「泡鳴五部作」(その1)

 岩野泡鳴といえば自然主義を代表する作家の一人。しかし、昨今では自然主義の小説を読む人は少なかろうし、泡鳴など明治文学の研究者か愛好者か、あるいはよほどの暇人でもなければ読まないのではないか。暇人である私は読んでみた。本棚を眺めていたら「泡鳴五部作」という未読の本が目にとまり、なんとなく手に取ったというだけのことであるが、結構おもしろい。
 主人公は田村義雄。父が死んで下宿屋を相続したが〈實行刹那主義の哲理を主張して段々文學界に名を知られて来たのであるから、面倒臭い下宿屋などの主人になるのはいやで〉、そちらは妻に任せて、自分は勝手次第な事ができるという思いを抱き、〈自分自身の新らしい發展が自由に出來るのを幸ひにし〉ている。實行刹那主義とは何なのかよく分からないが、とにかくそういうことを唱えて有名になりつつある文学者であるらしい。そのうえ〈自分の妻子――ほとんど十六年間に六人の子を産ませた妻と生き残つている三人の子供――をも嫌つてゐた〉とある。この田村義雄という男、家族を犠牲にしたうえで文学の道に自分の新しい発展を求めようとする自分勝手な人間であるらしいと見て取れる。いったい何をやらかすのか。
 「泡鳴五部作」は『發展』『毒藥を飲む女』『放浪』『斷橋』『憑き物』の5作から成る。書かれた順序はこの順序ではなく発表時期も多少の隔たりはあるが、読むのはこの順序で、しかも一続きの物語として読んでまったく問題はない。物語はこの順序で進行する。今回は最初の2作だけを取り上げる(その1)。
 田村義雄はかつては詩を書いていたが今では哲学めいた評論や小説を書いて新聞や雑誌に売り込み、その原稿料が収入。それともうひとつ商業学校で英語を教えていて、こちらは原稿料などより安定した収入かに思えるが、週3日だけ出勤ということなので正規の教員ではないらしい。微々たる報酬か。妻千代子に任せている下宿屋の収入を入れても生活は楽ではない。
 千代子は義雄より3歳年上。恋愛結婚であった。しかし〈おも長の上品に艶々しい顔に、姉のやうな優しみを帯びて、その着物の着こなしさへ、他の田舎出の女學生などとは違ひ、如何にもしなやかな姿に義雄は引かれた〉のは16年前のこと。今では所帯じみた妻を義雄は婆々アと罵倒し、己の身勝手を批判されると平気で殴りつける。円満な夫婦関係や穏やかな家庭などという考えはおろか、父親であるという自覚さえ彼の頭にはない。妻や子供は彼にとって邪魔者でしかない。じゃ、なぜ結婚したのかと尋ねたいところだが、そんな問いは彼にとっては蛙の面に小便であるだろう。千代子はひとりで子供を育てなければならないどころか、邪険に子供を扱う夫から子供をかばうことさえしなければならない。
 相続した下宿屋には4年ほど前、裁縫学校に通う娘が間借りしていたことがあった。いったん故郷の紀伊田辺に帰り結婚したらしいが、それに破れて再び上京し、また昔の下宿に戻りたいという葉書をよこす。この娘は淸水鳥という名で、年は現在21歳である。義雄は4年前の彼女を知らないが、彼の父親の後妻(義雄の継母)は彼女をよく知っていて、あんまり好かないと言う。千代子は葉書の字を下手な字だと言う。しかも継母は「若し義雄さんにでも引ツかかりができたら」などという危惧さえ千代子にむかって口にする。最近も芸者とひと悶着あった義雄の女癖の悪さは暗黙の了解になっているらしい。それに実際のお鳥を知っている継母は何か感じるところがあるのかもしれない。そしてお鳥がやって来る。千代子が受けた第一印象はよくない。「いやな女よ――それは意地の悪そうな眼付きをして――おほでこでこのひさし髪で――」。茶飲み茶碗が足もとにころがっていても直そうとしないお鳥の態度についてもやはり千代子は「なんて無淸な女でしよう、ね、あんなだから嫁に行つても追ひ出されたのでしようよ」と非難嘲笑する。部屋代にも事欠くほどのお鳥は歓迎されざる間借人。
 お鳥は知り合いのところへ出かけたりして働き口を得ようとはするのだが、うまく行かない。文無しの割にはどこまで真剣なのか疑わしくもある。途中でいったん知り合いの同郷人夫婦のところへ転居するのだがすぐに戻って来る。義雄の継母の話では、そこの奥さんが焼きもちを焼いたとか。さらに千代子は、お鳥が友達の兄で妻子持ちの男をだまそうとしたらしいという話もする。真偽は不明。
 そして案の定お鳥は義雄の妾となる。といっても彼女が美人で義雄がゾッコンというのではない。〈義雄が直接に向ひ合つたその顔を見ると、圓ツこく太つて、色は雪のやうに白いが、平べつたい面積がどことなく締りなく、出過ぎたひさし髪や衣類の着付けがどうしても田舎じみてゐる。その目つきがそこに意地のありそうに見えるのも、ひさしの奥から見つめるから、たださう見えるのだと考へれば考へられないこともない。また、そのしろ目が少しそら色がかつてゐるのも義雄が見て餘りいい感じはしない〉。
 それでも義雄は誘いの手を差し伸べる。いきさつは次のとおり。働き口の決まらないお鳥に知人の小説家の所に住み込みの下女としてどうだという話を持ち掛けた義雄は、彼女が応諾の返事をしたのを聞いて妙な結論を引き出す。〈「いいですか」と渠〔カレ〕が念を押すと、女はまたたやすくいいと答へたので、これは物になるわいと思つた。獨り者のところへ若い女――それを平気で承知するやうなら、渠自身にも占領することが出來ないものでもなかろうと。たとへ田舎じみてゐても、たとへ拙い顔でも、このふツくりと肥えた色の白い女をむざむざと友人の秋夢に渡してしまうのが急に惜しくなつた〉。こういう理屈および心境はなかなか理解しがたいが、ま、これもある種の男の欲望か。秋夢は獨り者だからおまえを口説くかもしれないがいいのかと義雄がかけた鎌にお鳥が構わないと答えたのに対し義雄は「實は、僕も・・・今、誰れかひとり世話して呉れるものを探しているのです。――僕はあの妻子は大嫌ひで、――この家にゐてもゐないでもおんなじことなのだから、――どこか別に家を持たうと思つてるのです」と切り出す。「いツそのこと、どうです・・・僕の――方へ――來て――下さつたら?」「矢ツ張り、口説くかも知れませんよ」。お鳥は無言。こうして愛人契約が成立する。しかし、妻や子のいる家を出て別に家を持つつもりと言ったのは一種の方便にすぎない。義雄は同じ学校の教師をしている知人宅に6畳一間を借り、お鳥を住まわせ、通うだけである。お鳥は不満だが今さら後戻りできない。人から妾と見られることは本意でないが如何ともしがたい。
 お鳥は容姿に魅力のある女ではない。雪のように白い肌以外に義雄が特に惹きつけられるところがあるわけではない。加えて人品も上出来とはいいがたい。言葉使いもがさつである。はっきりいってガラが悪い。それを示す一節を次に引用。最初にその下女に世話しようかと義雄が言っていた小説家の秋夢が二人の所を訪ねて来たときの様子。〈主客が電氣のもとで、涼しい夜かぜを浴びながら、寢ころんでうち解けた話しをしてゐると、かの女も投げ出した足を時々ばたばたさせて、聴いてゐた。「友人には、誰れが來ても、餘り失敬なことをして呉れるなよ。」義雄は秋夢が歸つた跡でお鳥をたしなめると、かの女は顏をふくらして、だらりと横になり、「あんな奴に何で遠慮してやるものか? 人の顏をじろじろ見て、さ。」「そりやア、初めてのことだから、さ。」「初めてダツていけ好かない!」「然し・・・お前はそれでも行くつもりであつたぢアないか?」「そりゃ別な目的があつたから、さ。」かの女は案外感じの薄い笑ひを見せて、「學校へさへやつて呉れるなら、何もあいつやお前に限つたわけではない。」「ぢやア・・・まだしもおれの方がよかつたのか?」・・・「知らん、知らん!・・・そんなおぢイさんなどいやなこツた――まだしも、あいつの方が氣が利いてる。」〉。お鳥自身は自分が美人だと思いこんでいるようである。ある時は「お前のような貧乏なおぢイさんには、あたいのこの顏に免じても、惜し過ぎる」などと言い、言われた義雄は〈吹き出してみたいほどをかしくなつた」。彼の友人の画家曰く「あいつ馬鹿だぜ――少し足りない」。
 こんなお鳥にしかし義雄はけっこう執着する。〈お鳥の眞ツ白な肌の匂ひに接している間は、かの女の気儘も缼點もいやなところも、すべて忘れることが出來るのである〉。そして、彼女の身持ちがよくないのではないかと疑り、さかんに嫉妬する。自分より先に弟と関係していたのではないかとか、千代子の話していたように妻子持ちの男をだましたのではないかとか、二人で鹽山温泉に逗留したときに同宿していた職工頭に気があるのではないかとか、別れた紀州の元夫とひそかに連絡を取っているのではないかなど。これらはあくまで義雄の疑心暗鬼であって、事実であるという裏付けはない。しかし事実であるかどうかはどうでもよく、義雄がそのように疑り嫉妬しているという点こそが重要である。そもそもお鳥を口説いたのも、友人の秋夢に彼女を渡してしまうのが惜しいと義雄がふいと考えたからであった。ルネ・ジラールの模倣欲望理論を持ち出すほどではないが、義雄はお鳥への執着を持続するために空想上の競争相手を必要としているのではないかと解釈してもあながち的外れではなさそうである。嫉妬あってこその執着。白い肌だけでは十分でない。
 さて、そんな二人の関係をもう少しドロドロしたもの、あるいは危ういものにする事態が発生する。義雄の性病(淋病らしい)がお鳥にうつるのである。〈「痛いの。」「どこが?」「・・・・」「えツ?」渠はかの女の無言なのが萬事を語ると思つた。あれだけ、これまで用心してかかつてゐたのに――! 渠はかの女の枕もとに坐わつたまま顏を反むけて、暫らく自分の三四ケ月以前までの苦しみと不愉快とを考へた〉。どのように用心したのかの説明はない。現代の小説ならそのあたりは詳しく記述するだろうが、明治時代にはその手の露悪趣味はなかった。それはともかくとして、医者通いも奏功せず、以後お鳥はずっとこの病気に悩まされる。「お前のせいだ、病気を直せ」と義雄を責めるのが彼女の口癖となる。義雄のほうも〈心は段々現在からお留守になつて、こんな事情のもとにあるお鳥のからだなどは、暗い物置のやうな小部屋にほうり込んで置けばいいやうな氣にもなつた〉。それでもお鳥の治療費は出さないわけにはいかない。精神的にも経済的にもお鳥を重荷と感じることが多くなる。〈労力に報いるだけの報酬が取れないやうな原稿などは書くのもいやになることがあると同時に、お鳥のやうな女にかかり合つてゐるのも馬鹿々々しい氣がする〉。それでも彼はお鳥のもとへ通わずにはいられない。肉体関係はもちろん沙汰止みではあるが。
 経済的な逼迫の度合いも増してきて、義雄は労多くして益少ない売文業に替わる金儲けを模索する。起業しようというわけである。蘭貢米〔らんぐんまい〕の輸入とか九州の無煙炭の販売とかが候補に挙がるが、最終的にたどり着いたのは樺太での蟹の缶詰製造である。父から相続した家を抵当に借金をして資本をこしらえ、樺太で缶詰職人をしているいとこと組もうというのである。しかしこんな思い付きみたいなことが成功するとは誰も考えない。すでにこの話は父親の存命中にも持ち出して、父親から相手にされなかったのである。今度も、妻の千代子をはじめとして周囲の誰もが冷たい目で見ている。読者の私たちも同様である。作品中では言及されていないが、時あたかも日露戦争の直後で南樺太が日本領となり、一獲千金を夢見る連中が樺太を目ざした時代だったのかもしれない。
 義雄が商売の相談相手に選んだのが小学校からの友人で加集泰助。〈いろんな社會へ首を突ツ込んで、口錢取りをしてゐる〉男である。義雄は彼を〈口さきばかり上手な男〉だが、〈いろんなことを實地に就いて調べて來て呉れるのが、調法だし、また、第二流、三流の實業家なら大抵の人を知つているから、いざと云ふ場合の橋渡しにはなりそうだ〉と考える。現代ならさしずめコンサルタントの端くれとでもいうところか。しかしこのコンサルタントはあまり商売の面では役立たず、むしろ義雄とお鳥のあいだに挟まって別の役割を果たすことになる。
 妻の千代子も義雄の浮気を放任しているわけではない。できてしまったものは仕方がないが、だからといってそれを甘受する法はない。彼女は夫の横暴に泣き寝入りするような弱い女ではない。夫を責めもするし、お鳥を面罵しもする。責められた義雄が千代子を気ちがいとか軌道を外れた人間などと呼んで自分を正当化しようとするのが滑稽だし(軌道を外れているのは彼のほう!)、慈悲で今まで離婚せずにきてやったのだと居直るのも噴飯ものだが、彼のほうにはとんでもない哲学があるのである。「わたしが附いてゐなけりやア、あなたのやうな向ふ見ずは立つて行かれなかつたんです!」と千代子に言われて彼が持ち出した理屈は以下のよう。「おれの向ふ見ずは・・・一般人のやうな無自覚ではない」「身づから許して自己の光輝ある力を暗黑界のどん底までも擴張する・・・」「人間の光明界と暗黑界、云ひ換へれば、霊と肉とは自我實現に由つて合致される・・・」。何を言うてんのやら田村義雄(岩野泡鳴)。常人には理解不可能。
 お鳥も千代子を義雄と同じように気ちがいとか婆々アとかと悪し様に呼び捨てにして敵対感情を露骨に示すし、面と向かって罵倒されれば負けずに言い返す。しかしやはり心は打撃を受けるのである。千代子が義雄を詰問すべく彼女の所までやって来たおりにお鳥へも非難の矛先を向けたのは当然のこと。「あなたもあなたでせう、うちが困るぐらゐのことは氣が付かないことアないだろう!」「自業自得で因業な病気にかかつて、さ、入らないおかねまでつかはせたんですよ!――その衣物〔きもの〕だツて、拵へて貰つたんだろう!・・・圍ひ者氣取りで、三味線など弾いて!」。お鳥はこんなことを言われたくらいでへこむような女ではないが、ちょうど心が折れる限度にさしかかっていたのだろう。千代子が帰った後で早くあの女を追い出せと義雄に迫るが、例によって法律が許さないなどと言い訳する義雄を置いて外へ出て行き、近くの山で首を吊ろうとするのである。たまたま義雄がやって来て未遂に終わる。本気かどうか義雄は疑うが真偽は不明。
 自殺未遂以後もお鳥の病気は治る気配を見せないし、本妻にしろとせっついてもその気のない義雄は聞く耳をもたない。「もう、別れさせて貰ふ」「あたいが紀州を出て來たのが惡かったんや」とは言うものの具体的な方策があるわけではない。神経も過敏になり、ひどい風邪で寝込んだときには熱にうなされて夢に母親を呼んだり、突然身を起こして「畜生! 殺すぞ」と叫んだりすることもあった。殺したい相手は義雄だったのか。多分そうだろう。そしてとうとう、義雄の枕元で出刃包丁を手にするという事態が発生する。ただし、〈蒲団がめくられたかと思ふと、やがてひイやりした物が軽く、義雄の左から右の方へ、その喉の上を横ぎつた。・・・するりと顏をかの女の方から遠ざけて起き上り、「なによウする!」 「殺してやる! 殺してやる」 その時は、もう、出刃は義雄の手に在つた。そして暫く、二人は無言で、睨み合つてゐた〉ということで、これ以上の刃傷沙汰に発展することはなかった。この描写からはお鳥がどこまで本気であったかの判別は難しいが、少なくともその瞬間には義雄を殺したいと思うまでに憎悪が高まっていたということだけは確かだろう。
 今や樺太での蟹缶詰事業が最大の関心事になっている義雄は商業学校の教師も辞め、夏が来れば樺太へ出かけるつもりでいる。追加の資金が必要となり、その相談で加集と会うことが頻繁になっていて、会うのはお鳥の所である。加集は義雄が留守のときにもやって来るようになり、義雄はお鳥と加集の仲を疑いだす。「けふも、おれの留守に來やアがつたと云ふ加集の奴、たうとう物にしたのぢやアないか?」。そしてなんと、壁に描いた悪魔が姿をみせるのである。お鳥と加集が男女の関係になる。しかし実はこれは義雄にとって悪いことではない。樺太に行ってしまえばお鳥を厄介払いできると考えていた彼にすれば好機会が向こうからやって来てくれたようなもの。こうなれば、別れる条件として病気が治るまでの治療には責任を持つと一旦は約束していたのも反故にしてかまわない。お鳥を加集に押し付けてしまえば自分は責任のない自由の身となって樺太で存分に蟹の事業に邁進できる。出刃包丁騒ぎの翌朝、義雄は二度と戻らないと心に決めてお鳥の下を立ち去る。ではこうしてお鳥を捨てたのかといえば、話はそれほど簡単には進まない。彼はお鳥にまだ未練があるし、加集に嫉妬するしで、加集の下宿やお鳥の所にノコノコ出かけて行ってはグダグダやる。お鳥を加集に押し付けようとしているのか取り戻そうとしているのかよく分からない。お鳥をさっさと捨てることのできない義雄って意外と誠実なのかもしれない。いや、そんなことはないか。
 義雄と加集の間で板挟みとなったお鳥がとった行動は何か。自殺である。紀州で医者をしている兄の所で手に入れたというアヒサンを彼女は所持していたのだが、それを飲む。早く発見され、医者が下剤をほどこし、助かる。これで2度目の自殺未遂。回復したお鳥と義雄は結局よりを戻す。義雄は彼女をかつての約束通り学校に入れてやり(ただし予定変更して裁縫学校ではなく写真学校)、3カ月分の生活費を渡して自分は樺太へと向かう。
 以上、「泡鳴五部作」の最初の2作『發展』『毒藥を飲む女』の中心をなす義雄とお鳥の物語の概要を私の解釈感想を交えながら紹介してみた。『放浪』以下の作品については(その2)で取り上げたい。