夏の詩歌

 酷暑がなかなか終わってくれない。手元にある詩集や歌集をパラパラめくりながら、夏の暑さを罵倒したり呪ったりした作品ってあるのだろうか探してみたが、見つからない。もともと、冬や秋に比べると夏をテーマやモチーフにした詩歌は少ない。それに、暑くてたまりませんなどと詩や短歌で文句を言ってみても始まらない。見つからないのも当然か。というわけで、最初の趣旨に沿う作品は見つからなかったが、せっかくだからいくつかの夏の詩と短歌を拾ってみた。以下、そのいくつか。(*は私の注釈や感想)
◇◇◇
村野次郎

土用照朝よりきびしひとむらの茅萱〔ちがや〕炎となりて目に来る

びわれて土熱〔ほ〕めきたつ日の盛り風死して目に動くもの見ず

*このように夏の暑さを純粋にうたったものは珍しい。しかし、炎となった茅萱や風の死を凝視する歌人の強い視線も感じられて、純粋に風物をうたった歌と断定すべきでないかもしれない。
◇◇◇
   夏が来たら------      
             山崎栄治
夏が来たら------
私は鍔ひろい麦わらの帽子をかぶるだろう。
私の高い頬骨が鳶色に日に灼けるだろう。
蝉が啼いて、私は白絣を着て、その下でまた     
  汗ばむだろう。
そうして、私の経た一切の失意を、一切の不  
  運を忘れるだろう。
夏が来たら------
夏はあの盛りあがる草木と、かがやく雲と、
 雨と、砂塵と、花籠いっぱいの困惑とを   
 持ってまたやって来るのだろう。

(そのあいだにも、おおぜいの人は、つぎ
   つぎに、この地上から消えるのだが------)

*私のような老人はもはや夏の到来を待ち望むことはないが、子供や若者は輝ける季節としての夏を待ち受ける気持ち「夏が来たら------」が強いだろう。麦わら帽子、日灼け、蝉、白絣、汗といったイメージによって呼び起こされる開放的な夏。しかしこの詩では、開放感が海や山とのみ結びつくことはない。夏は、盛りあがる草木やかがやく雲とともに花籠いっぱいの困惑をつれてくるのである。夏は開放だけではなく、むしろ過去に味わった失意や不運からの解放の季節でもある。しかも、すべての人間にとって避けることのできない死(究極的な解放!)さえも予感させつつ。
◇◇◇
   倒〔さか〕さの草
             小山正孝
草むらに私たちは沈んだ
草たちは城壁のやうに私たちをくるんだ
倒さの草たちのそこの空に白い雲が浮んで
 ゐた
青ざめたほほと細いあなたの髪の毛と
草の根方を辿つてゐる蟻と蜘蛛と
しめつた黒ずんだ土と------
暑い暑い夏の日だつた
あなたとはもう縁もゆかりもないけれど
今も思ふ
純粋とはあれなんだ
起きあがつた時のあなたの笑顔とすずしい
  風と
美しいくちびるの色!

*動物は発情期があって一定の季節に恋をするのだが、人間は年がら年中恋をしている。とはいえ私たちのイメージのなかでは夏が恋ともっとも結びつきやすい季節であろう。この歌もそんな夏の恋の歌。私の好みでは「あなたとは・・・純粋とはあれなんだ」の3行は削りたい。恋人と別れたという現状報告も純粋という説明も蛇足である、と私は感じる。これに替わるピリッとした1行はないのか。
◇◇◇
   夏花の歌 その一
             立原道造
空と牧場〔まきば〕のあひだから ひとつの
  雲が湧きおこり
小川の水面に かげをおとす
水の底には ひとつの魚が
身をくねらせて 日に光る

それはあの日の夏のこと!
いつの日にか もう返らない夢のひととき
黙つた僕らは 足に藻草をからませて
ふたつの影を ずるさうにながれにまかせ
 揺らせてゐた

------小川の水のせせらぎは
けふもあの日とかはらずに
風にさやさや ささやいてゐる

あの日のをとめのほほゑみは
なぜだか 僕は知らないけれど
しかし かたくつめたく 横顔ばかり

*おりから湧きおこる入道雲を映した小川にふたりは並んで足をひたしているという情景。藻が足にからみつくのをそのままに、ふたりは何かおしゃべりするのでもなく、自分たちの影を見つめるだけである。「ずるそうに」というのは、互いの心を確かめる勇気さえなかったという意味だろう。そしてお互いの顔を正面から見ることもなかった。「あの日のをとめのほほゑみは・・・かたくつめたく 横顔ばかり」である。
◇◇◇
小野茂
あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ

*こちらは正面から見つめあうこともあったであろうふたり。この歌を私は40年ほど前に初めて読み、短歌の表現力を実感した。上に挙げた小山正孝や立原道造の詩が伝えたいのと相似の心情を三十一文字で表現し、余韻はそれ以上。作者が交通事故で若くして亡くなったこととは無関係に絶唱
◇◇◇
   蝉頃〔せみごろ〕
             室生犀星

いづことしなく
しいいとせみの啼きけり
はや蝉頃となりしか
せみの子をとらへむとして
熱き夏の砂地をふみし子は
けふ いづこにありや
なつのあはれに
いのちみじかく
みやこの街の遠くより
空と屋根とのあなたより
しいいとせみのなきけり

*夏といえば蝉は外せない。そして蝉取りといえば私は木にとまっている蝉を網で捕まえるのを思い浮かべるが、ここで「せみの子」といわれているのは蝉の幼虫のことなのだろうか。それが土から出て木をよじ登っているのを手で捕まえるのだろうか。犀星は子供の頃、金沢でそんな蝉取りをやったのかもしれない。などと些細なことに引っかかってしまった。でもやはり、「せみの子」はことばのあやであって、「砂地をふみし子」は木で鳴いている蝉を捕まえているのだと素直に理解しておきたい。かつて蝉を追いかけていた子供であった詩人は今では故郷を離れたみやこにいて、どこか遠くから聞こえ来る「しいい」という鳴き声に耳を傾けている。
 なお、2行目は「啼きけり」と漢字、最終行は「なきけり」とひらがなになっているが、これは犀星流の些事にこだわらずということか。特に意味はないと思う。
◇◇◇
   蝉
             三好達治

蝉は鳴く 神さまが竜頭〔ねじ〕をお捲きに  
 なつただけ
蝉は忙しいのだ 夏が行つてしまはないうち 
 に ぜんまいがすつかりほどけるやうに
蝉が鳴いてゐる 私はそれを聞きながら つ  
 ぎつぎに昔のことを思ひ出す
それもおほかたは悲しいこと ああ これで
 はいけない

*蝉があんなにせわしく鳴いているのは神様が捲いたぜんまいを捲き戻しているのだとは知らなかった。なるほどそうだったのか。それにしても、その蝉の声を聞きながら悲しい昔を思い出して、これではいけないと嘆いている三好達治という詩人は悲しい人ではある。私なんぞ蝉の鳴き声で思い出すのは網とかごを持って蝉取りに熱中した子供の私である。
◇◇◇
   夏草
             黒田三郎

真昼の原っぱに
人影はなく
忘れられた三輪車が一台
その上を
ゆらゆらと
紋白蝶がとぶ
激しい草いきれのなかで
思うことは
何もない
むなしく滅びたもの
かつては血と汗と泥にまみれたもの
地から出て地にかえったもの
すべては夢のように
ただ
紋白蝶が
もつれてとぶばかり

*朝のうちは三輪車で遊んでいた子供も暑さを逃れて家に帰ったのだろう。誰もいない原っぱに残された三輪車の上をとぶ紋白蝶。うるさく鳴く蝉とは無縁のもうひとつの夏。無言の世界。感じられるのは暑熱だけ。過去の世界からは、むなしく滅びたもの、血と汗と泥にまみれたもの、地から出て地にかえったものがよみがえる。しかしすべては夢のように茫漠としている。だから思うことは何もない。紋白蝶がもつれてとぶばかり。
 間然するところのない詩だと思う。大げさな言い方をすれば、平凡な語彙を巧みに使った詩の小宇宙。
◇◇◇
   布良海岸
             高田敏子

この夏の一日
房総半島の突端 布良の海に泳いだ
それは人影のない岩鼻
沐浴のようなひとり泳ぎであったが
よせる波は
私の体を滑らかに洗い ほてらせていった
岩かげで 水着をぬぎ 体をふくと
私の夏は終っていた
切り通しの道を帰りながら
ふとふりむいた岩鼻のあたりには
海女が四、五人 波しぶきをあびて立ち
私がひそかにぬけてきた夏の日が
その上にだけかがやいていた

*これも、間然するところのない詩であると思う。小野茂樹の口真似をしてみたくなる。「わたくしの数かぎりなきそしてまたたつた一つの夏そっと行く」。
◇◇◇
8月も下旬というのに熱中症警戒アラート状態が続いている。最後に、酷暑退散を待ちつつの一首。

吉田正俊

蜩〔ひぐらし〕のこゑにかはりし暁〔あかつき〕の虫々のこゑききて目ざむる