去年、丸岡城に行ったのを思い出して

 今午前9時半。ここ大津坂本は雪が降っている。まだ積もってはいないし、降り積もるという降りっぷりでもない。ただし、この先どうなるかは不明。

 2,3日前から北陸では記録的な降雪に見舞われ、市街地や家屋の屋根に分厚く積もった雪、除雪に懸命に取り組む人たちの姿、いくら除雪してもきりがない、もう雪を捨てる場所がなくなったといった嘆きの声などが繰り返しテレビで放映されていた。そして、動けなくなった車の長蛇の列。北陸自動車道、特に丸岡ICと金津ICの間で多くの車が雪の中に閉じ込められていたが、それも昨11日深夜に解消し、現時点で立ち往生している車はないということなので、とりあえずはよかったということになるのか。

 ニュースで丸岡ICと金津ICの間と聞いて思い出したのは昨年訪れた丸岡城と朝倉氏遺跡。桜満開の4月上旬。丸岡城にはJR丸岡駅から徒歩で向かった。若い頃に運転免許は取ったが、ついに車を持つこともなく(幸い、車なしで不便なく生活できる所に住み続けられた)、ぺーパードライバーに終始し、今では免許証も返納している私が出かける際に頼れるのは公共交通手段と自分の足だけである。出発前に交通アプリで電車とバスの時刻を検索し、地図でおおよその見当をつけることが必須となっている。チェックの基本はまず電車やバスの本数、出発と到着の時刻、連絡の良しあし。何もない駅や停留所で1時間以上待つのは苦痛なので、これは避けたい。トイレのないバスに1時間以上乗り続けるのは無理。タクシーに頼らざるを得ない場合、料金が数千円を超えるのはなにか馬鹿らしい。歩く距離はせいぜい5キロ、1時間まで。出かけるのはこういった条件を満たす所だけということになり、いきおい候補地は限定されるが、それでも行ったことがなくて行ってみたい場所はまだまだ日本中にいっぱいあるので残念だとは思わない。関東から東北地方にかけてはそんな地方が山ほどあるが、近くの近畿や北陸、中国や四国にもたくさん残っている。そのひとつが福井県北部であった。

 京都と滋賀に隣接していて、距離的にも時間的にも近い県なのに意外と訪れることのない県。特急サンダーバードで金沢や富山に行く際の通過地でしかない福井。こうしたイメージは多分、京阪神の人たちに共通のものではないかしらと思う。しかしそれとは逆に、何かの調査で一番住みやすい都道府県の1位に選ばれたのも福井県であった。そんな調査結果に触発されたわけでもないのだが(あるいは触発されたかもしれない)、去年4月上旬、1泊2日で福井へ出かけた。まず福井駅近くで養浩館を訪れ、福井城跡の桜を楽しみ、JRで丸岡駅まで移動し、そこから丸岡城まで歩き出した。行く道の大部分は平坦地を走る自動車道路の脇に設けられた歩道であって、周囲も畑が中心で特に美しい風景ではない。私たち以外に歩いている人もなく、時々車が私たちを追い抜いていく。家内曰く「私ら、トボトボ歩いてて、馬鹿にされてるみたいな気がする」。そう言われてみればそんな気がしないでもない。そろそろ城の天守閣ぐらい見えてきてもよさそうなものだが見えない。途中で農作業中の人に教えられたとおりまっすぐ歩いて来たのだからこれでいいはず。とかく、未知の土地を歩くのに一抹の不安が伴うのはありがちなこと。城があるはずの丸岡の市街地に差し掛かっても天守閣は見えない。通りがかりの人に尋ね、あと5分くらいの道のりだと確認。教えられたとおりに曲がったら城が見えた。ちょうど5キロ、1時間を歩いた勘定。城は山城ではなく、周囲からわずか小高くなった土地に立っていて、これでは遠くから見えるはずもないと納得し、ともかく入場料を払って天守閣へ。この天守閣は現存する最古のものであるとかで、重要文化財に指定されている。明日からは新型コロナ対策で入場できなくなると決まったと入口で聞いた。松本城彦根城ほど大きな城ではないのですぐに上がってすぐに下りてきて、周囲をぐるっと回り、すぐ近くの「一筆啓上 日本一短い手紙の館」に入って、展示されている手紙を見たら、悲しいのもあって少し心を揺さぶられたりもした。宿をとっている休暇村越前三国へ行くバスの発車までは1時間以上待ち時間があったがゆったりとした気分で城と桜を眺めて過ごすことができ、退屈でも苦痛でもなかった。駐車場には結構たくさんの車が止まっていたが、大半が福井ナンバーで、ここは地元の人たちの花見スポットであるらしいと知れた。あの丸岡城も今は深い雪に埋もれているのであろう。再訪することがあるとすれば、やっぱり春だろうし、今度は5キロを歩くかどうか?

 

 

 

大文字山でトレーニング

 最近はスポーツに全く関心がなくなった。サッカーはもともと興味がなく、Jリーグ発足当時(いつだったか?)も、なぜみんなが騒ぐのか理解できなかった。プロ野球と大相撲、プロレスには子供の頃からそれなりに熱中もした。今は、それらを含めてテレビでスポーツ中継を見ることはめったにない。

 今日ネット上に、プロ野球中日ドラゴンズ大野雄大投手が新年恒例の大文字山での山道トレーニングをおこなったという記事があった。プロ野球のすべてについて完全に無知である最近の私としては、大野投手についても全く知識がなく、この人は京都の出身なのかな、それで大文字山で新年のトレーニングを始めることにしているのかというぐらいのことしか思わなかった(調べてみると京都外大西高佛教大学を経て中日入りとあった)。むしろこの記事で興味を持ったのは大文字山でトレーニングというくだり。大学時代の陸上部の合宿を思い出したのである。大学の農学部グラウンド内にある合宿所から大文字山は目と鼻の先。合宿中に一度か二度は朝一番に大文字山に登ることが恒例となっていた。グラウンドを出て白川疎水を経て、銀閣寺の左側から登山道に入り、大の字の真ん中にある祠までを走って往復。普段でも長距離や中距離の選手はよく登っていたようだが、投擲選手(と称するのもおこがましいダメな選手であったが)の私はしんどいのが大嫌いで、山道を走って上がるトレーニングなど絶対にしようと思わなかった。合宿の際にも登山道に差し掛かるやいなや最初の一歩から歩き出し、半分ほど登った所で走って下りてくるメンバーと出くわすというのがいつものこと。このパターンは一度も破ったことがない、と妙な自慢をしても仕方ないが、よくぞ自ら課した原則に忠実であったことか!

 陸上部の合宿は一年に3回か4回あっただろうか。このへんの記憶はあいまいだが、冬、春、夏の休暇には必ずあったはずだから、少なくとも3回はあったと考えられる。春に高知に行ったこともある。高知城の桜とともにこれはよく覚えている。桂浜でダッシュを繰り返すトレーニング。これはしんどいからといってさぼるわけにはいかなかったのだが、しまいにケツワレを起こした。ケツワレを今手元にある国語辞典で引いても載っていない。これはスポーツをやった人間だけが味わえる体験。ほんとうにお尻が割れるような苦しみであって、痛いと同時にこそばくもある奇妙な感覚(お尻が笑う)なのである。筋肉を極限の疲労にまで追い込まないと起きないのでふつうはそれ以前に倒れてしまうか運動を止めるかする。体験することが難しい理由はそこにある。もっともこんな事を体験しても仕方ないけれど。中距離選手が試合で800メートルや1500メートルをを走った後で倒れこむのはこれらしい。私がケツワレを体験したのは後にも先にもこの時だけ。

 合宿でもうひとつ思い出すことがある。それは、円谷幸吉の死。彼が自ら命を絶ったというニュースが正月合宿中に飛び込んできて、私たちに小さからぬ衝撃を与えた。東京オリンピックでメダルを取り、次のメキシコオリンピックでもメダルを狙える選手なんてただただすごい人としか思っていなかった私は、その時初めて、栄光と表裏一体になった苦悩というものの存在することを理解したと言えるかもしれない。幸いになれなかった幸吉が家族・親族の名を逐一挙げて感謝を述べた遺書は多くの人々の心に響き、私もひどく心を打たれた。今読んでも心を打たれる。

【追記】

今回は、ほんとうは、子供の頃のプロ野球、大相撲、プロレスの思い出を書こうとしていたのですが、陸上部の合宿の思い出に話が行ってしまいました。それらの話題はまた後日ということで。

 

 

 

 

2021年の年賀状

  この1年はほとんど生活に変化がなかったので2021年の年賀状は次の3つの文章を引用しただけになった。

(1)国家とは、すべての冷酷な怪物のうちもっとも冷酷なものである。・・・多数者をおとしいれるために罠をかけ、その罠を国家と称しているのは殲滅者たちである。彼らはその罠の上に一本の剣と百の欲望の餌をつるすのだ。・・・善と悪についてのことばの混乱。これこそ国家の目印である。

(2)寂しさに蔽われたこの国土の、ふかい霧のなかからぼくは生まれた。・・・東も西も海で囲まれて、這い出すすきもないこの国の人たちは、自らをとじこめ、この国こそまづ朝日のさす国と、信じこんだ。

(3)マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

 

 (1)はニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』から。「超人」に共感せず、「永劫回帰」を全く理解しない私がニーチェを引くなどとは、ご都合主義、便宜主義の誹りを免れないことは十分承知している。それに、ある所でいい事を言っているではないかと尻尾を振って近寄ってみると、ほかの所ではそれと反対のことを言っていて、こちらを足蹴にしてしまうこともよくあるのがニーチェ。とは思うが、それでも彼の国家批判や文明批判の激越な口調はなかなか魅力的。ついつい借用したくなる。それを大々的にやったのがナチスということになろうか。

 上の国家批判の矛先は直接にはビスマルク率いるプロイセンに向けられつつ、近代国家一般にも向けられたものであろうが、現在の日本にもあてはまるだろう。とりわけ「善と悪についてのことばの混乱」という点。

 (2)は金子光晴の『寂しさの歌』から。この詩には上に引いたニーチェの一節がプロローグとして掲げられている。正確には「国家はすべての冷酷な怪物のうち、もっとも冷酷なものとおもはれる。それは冷たい顔で欺く。欺瞞はその口から這い出る。〈我国家は民衆であると〉」。金子はこの詩において「寂しさ」という一語のなかに日本の風土、風俗、生活、心情などのすべてを凝集させている。「寂しさこそこの国土着の悲しい宿命」であり、それは近代化された今の時代まで変わらず続いており、貧困、無知、あきらめ、卑屈と一体となり、遂に戦争へと至ったというのである。そこに彼が見るのは「国をかたむけた民族の運命のこれほどさしせまった、ふかい寂しさ」である。しかし、そこで話は終わらない。末尾に「昭和二〇・五・五 端午の日」と日付を明示されたこの長い詩は「僕がいま、ほんたうに寂しがっている寂しさは、・・・寂しさの根元をがつきとつきとめようとして、世界といつしよに歩いてゐるたった一人の意欲も僕のまはりに感じられない、そのことだ。そのことだけなのだ」という決定的な失意の語句で閉じられている。

 (3)は寺山修司のおそらくもっとも人口に膾炙した短歌。山口瞳もどこかでこの歌に触れていたと思う。寺山の歌集を読んだことのない人でも山口の本を読んでいる人ならこの歌を知っているかもしれない。同じような可能性がほかにもあるはず。それはさておき、寺山修司は演劇以外の世界においても芝居をした人であった。短歌も例外ではない。自身の生活や体験、心情からうたうのではなく、虚構の世界をうたうのである。そして、虚構の構築のために都合のよい表現を既にある作品から借りてくるということをよくやった。すでにある作品の中には自分のもあるが、他人のもあった。自分のならかまわないが、他人の作品となると当然盗作や剽窃が問題とならざるを得ない。「マッチ擦る」の歌も次の3つの俳句を合成したものであるという指摘がなされた。西東三鬼「夜の湖あゝ白い手に燐寸の火」、富澤赤黄男「一本のマッチをすれば湖は霧」「めつむれば祖国は蒼き海の上」。なるほど、材料はほぼ同じである。寺山がこれらを参考にしたことは間違いなかろう。だけど、やっぱり違う、盗作でも剽窃でもない、というのが私の感想。寺山の歌から受ける印象はこれら3つの俳句のそれとは全く違う。海辺か船上かわからないが深い霧のなかで一瞬燃え上がり消えゆくマッチの炎のイメージを「身捨つるほどの祖国」に結びつけたところが寺山の独創。立派な創作というべきだろう。

 と、ここまで書いてきて一つの事に思い至る。ひょっとして寺山は金子の「寂しさの歌」を読んでいたのではないか、と。「国土」「ふかい霧」といった表面上の相似があるからというのではなく、自分の生まれた国を祖国として愛することができるのか、寂しさに蔽われた祖国を愛するとはどういうことなのか、といった問題が両者を結び付けているように思えてならない。

 

【上のこととは無関係な追記】

以前このブログのタイトルを「比叡山坂本徒然草」としましたが、それを短くして語呂も4・4・4となる「叡山坂本つれづれ」と変更します。

ここまで読んでいただいた方々(いらっしゃるのかな?)におかれましてはよき新年をお迎えください。

 

 

首相の会食相手

 12月14日の菅首相の会食。政府の呼びかけに政府トップが自ら反する行動をとり、いろいろ見苦しく言い訳している点はさておいて(さっさと謝ったほうがすっきりするのにね)、ちょっと気になるのは、会食の出席者である。王貞治みのもんた杉良太郎という名前が報道されている。

 誰が誰と一緒に飯を食おうが自由である。法や公序良俗に反するわけでもないし、外野から非難するべき筋合いのものでもない。でもやっぱり何か引っかかる。総理大臣はこの人たちと何のために会食するのだろう。まさか政治的な話をするわけではないだろう。むしろ夜ぐらいは政治を離れて気の置けない人たちと一緒に晩飯を食ってリラックスするためなのか。多分そういうことなのだろう。ではその人選の基準は?菅首相を含めたこの人たちが仲良しグループであるとは考えにくい。なんでこの人たちなのか、やはりよく分からない。政治的な話をするわけでないにしても、人選には政治的配慮が働いているはずだと私などは下種の勘繰りをしてしまう。そして他の二人はともかく、王さんが首相と一緒に飯を食ってる場面を想像するのはあまり楽しいことではありません。

 首相の会食に関連しては、12月16日に日本料理店で横浜銀行の頭取と、フランス料理店でメディア関係者3人と懇談したが、4人以下の会食に徹した、と併せて報道されている。本当はこちらのほうが大問題。メディア関係者との会食は安倍前首相もさかんにやっていた。でも新聞紙上で権力とメディアの癒着ではないかと問題視されることはなかった。だって新聞自身が張本人だもの。菅首相に替わってどうするのかと注目していたが、やはり安倍政権の継承を標榜するだけあってメディアとの親密な関係構築重視にも変更はなさそうである。メディアに携わる人々、首相とお友達になることを変だと思わないのかな。

エビデンス

 菅首相が12月14日に多人数で会食したことを追及され、「国民の誤解を招くという意味においては、真摯に反省している」と述べたのに対しては、多くの人がツイッターなどで「国民は誤解していません、ちゃんと理解しています」と盛んに突っ込みを入れている。「誤解」の悪質かつ稚拙な政治的誤用・乱用についてここで改めて指摘するまでもなかろう。

 同時に西村経済再生担当相の「一律に5人以上は駄目だと申し上げているわけではない」「専門家が何かエビデンスがあって何人以上と言っているわけではない」という弁明も突っ込みどころ満載(4人以上の会食は控えてって誰が言っていたっけ?!)で、嘲笑的批判殺到である。西村大臣は自分の発言がどんな反応を招くか分かっていなかったのだろうか。それほど鈍感な人なのか。それとも百を承知で言ったのか。とかく政治家の真意は分かりにくい。

 ところで、この「エビデンス」という語だけれど、なぜ「証拠」「根拠」と言わないのか。「専門家が何か根拠があって何人以上と言っているわけではない」と言ってはいけないのか。両者の意味は同じでも、聞いた瞬間の理解しやすさは「根拠」のほうが大きいから、というのが私の語感による推測である。すぐに「何人以上でクラスター発生の危険が増すかは専門的に証明されているわけではない」という意味に読み取れる。西村大臣はそのように(正しく)理解されることからわずかでもいいから距離を置きたかったのではなかろうか。たとえ無意識的にせよ。そして「エビデンス」を選んだ、というのではないだろうか。そう言えば、菅首相も、GO TO TRAVELは、これによって新型コロナ感染拡大があるというエビデンスはないから止めることは考えていないとか何とか言っていましたね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ソーシャル・ディスタンス?

新型コロナウイルス対策としてソーシャル・ディスタンスが言われ続けているけれど、この言い方って何かおかしいと以前から思っていた。社会的距離というと何か人間が社会生活を営む上でさまざまに取り結んでいる関係における距離、例えば社会階層、地域社会、親族関係などに関する生活上のあるいは心理的な距離の取り方が問題になるのではないか、今言われているのは単に身体的距離を保とうということなのだからフィジカル・ディスタンスというべきではないか。そんなことを考えていたら、実はそんなことは既に指摘されていたことを最近ようやく知った。なんとWHOがフィジカル・ディスタンスという用語を推奨しているとして、小郡市なんかはこちらを使うことを明言している。(同市のホームページ参照) おおいに納得できるではないか。でも、メディアなんかでは依然としてソーシャル・ディスタンスという語が当然のこととして使われている。なんで?

 

三回忌、母親の納骨

ブログを比叡山坂本徒然草命名。ちょっと、カッコつけ過ぎかも。

一昨日は2年前に亡くなった母の三回忌法要。その機会に、これまで家に置いてあった遺骨を大谷本廟の祖壇に納骨。東京世田谷には我が家の家名を名乗った墓があって、50年以上昔に亡くなった父親の骨はそこと大谷本廟に分骨してあり、私もごくたまに東京に行く折には墓参りをする。しかし、この墓をめぐる親族関係が私には不明で、というか父親の親族関係自体が不明であり、確かなのは私がこの墓の主たる守り手でないということだけ。それに、母もその墓には入りたくないという意向を生前はっきりと示していたので、今回の祖壇入りとなった。新しく墓を京都か滋賀にでも建てることも考えないわけではなかったが、私たち夫婦には孫は女の子が一人いるきりなので、じきに無縁仏になることは明らか。葬られる側としても、参る人の途絶えた墓に取り残されるより、大勢と一緒に葬られ、無差別ではあれ大勢の人がお参りしてくれる所で眠るのは本望なのではないか。そんなことを考えた。私もそこへ入るつもり。