程度の努力、頑張りを必要とするので、私は懐手をして見ていただけだ。70すぎまで生きていれば、たいていの人が「座右の銘」のたぐいを持つものだが、私にそんなものはない。強いていえば漱石の「懐手をして小さくなって暮らしたい」という言葉くらいだ〉。別のところでは「したくないことはしたくない」生き方というのが強いていえば座右の銘らしきものかとも言っている。この気持ちはよく分かるし共感もするが、我々凡人が額面通りに受け取り、自分の怠惰の言い訳に使うのは危険かもしれない。あるいは次の文章。〈70歳を超えて。心身ともに軽やかな風に吹かれているような気がする〉〈その理由を考えてみると、要するに「無責任」の年齢にはいった、ということらしい。この世は半永久的につづくが、そのなりゆきについて、あと数年の生命しかない人間が、さかしら口に何かいう資格も権威も必要も効果もない。・・・生きているときでさえ、万事思うようにはゆかぬこの世が死後にどうなるものでもない。70歳を超えれば責任ある言動をすることはかえって有害無益だ。かくて身辺、軽い風が吹く〉。「万事思うようにはゆかぬこの世」はまったく同感だが、困ったことに、どうにもならないからと軽い風に吹かれていても気持ちは軽くならないことがある。どうにもならない世の中のことが気になるのは凡人のさがか。超然たる老人生活もこれはこれでむつかしい。「無責任」の生は死んで初めて可能になるのではなかろうか。
 山田風太郎は戯言に自らを「アル中ハイマー」と称したほどに酒を飲み続け、〈尻からケムが出るほど〉たばこを吸い続けた。彼は自分を〈意識の底にいつも死が沈殿しているのを感じている人間〉であり、芥川龍之介太宰治三島由紀夫などに〈漠然たる親近感を覚える〉と書いた。そのうえで〈しかし、決して同族ではない・・・死へ直通する道を実際に疾走した彼らと私とのあいだには千歩のちがいがある〉と断っている。〈私に「あの世」への親近感などない。それはないが、「この世」への違和感ならある。いわゆる「厭世観」というやつか。ただし、ほんのちょっぴりだが。ほんのちょっぴりだが、この深層心理が私に平然とたばこをのませ、大酒をのませる原動力になっているようだ〉。山田は予定より長生きして、2001年に79才で亡くなった。肺炎であったというが、臨終の委細はインターネット上で調べた限りでは不明。
 「この世」への違和感なら私にもある。それが酒を飲み続けている原動力であるかどうかは自分でもよく分からないが。たばこは吸わないので、私の厭世観は山田の厭世観の半分くらいか。ほんのちょっぴりの厭世観の半分の厭世観てどんなものか。これから先、自殺か戦死で最期を迎えることはなさそうだと思うが、人生一寸先が闇。断定するのはひかえたほうがよい。病気の痛みに耐えかねて殺してくれと叫ぶことぐらいはおおいにありそうである。イヤだ、イヤだ。これから何回の晩餐を数えることになるのだろう。これも断定するのはひかえたほうがよいだろう。彦根駅のホームで倒れそうになってから3週間になるが、その間体調に何の異変もなく、『人間臨終図巻』や『あと千回の晩餐』などを再読しながら暮らしてきた。しかし、そういう状態とは無関係に死は突然やって来るかもしれないし、なかなかやって来てくれないかもしれない。願うのは苦痛を伴わない臨終のみ。それから、おむつの世話にもなりたくない。