「泡鳴五部作」(その2)

 前回の「泡鳴五部作」(その1)では1作目『發展』2作目『毒藥を飲む女』を取り上げた。今回はその続きとして3作目『放浪』4作目『斷橋』5作目『憑き物』を取り上げる。
 『毒藥を飲む女』は田村義雄が上野駅を出て樺太へ向かうところで終わった。そして『放浪』は次のように始まる。〈樺太で自分の力に餘る不慣れな事業をして、その着手前に友人どもから危ぶまれた通り、まんまと失敗し、殆ど文なしの身になつて、逃げるが如くこそこそと北海道まで歸つて來た田村義雄だ〉。やっぱりね。義雄に金儲けができるはずがないのは本人以外の誰もが知っている。彼が東京を発って樺太に向ったのが明治42年6月2日。そして今8月16日。樺太で何があったのかの仔細は語られない。札幌まで戻って来た彼は知人宅に食客として転がり込む。最初に訪れた有馬勇はかつて東京で同じ学校に通っていた同級生で、また一時期同じ学校で同僚の教師でもあった。現在は札幌の女学校で国語漢文教師をしている。彼の所にまず一泊し、翌日、もう一人の知人である島田氷峰を訪ねる。この男は元歌人で今は経済雑誌の発刊を準備中である。独身の身で、妻子持ちの有馬よりも気楽に居候ができるというので、義雄はさっそくこちらに尻を据える。その後、氷峰が間借り住まいをするようになるとそこにはいられず、結局また有馬の家に厄介になる。
 氷峰をつうじて新聞関係の人間のあいだに幾人かの知己を得る。また、東京の著名文学者であるというので歓迎会を開いてもらい、その席で新聞記者や道会議員などと顔見知りにもなる。ただし当時の、しかも札幌の新聞を現代の大規模なジャーナリズムと同じようなものと考えてはいけない。当時の札幌の人口は作品中の言及では6万人、統計データを調べると7万人となっていて、現在の二百万都市とは比較にならない小さな町である。そこで発行される新聞や雑誌はマスコミ誌などではなくてミニコミ誌に近いのではなかったか。ゴシップやスキャンダルをも取り上げるのはあたりまえで(この点は東京の新聞も大同小異であったようだが)、新聞記者といってもうさんくさい人種であるし、資金の出所も怪しいし、創刊、休刊、廃刊も日常茶飯事である、といったことが、この小説のところどころから読み取れる。たとえば、北星という週刊新聞を発行している記者である高見呑牛はかつて恐喝罪で懲役も食らった男。北海新聞の菅野雪影という男は〈自分の機關を利用して恐喝的手段を弄することが甚しく、呑牛二世と云はれてゐる〉。以前氷峰が務めていた北辰新報という新聞は北海メールという新聞との競争に敗れ、資力尽きて廃刊してしまい、その社長兼主筆であった物集北劍は今では昼間から飲んだくれている。氷峰の始めた経済雑誌も創刊号(9月)は好評を得たが、資金繰りがうまく行かず、第2号(10月)はなんとか出したものの第3号は出せる目途が立たない。そして、北星は休刊になり、北海新聞も廃刊になる。
 義雄が札幌で付き合うのは上のような文士崩れかなにか素性のはっきりしない新聞記者が中心であるが、なかには種類の違う人間も少数いる。そのひとりが樺太で知り合い、同じ船で北海道へ戻って来た松田という男で、番屋の親方だとか。番屋で思い出すのは北原ミレイがうたった「石狩挽歌」。〈海猫(ごめ)が鳴くからニシンが来ると赤い筒袖(つっぽ)のやん衆がさわぐ/雪に埋もれた番屋の隅でわたしゃ夜通し飯を炊く〉(なかにし礼作詞)。この歌は冬のニシン漁をうたっているが、蟹をとるために漁師の寝泊まりする番屋が夏の樺太にもあったのだろう。松田は漁師の元締めでお大尽。この松田から経済的援助を得られれば蟹缶詰の事業も立て直せると義雄は期待していたのだが、断られる。当たり前である。どこの馬の骨とも分からない男(東京の文士などそんなもんだろう)を〈毎年三十萬内外の資本を運轉して、汽船の所有もある漁業家〉が相手にするわけがない。義雄の世間知らずは救いがたい。彼は他にも「事業」を思いつく。松田の会計主任をしている森本という男と共同で漁業に関する月刊誌の出版はまだしも、鱒箱や鑵入れ箱の製造、木材の切り出しと販売、牧草地経営、樺太バブル崩壊で大量に出現した空き家を安く買って北海道や内地に輸送して転売など、己の手に余ることばかり思いつく。しかも結構本気なのである。そしてすべてが見果てぬ夢。
 さて、お鳥のほうはどうなっているのか。義雄の樺太滞在中には彼女から経済的困窮や孤独を嘆き、送金を求め、恨みと罵倒を交えた手紙が何度か届いていた。義雄は一度だけ1円(!)を送金したきりで、あとは、ある新聞社に原稿を送ってあるのでその稿料を取りに行って、その金で樺太まで来いなどと無責任なことを書き送る。しかも義雄はお鳥が加集とまたくっついたのではないか、あるいは他に男ができたのではないかと疑ってもいるのである。もしそうなら他の女を見つけようなどと考えたりもする。よく分からない男である。それでもお鳥を完全に無視するわけではなく、札幌に来てから10円を送金する。これは氷峰が彼の計画している雑誌の出資者に話して都合をつけてくれたものである。お鳥からは「早く歸つて來て下さい。それでなければ、そちらへ行きます」と便りが届く。その後しばらくして、ある日突然「スグイクカネオクレ」との電報が届く。そんな金は義雄にはない。自身が東京へ帰ろうかという気持ちになっていた矢先でもあり、彼は少し待つようにと返事をする。
 義雄に可能な金を得る手段は文章を書いて売ることしかない。札幌滞在中、基本的に文無しであった彼も何度か東京の新聞社や出版社から原稿料を受け取ることがあって、一時的に懐中がうるおう。その金を彼は何に使ったか。一度だけは世話になっている有馬に渡したが、あとは遊郭通い。薄野遊郭で彼は敷島という遊女とねんごろになり、何日か彼女のもとに居続けることもある。薄野とは現在のすすきの。札幌屈指の繁華街すすきのの始まりは遊郭だったのである。それはさておき、敷島と義雄とのやりとりがなかなかおもしろい。遊郭を見たこともない私など、遊女と客との虚実ないまぜになった駆け引きとはこういうものであったかもしれないと思いつつ読んだ。遊女と客の付き合いは真実の恋愛ではなく、あくまでも恋愛遊戯なのだが、だからといって嘘ばかりでも成り立たない。嘘と誠の微妙な兼ね合いを泡鳴の筆はしっかりと描き出している。金の払えない客は居残りすなわち人質となって行燈部屋(昼、不要な行燈をしまう物置)に閉じ込められて金の届くのを待つとか、遊女と客の仲が深まる段階を初会(1日目)返し(2日目)なじみ(3日目)と呼ぶなどという遊郭の風俗も私はこの小説で初めて知った。
 敷島の所に幾晩も居続けるほどになった義雄は〈女に妻子のあることを話した。めかけ見た様なものがあることも話した。然しそんなものは一切忘れて、敷島を愛してゐるのである。女も亦その一身に關することはすべてうち明けてしまつた。函館の妓樓に勤めてゐる姉と二人で故鄕の病身な親を世話してゐることも、借金とては僅か百圓ばかり殘つていることも、みんな分つてしまつた。こちらは北海道を巡歷して歸つて來たら、きツと何か一つの事業を握れるだらうと思つてゐるから、その頃になつて、見受けをしてやり、都合によれば、來年は一緒に樺太へ行かうと受け合つた〉。
 家族やお鳥のことを一切忘れて遊女を愛していると思いこむことも、見受けを約束することも義雄の勝手であるし、この点で彼が自分を欺いているとも考えられない。しかし結局義雄の思いは例のごとく独り合点の迷妄でしかなく、具体策は何もない。東京では妻の千代子が下宿屋をしながら3人の子供を育てているというのが現実であるし、愛人のお鳥が彼からうつされた淋病に苦しみながら彼の帰りを待ちきれず、札幌へやって来るつもりでいるというのが現実である。そして、彼は事業なるものに失敗して樺太から尾羽うち枯らして札幌にたどり着いた身である。見受けもくそもないはず。この義雄の現実無視能力(あえて能力と呼ぶが)はある意味で驚嘆すべきものかもしれない。バカみたいだが。
 しかし義雄がどれほど刹那主義と心熱一体論と自己充實説(これらはすべて彼が自分の哲学に付けた名前)を信奉し、獨存自我説(これも同様)を強弁しようが、現実無視をいつまでも続けることはできない。お鳥がやって来るのである。遠藤という道會議員が北海道各地を視察するのに随行することになった義雄は出発の日に「イマタツアヲモリマテムカエニコイ」という電報を受け取り、「リヨコウチウヒトリデコイ」と返す。お鳥が来たらよろしく頼むと有馬に言いおいて旅行に出かける(このときの紀行文も挿入されているが、あまりおもしろくない)。2週間ほどして札幌に戻るとお鳥が有馬の所に来ている。4ヶ月半ぶりに再会した二人の会話は次のようにひどい始まり方をする。「また男に棄てられて來たのか?」「そんなことはどうでもよろしい、早く病気を直せ! 病気さへ直れば、もう、お前の世話などにならん」。有馬から義雄の遊郭通いを聞かされていたらしいお鳥に「賤業婦などに入れあげる金はあつても、わたしの方の約束は履行しないのですか?」と問い詰められた義雄は「おれが女を買つたのは、米の飯と同様、生活上の必要だ。おれは飯を喰はないでは生きてはゐられない」などととんでもない理屈をこねる。それに対するお鳥の科白は「助平だから」。言えてる。それにしても二人のやり取りに有馬夫妻は驚き呆れたことだろう。
 しかしとりあえず義雄はお鳥を入院させる。費用は遠藤に借りたか恵んでもらったのかよく分からない30円で賄う。〈會はないうちは・・・再び自分の胸に飛び込んで來ようとするのを早く見たくて、見たくてたまらなかつたが、いよいよ再會して見ると、ただ厄介物に取りつかれた様な氣にもなる〉。〈自分には今熱心という物がない。お鳥に對しては勿論、敷島に對してもさうだ〉。これが義雄の現在の心境。敷島にはお鳥の入院する直前に会いに行き、東京から妾が来ていて入院する、樺太の事業は失敗だから東京へ引き上げるより仕方がない、その妾は置き去りにするかもしれないがお前を受け出すという約束も取り消す、と告げる。これで敷島との別れは完了。今や札幌にいて自分にできることは何一つないということも自覚しているし、10月も下旬で寒さも増して来るしで、自己嫌悪の混じった帰京の思いはつのるばかり。さっさと独りで帰りたい。
 そんな折、伊藤博文ハルビンで暗殺されたとの報が届く。伊藤博文と田村義雄が何の関係があるのかと思いきや、それが、あるのである。義雄は〈自分の獨存自我説の生々的威力發展主義が確立する頃から、その一例として、日淸戰争にはまださうでもなかつたが、日露戰争には、その勝利を全くそれが自己その物の發展だと思つた。渠は一たび樺太の土を踏んで、一層この感を深くした。若しここ七八年のうちに、米國との戰争があらば、また一層の發展だと思つてゐる。・・・この思想を殆ど神託的に體現した歴史上の人物として、義雄は昔では豐太閤、現代では伊藤公を推稱してゐた。・・・藤公不斷の活動がある間は、義雄も自分の努力を軍事上、政治上にも實現してゐるとまで思つてゐた。公の死は、義雄に取りて、自己の一部をそがれたのである〉。義雄の論理は緻密さを欠くが、何を言いたいかは見当がつく。彼は自分の唱える獨存自我説の生々的威力發展主義が一個の人間としての自分だけでなく国家としての日本にもあてはまると考えているのである。彼が文章を書いたり愛人をこしらえたり缶詰事業をやったりするのと日本が日清日露の戦争をやって領土拡大を図るのとは同じ主義に基づいている。個人が自己を発展させることと国家が自己を拡張することに違いはない。〈渠が公を友人間に推稱するのは時代思想の權化であつて、而もそれが義雄自身に屬してゐると思ふからである。義雄も女もしくは女の幻影がなければその生活に元氣がないが、その元氣は性慾並びに生々慾が軍事、政治、實業、文藝などを合致したものであると信じてゐる〉。このずいぶん乱暴な理屈が義雄の理屈である。伊藤博文の派手な女性関係にも義雄は共感し、それを含めた伊藤全体を評価しているらしい。
 義雄が伊藤暗殺を知った場にたまたま居合わせた知人の浅井に頼まれて彼は浅井の勤める中学校で講演をすることになる。そしてこれがスキャンダルとなる。〈先づ伊藤公の略歴から初め、公を以つて現代の豐太閤と爲し、公と時代思想との關係を説き、わが國將來の戰争と發展との根本的性質に及び、歐米諸國の僞文明を排して實力を尊ぶ野蠻主義の必要を述べ、藤公の一缼點はその野蠻主義を押し通す勇氣に乏しかつたところにあり、また、豐太閤と同樣、心に餘裕、乃ち、ゆるみを生じたのが間違ひであつたと評し、生々、強烈、威力、悲痛、自己中心の刹那主義を説いて結論にした。渠にはそれが伊藤公を語るのでなく、自分を語るのであった〉。話しているうちに義雄は熱してきて講堂中を振動させるほどの大声を張り上げる。そして〈「豐太閤も、伊藤公も、現代の發展的思想に於いては全く僕に屬してゐるのだ――乃ち、僕自身の物である」と叫んだ時、・・・満堂の生徒は申し合はせた様に一齊にどツと笑つた。・・・渠はぱツたり演説を中止し、一堂を瞰みつけてゐたが、「おれは宇宙の帝王だ! 否、宇宙その物だ! 笑ふとはなんだ?」 どツとまた満堂の笑ひ〉。そりゃ、誰も笑いますよね。是非この演説を聞いてみたかったものである。
 笑いものになった2日後の10月28日に初雪が降る。義雄は自己の思想が間違っているとは考えないし、氷峰や呑牛がからかっても自分の正当性を主張するのみである。それでも挫折感はある。〈かう雪の降るまでまごまごしてゐた自分を、無見識だと身づから嘲けらざるを得ない〉。東京へ帰ろうという思いは強まる。〈兎に角、何とかして、自分だけが歸京したい。そして、どうせいつ直るか分からないお鳥と遠く別れてから、手紙の上のいい加減な相談で、かの女から逃げてしまはうと〉たくらんでいる。
 しかし天網恢恢疎にして漏らさず。氷峰が義雄に、帰る日は決まったのかと尋ねたのを聞きつけたお鳥は義雄の魂胆を知る。彼女は義雄をののしり大粒の涙を流す。そして言った科白が「死の! 一緒に死の!」であった。夜の街へさまよい出たお鳥の後からついて行きながら彼は「どこにしよう?」と訊かれたのに対し「豐平川の鐡橋がよかろう」と答える。しかしこの時点で彼は一緒に死ぬつもりはない。〈生きてゐて面倒な女が渠から無關係に遠ざかつて行くのを、これ幸いと、その死に場所まで案内するつもりである。途々〔みちみち〕考へて見ると、自分がかの女を棄てて逃げようとしたのも、自分の思想的生活に無關係になつて來たからである。それがおのれから逃げて呉れるのだ。これほど都合のいいことはない〉と都合のいいことを考えている。しかしまた途中では、〈死なうと云ふ者を案内して、それにおつき合ひをしなければならぬなら、その時自分も死なうと云ふ覺悟〉もきざしてくるのである。やがて二人は豐平川までやって来る。そこの橋は過日の洪水のため中ほどで切断され、崩れた向う側部分は川に落ち込んでいる。そこまで行って〈二人は、抱き合つて薄やみの中を落ちた。義雄はこの場に、自分の一生涯にあつたことをすべて今一度、一度期に、一閃光と輝やかせて見た。然しそれは下に落ちるまでの間のことで、――落ちて見ると、溺れる水もなかつた。怪我する岩石もなかつた。この冬中の寢雪として川床に積み重なつた雪のうへだ〉。なんとまあ、二人は雪の上に落ちて、怪我さえしなかったのである。
 この滑稽でもある心中未遂は糸を引くことはない。あっけないくらいである。二人は夜中の2時頃に義雄の下宿に帰り着くと、お鳥は寝床に入って熟睡し、義雄は机に向かって書きかけの論文「悲痛の哲理」の執筆を朝まで続ける。〈悲痛の哲理は乃ち生の哲學である。生の哲學を體現するものは、飽くまで、死を排斥する意思と努力とを持つてゐなければならない。渠はかう考へて、再び自分といふものを引き立てることが出來た〉。
 心中に失敗したのが11月3日夜のこと。その翌日4日には義雄は東京へ帰る決心を固め、旅費を工面しようと知人たちを訪ねるが、彼等もみんな素寒貧である。彼らのくれた餞別を入れても東京までの旅費には足りない。とりあえず知人のいる仙台までの3等切符2枚を手にして義雄とお鳥は6日に札幌を出発する。見送りに来たのは氷峰、呑牛、もう1人の新聞記者の3人で、有馬はやって来ない。義雄が札幌で一番世話になったのが有馬である。健全な生活人である彼は義雄の無計画で自堕落な生活にかねがね批判的であり、お鳥と別れて妻のもとに戻るよう促したりもしたのだが、義雄には馬耳東風。それどころか、家庭と仕事を大切にしている有馬の凡庸な生き方を軽蔑してさえいるのである。有馬は今までは迷惑しつつも穏やかに義雄を遇していたけれど、もうこれからは顔を見る必要もなくなった最後の最後となって堪忍袋の緒が切れる。「田村が自分の忠告を容れないのだから、東京の細君に對しても申しわけがない。もう友人でない」「あんな無謀な気儘者は北海道の雪に凍え死ぬくらいの目に逢うて見なければ、直らん」。これは、お鳥が有馬から聞いて義雄に伝えた最後の言葉である。
 札幌を発った義雄とお鳥は函館から青函連絡船で青森に向かう。お鳥は船酔いか何かで体調を崩す。青森から乗った満員の車中でも発熱したり嘔吐したりで回復しそうにない。義雄は意を決して盛岡で途中下車する。この地の大きな金物屋の息子で、かつて東京で商業学校の教師をしていたときに家で監督をしてやった(家で監督とあるのが下宿させたという意味かどうかは不分明)生徒に泣きつく。この元生徒の紹介でお鳥を病院へ入れることはできたが、借金は断られる。仙台までの切符はあるので、それで義雄は独り仙台へ向かう。そこで金策をし送金するからと告げられたお鳥は一人残ることを意外と素直に受け入れる。仙台の知人も借金の申し込みに応じるほどの余裕はない。それでも東京までの汽車賃とわずかの小遣いを恵んでくれ、義雄はかろうじて東京へたどり着くことができた。
 〈病氣を直してやるまで責任を持つと云ふ約束の外には、こちらは殆ど執着もなくなつて〉いるというのが札幌出発以来の義雄の一貫した気持である。彼は今、札幌から書きかけの原稿を持ち帰った「悲痛の哲理」を完成させて、その稿料でお鳥の治療代をまかない、そして別れるという算段でいる。ところが思いがけない「幸運」が舞い込み、彼は責任を免れる。盛岡から転送されて来た一通の電報「チチ、キウベウ、マサル、スグカヘレ」。発信は東京の小石川局。すなわち入院中のお鳥をマサルという男が東京から訪ねており、その家族から帰って来いという電報が打たれたが、お鳥もその男も病院にはもういないので、入院手続きをしてくれた義雄の元生徒に渡され、彼から義雄の所へ転送されて来たものである。お鳥は札幌にいるあいだにも2,3度義雄の知らない相手と手紙のやり取りをしており、義雄はその相手をお鳥が通っていた写真学校の教師か生徒だろうと憶測していたが深く追求することはしなかった。また彼女は「お前などの女房にならんでも、東京にはえい奥さんにしてやると云うて呉れる人がある」などと言っていたこともある。それが事実なら〈自分の責任からかの女が自然に離れて呉れるから結構だとも考えへてゐる〉義雄にとって渡りに船である。そして奥さんにするかどうかは別として、実際にマサルという男がいたのである。義雄の〈心はまたおだやかになつて、肩のおも荷をすツかりおろせたと云ふ氣であった〉。
 電報の翌日には、東京に戻って来て上野駅前の旅館にいるので来てほしいというお鳥の手紙が届く。「何をまだ云やアがるんだい!」。義雄はあの電報を封筒に入れてお鳥に送りつける。〈そして私〔ひそ〕かに無言の緣切り狀、最も安い手切金だと思つた〉。〈自分が舊い責任と云ふ責任をすべて果し得て新たに活動し初めるその勇ましい姿のかたわらに、お鳥が今の緣切り狀を受け取つてその大きな口・・・をぽかんとあけているのを空〔くう〕にゑがいて見詰めてゐた〉。これが「泡鳴五部作」の最後の文章である。金を出してもいないのに手切金云々はなかろうし、責任をすべて果し得て新たに活動し初めるその勇ましい姿などいうのも実にいい気なものだが、これが田村義雄という男なのである。そして岩野泡鳴という男なのである。大杉榮は泡鳴を偉大なる馬鹿と呼んだ。