「泡鳴五部作」(その2)

 前回の「泡鳴五部作」(その1)では1作目『發展』2作目『毒藥を飲む女』を取り上げた。今回はその続きとして3作目『放浪』4作目『斷橋』5作目『憑き物』を取り上げる。
 『毒藥を飲む女』は田村義雄が上野駅を出て樺太へ向かうところで終わった。そして『放浪』は次のように始まる。〈樺太で自分の力に餘る不慣れな事業をして、その着手前に友人どもから危ぶまれた通り、まんまと失敗し、殆ど文なしの身になつて、逃げるが如くこそこそと北海道まで歸つて來た田村義雄だ〉。やっぱりね。義雄に金儲けができるはずがないのは本人以外の誰もが知っている。彼が東京を発って樺太に向ったのが明治42年6月2日。そして今8月16日。樺太で何があったのかの仔細は語られない。札幌まで戻って来た彼は知人宅に食客として転がり込む。最初に訪れた有馬勇はかつて東京で同じ学校に通っていた同級生で、また一時期同じ学校で同僚の教師でもあった。現在は札幌の女学校で国語漢文教師をしている。彼の所にまず一泊し、翌日、もう一人の知人である島田氷峰を訪ねる。この男は元歌人で今は経済雑誌の発刊を準備中である。独身の身で、妻子持ちの有馬よりも気楽に居候ができるというので、義雄はさっそくこちらに尻を据える。その後、氷峰が間借り住まいをするようになるとそこにはいられず、結局また有馬の家に厄介になる。
 氷峰をつうじて新聞関係の人間のあいだに幾人かの知己を得る。また、東京の著名文学者であるというので歓迎会を開いてもらい、その席で新聞記者や道会議員などと顔見知りにもなる。ただし当時の、しかも札幌の新聞を現代の大規模なジャーナリズムと同じようなものと考えてはいけない。当時の札幌の人口は作品中の言及では6万人、統計データを調べると7万人となっていて、現在の二百万都市とは比較にならない小さな町である。そこで発行される新聞や雑誌はマスコミ誌などではなくてミニコミ誌に近いのではなかったか。ゴシップやスキャンダルをも取り上げるのはあたりまえで(この点は東京の新聞も大同小異であったようだが)、新聞記者といってもうさんくさい人種であるし、資金の出所も怪しいし、創刊、休刊、廃刊も日常茶飯事である、といったことが、この小説のところどころから読み取れる。たとえば、北星という週刊新聞を発行している記者である高見呑牛はかつて恐喝罪で懲役も食らった男。北海新聞の菅野雪影という男は〈自分の機關を利用して恐喝的手段を弄することが甚しく、呑牛二世と云はれてゐる〉。以前氷峰が務めていた北辰新報という新聞は北海メールという新聞との競争に敗れ、資力尽きて廃刊してしまい、その社長兼主筆であった物集北劍は今では昼間から飲んだくれている。氷峰の始めた経済雑誌も創刊号(9月)は好評を得たが、資金繰りがうまく行かず、第2号(10月)はなんとか出したものの第3号は出せる目途が立たない。そして、北星は休刊になり、北海新聞も廃刊になる。
 義雄が札幌で付き合うのは上のような文士崩れかなにか素性のはっきりしない新聞記者が中心であるが、なかには種類の違う人間も少数いる。そのひとりが樺太で知り合い、同じ船で北海道へ戻って来た松田という男で、番屋の親方だとか。番屋で思い出すのは北原ミレイがうたった「石狩挽歌」。〈海猫(ごめ)が鳴くからニシンが来ると赤い筒袖(つっぽ)のやん衆がさわぐ/雪に埋もれた番屋の隅でわたしゃ夜通し飯を炊く〉(なかにし礼作詞)。この歌は冬のニシン漁をうたっているが、蟹をとるために漁師の寝泊まりする番屋が夏の樺太にもあったのだろう。松田は漁師の元締めでお大尽。この松田から経済的援助を得られれば蟹缶詰の事業も立て直せると義雄は期待していたのだが、断られる。当たり前である。どこの馬の骨とも分からない男(東京の文士などそんなもんだろう)を〈毎年三十萬内外の資本を運轉して、汽船の所有もある漁業家〉が相手にするわけがない。義雄の世間知らずは救いがたい。彼は他にも「事業」を思いつく。松田の会計主任をしている森本という男と共同で漁業に関する月刊誌の出版はまだしも、鱒箱や鑵入れ箱の製造、木材の切り出しと販売、牧草地経営、樺太バブル崩壊で大量に出現した空き家を安く買って北海道や内地に輸送して転売など、己の手に余ることばかり思いつく。しかも結構本気なのである。そしてすべてが見果てぬ夢。
 さて、お鳥のほうはどうなっているのか。義雄の樺太滞在中には彼女から経済的困窮や孤独を嘆き、送金を求め、恨みと罵倒を交えた手紙が何度か届いていた。義雄は一度だけ1円(!)を送金したきりで、あとは、ある新聞社に原稿を送ってあるのでその稿料を取りに行って、その金で樺太まで来いなどと無責任なことを書き送る。しかも義雄はお鳥が加集とまたくっついたのではないか、あるいは他に男ができたのではないかと疑ってもいるのである。もしそうなら他の女を見つけようなどと考えたりもする。よく分からない男である。それでもお鳥を完全に無視するわけではなく、札幌に来てから10円を送金する。これは氷峰が彼の計画している雑誌の出資者に話して都合をつけてくれたものである。お鳥からは「早く歸つて來て下さい。それでなければ、そちらへ行きます」と便りが届く。その後しばらくして、ある日突然「スグイクカネオクレ」との電報が届く。そんな金は義雄にはない。自身が東京へ帰ろうかという気持ちになっていた矢先でもあり、彼は少し待つようにと返事をする。
 義雄に可能な金を得る手段は文章を書いて売ることしかない。札幌滞在中、基本的に文無しであった彼も何度か東京の新聞社や出版社から原稿料を受け取ることがあって、一時的に懐中がうるおう。その金を彼は何に使ったか。一度だけは世話になっている有馬に渡したが、あとは遊郭通い。薄野遊郭で彼は敷島という遊女とねんごろになり、何日か彼女のもとに居続けることもある。薄野とは現在のすすきの。札幌屈指の繁華街すすきのの始まりは遊郭だったのである。それはさておき、敷島と義雄とのやりとりがなかなかおもしろい。遊郭を見たこともない私など、遊女と客との虚実ないまぜになった駆け引きとはこういうものであったかもしれないと思いつつ読んだ。遊女と客の付き合いは真実の恋愛ではなく、あくまでも恋愛遊戯なのだが、だからといって嘘ばかりでも成り立たない。嘘と誠の微妙な兼ね合いを泡鳴の筆はしっかりと描き出している。金の払えない客は居残りすなわち人質となって行燈部屋(昼、不要な行燈をしまう物置)に閉じ込められて金の届くのを待つとか、遊女と客の仲が深まる段階を初会(1日目)返し(2日目)なじみ(3日目)と呼ぶなどという遊郭の風俗も私はこの小説で初めて知った。
 敷島の所に幾晩も居続けるほどになった義雄は〈女に妻子のあることを話した。めかけ見た様なものがあることも話した。然しそんなものは一切忘れて、敷島を愛してゐるのである。女も亦その一身に關することはすべてうち明けてしまつた。函館の妓樓に勤めてゐる姉と二人で故鄕の病身な親を世話してゐることも、借金とては僅か百圓ばかり殘つていることも、みんな分つてしまつた。こちらは北海道を巡歷して歸つて來たら、きツと何か一つの事業を握れるだらうと思つてゐるから、その頃になつて、見受けをしてやり、都合によれば、來年は一緒に樺太へ行かうと受け合つた〉。
 家族やお鳥のことを一切忘れて遊女を愛していると思いこむことも、見受けを約束することも義雄の勝手であるし、この点で彼が自分を欺いているとも考えられない。しかし結局義雄の思いは例のごとく独り合点の迷妄でしかなく、具体策は何もない。東京では妻の千代子が下宿屋をしながら3人の子供を育てているというのが現実であるし、愛人のお鳥が彼からうつされた淋病に苦しみながら彼の帰りを待ちきれず、札幌へやって来るつもりでいるというのが現実である。そして、彼は事業なるものに失敗して樺太から尾羽うち枯らして札幌にたどり着いた身である。見受けもくそもないはず。この義雄の現実無視能力(あえて能力と呼ぶが)はある意味で驚嘆すべきものかもしれない。バカみたいだが。
 しかし義雄がどれほど刹那主義と心熱一体論と自己充實説(これらはすべて彼が自分の哲学に付けた名前)を信奉し、獨存自我説(これも同様)を強弁しようが、現実無視をいつまでも続けることはできない。お鳥がやって来るのである。遠藤という道會議員が北海道各地を視察するのに随行することになった義雄は出発の日に「イマタツアヲモリマテムカエニコイ」という電報を受け取り、「リヨコウチウヒトリデコイ」と返す。お鳥が来たらよろしく頼むと有馬に言いおいて旅行に出かける(このときの紀行文も挿入されているが、あまりおもしろくない)。2週間ほどして札幌に戻るとお鳥が有馬の所に来ている。4ヶ月半ぶりに再会した二人の会話は次のようにひどい始まり方をする。「また男に棄てられて來たのか?」「そんなことはどうでもよろしい、早く病気を直せ! 病気さへ直れば、もう、お前の世話などにならん」。有馬から義雄の遊郭通いを聞かされていたらしいお鳥に「賤業婦などに入れあげる金はあつても、わたしの方の約束は履行しないのですか?」と問い詰められた義雄は「おれが女を買つたのは、米の飯と同様、生活上の必要だ。おれは飯を喰はないでは生きてはゐられない」などととんでもない理屈をこねる。それに対するお鳥の科白は「助平だから」。言えてる。それにしても二人のやり取りに有馬夫妻は驚き呆れたことだろう。
 しかしとりあえず義雄はお鳥を入院させる。費用は遠藤に借りたか恵んでもらったのかよく分からない30円で賄う。〈會はないうちは・・・再び自分の胸に飛び込んで來ようとするのを早く見たくて、見たくてたまらなかつたが、いよいよ再會して見ると、ただ厄介物に取りつかれた様な氣にもなる〉。〈自分には今熱心という物がない。お鳥に對しては勿論、敷島に對してもさうだ〉。これが義雄の現在の心境。敷島にはお鳥の入院する直前に会いに行き、東京から妾が来ていて入院する、樺太の事業は失敗だから東京へ引き上げるより仕方がない、その妾は置き去りにするかもしれないがお前を受け出すという約束も取り消す、と告げる。これで敷島との別れは完了。今や札幌にいて自分にできることは何一つないということも自覚しているし、10月も下旬で寒さも増して来るしで、自己嫌悪の混じった帰京の思いはつのるばかり。さっさと独りで帰りたい。
 そんな折、伊藤博文ハルビンで暗殺されたとの報が届く。伊藤博文と田村義雄が何の関係があるのかと思いきや、それが、あるのである。義雄は〈自分の獨存自我説の生々的威力發展主義が確立する頃から、その一例として、日淸戰争にはまださうでもなかつたが、日露戰争には、その勝利を全くそれが自己その物の發展だと思つた。渠は一たび樺太の土を踏んで、一層この感を深くした。若しここ七八年のうちに、米國との戰争があらば、また一層の發展だと思つてゐる。・・・この思想を殆ど神託的に體現した歴史上の人物として、義雄は昔では豐太閤、現代では伊藤公を推稱してゐた。・・・藤公不斷の活動がある間は、義雄も自分の努力を軍事上、政治上にも實現してゐるとまで思つてゐた。公の死は、義雄に取りて、自己の一部をそがれたのである〉。義雄の論理は緻密さを欠くが、何を言いたいかは見当がつく。彼は自分の唱える獨存自我説の生々的威力發展主義が一個の人間としての自分だけでなく国家としての日本にもあてはまると考えているのである。彼が文章を書いたり愛人をこしらえたり缶詰事業をやったりするのと日本が日清日露の戦争をやって領土拡大を図るのとは同じ主義に基づいている。個人が自己を発展させることと国家が自己を拡張することに違いはない。〈渠が公を友人間に推稱するのは時代思想の權化であつて、而もそれが義雄自身に屬してゐると思ふからである。義雄も女もしくは女の幻影がなければその生活に元氣がないが、その元氣は性慾並びに生々慾が軍事、政治、實業、文藝などを合致したものであると信じてゐる〉。このずいぶん乱暴な理屈が義雄の理屈である。伊藤博文の派手な女性関係にも義雄は共感し、それを含めた伊藤全体を評価しているらしい。
 義雄が伊藤暗殺を知った場にたまたま居合わせた知人の浅井に頼まれて彼は浅井の勤める中学校で講演をすることになる。そしてこれがスキャンダルとなる。〈先づ伊藤公の略歴から初め、公を以つて現代の豐太閤と爲し、公と時代思想との關係を説き、わが國將來の戰争と發展との根本的性質に及び、歐米諸國の僞文明を排して實力を尊ぶ野蠻主義の必要を述べ、藤公の一缼點はその野蠻主義を押し通す勇氣に乏しかつたところにあり、また、豐太閤と同樣、心に餘裕、乃ち、ゆるみを生じたのが間違ひであつたと評し、生々、強烈、威力、悲痛、自己中心の刹那主義を説いて結論にした。渠にはそれが伊藤公を語るのでなく、自分を語るのであった〉。話しているうちに義雄は熱してきて講堂中を振動させるほどの大声を張り上げる。そして〈「豐太閤も、伊藤公も、現代の發展的思想に於いては全く僕に屬してゐるのだ――乃ち、僕自身の物である」と叫んだ時、・・・満堂の生徒は申し合はせた様に一齊にどツと笑つた。・・・渠はぱツたり演説を中止し、一堂を瞰みつけてゐたが、「おれは宇宙の帝王だ! 否、宇宙その物だ! 笑ふとはなんだ?」 どツとまた満堂の笑ひ〉。そりゃ、誰も笑いますよね。是非この演説を聞いてみたかったものである。
 笑いものになった2日後の10月28日に初雪が降る。義雄は自己の思想が間違っているとは考えないし、氷峰や呑牛がからかっても自分の正当性を主張するのみである。それでも挫折感はある。〈かう雪の降るまでまごまごしてゐた自分を、無見識だと身づから嘲けらざるを得ない〉。東京へ帰ろうという思いは強まる。〈兎に角、何とかして、自分だけが歸京したい。そして、どうせいつ直るか分からないお鳥と遠く別れてから、手紙の上のいい加減な相談で、かの女から逃げてしまはうと〉たくらんでいる。
 しかし天網恢恢疎にして漏らさず。氷峰が義雄に、帰る日は決まったのかと尋ねたのを聞きつけたお鳥は義雄の魂胆を知る。彼女は義雄をののしり大粒の涙を流す。そして言った科白が「死の! 一緒に死の!」であった。夜の街へさまよい出たお鳥の後からついて行きながら彼は「どこにしよう?」と訊かれたのに対し「豐平川の鐡橋がよかろう」と答える。しかしこの時点で彼は一緒に死ぬつもりはない。〈生きてゐて面倒な女が渠から無關係に遠ざかつて行くのを、これ幸いと、その死に場所まで案内するつもりである。途々〔みちみち〕考へて見ると、自分がかの女を棄てて逃げようとしたのも、自分の思想的生活に無關係になつて來たからである。それがおのれから逃げて呉れるのだ。これほど都合のいいことはない〉と都合のいいことを考えている。しかしまた途中では、〈死なうと云ふ者を案内して、それにおつき合ひをしなければならぬなら、その時自分も死なうと云ふ覺悟〉もきざしてくるのである。やがて二人は豐平川までやって来る。そこの橋は過日の洪水のため中ほどで切断され、崩れた向う側部分は川に落ち込んでいる。そこまで行って〈二人は、抱き合つて薄やみの中を落ちた。義雄はこの場に、自分の一生涯にあつたことをすべて今一度、一度期に、一閃光と輝やかせて見た。然しそれは下に落ちるまでの間のことで、――落ちて見ると、溺れる水もなかつた。怪我する岩石もなかつた。この冬中の寢雪として川床に積み重なつた雪のうへだ〉。なんとまあ、二人は雪の上に落ちて、怪我さえしなかったのである。
 この滑稽でもある心中未遂は糸を引くことはない。あっけないくらいである。二人は夜中の2時頃に義雄の下宿に帰り着くと、お鳥は寝床に入って熟睡し、義雄は机に向かって書きかけの論文「悲痛の哲理」の執筆を朝まで続ける。〈悲痛の哲理は乃ち生の哲學である。生の哲學を體現するものは、飽くまで、死を排斥する意思と努力とを持つてゐなければならない。渠はかう考へて、再び自分といふものを引き立てることが出來た〉。
 心中に失敗したのが11月3日夜のこと。その翌日4日には義雄は東京へ帰る決心を固め、旅費を工面しようと知人たちを訪ねるが、彼等もみんな素寒貧である。彼らのくれた餞別を入れても東京までの旅費には足りない。とりあえず知人のいる仙台までの3等切符2枚を手にして義雄とお鳥は6日に札幌を出発する。見送りに来たのは氷峰、呑牛、もう1人の新聞記者の3人で、有馬はやって来ない。義雄が札幌で一番世話になったのが有馬である。健全な生活人である彼は義雄の無計画で自堕落な生活にかねがね批判的であり、お鳥と別れて妻のもとに戻るよう促したりもしたのだが、義雄には馬耳東風。それどころか、家庭と仕事を大切にしている有馬の凡庸な生き方を軽蔑してさえいるのである。有馬は今までは迷惑しつつも穏やかに義雄を遇していたけれど、もうこれからは顔を見る必要もなくなった最後の最後となって堪忍袋の緒が切れる。「田村が自分の忠告を容れないのだから、東京の細君に對しても申しわけがない。もう友人でない」「あんな無謀な気儘者は北海道の雪に凍え死ぬくらいの目に逢うて見なければ、直らん」。これは、お鳥が有馬から聞いて義雄に伝えた最後の言葉である。
 札幌を発った義雄とお鳥は函館から青函連絡船で青森に向かう。お鳥は船酔いか何かで体調を崩す。青森から乗った満員の車中でも発熱したり嘔吐したりで回復しそうにない。義雄は意を決して盛岡で途中下車する。この地の大きな金物屋の息子で、かつて東京で商業学校の教師をしていたときに家で監督をしてやった(家で監督とあるのが下宿させたという意味かどうかは不分明)生徒に泣きつく。この元生徒の紹介でお鳥を病院へ入れることはできたが、借金は断られる。仙台までの切符はあるので、それで義雄は独り仙台へ向かう。そこで金策をし送金するからと告げられたお鳥は一人残ることを意外と素直に受け入れる。仙台の知人も借金の申し込みに応じるほどの余裕はない。それでも東京までの汽車賃とわずかの小遣いを恵んでくれ、義雄はかろうじて東京へたどり着くことができた。
 〈病氣を直してやるまで責任を持つと云ふ約束の外には、こちらは殆ど執着もなくなつて〉いるというのが札幌出発以来の義雄の一貫した気持である。彼は今、札幌から書きかけの原稿を持ち帰った「悲痛の哲理」を完成させて、その稿料でお鳥の治療代をまかない、そして別れるという算段でいる。ところが思いがけない「幸運」が舞い込み、彼は責任を免れる。盛岡から転送されて来た一通の電報「チチ、キウベウ、マサル、スグカヘレ」。発信は東京の小石川局。すなわち入院中のお鳥をマサルという男が東京から訪ねており、その家族から帰って来いという電報が打たれたが、お鳥もその男も病院にはもういないので、入院手続きをしてくれた義雄の元生徒に渡され、彼から義雄の所へ転送されて来たものである。お鳥は札幌にいるあいだにも2,3度義雄の知らない相手と手紙のやり取りをしており、義雄はその相手をお鳥が通っていた写真学校の教師か生徒だろうと憶測していたが深く追求することはしなかった。また彼女は「お前などの女房にならんでも、東京にはえい奥さんにしてやると云うて呉れる人がある」などと言っていたこともある。それが事実なら〈自分の責任からかの女が自然に離れて呉れるから結構だとも考えへてゐる〉義雄にとって渡りに船である。そして奥さんにするかどうかは別として、実際にマサルという男がいたのである。義雄の〈心はまたおだやかになつて、肩のおも荷をすツかりおろせたと云ふ氣であった〉。
 電報の翌日には、東京に戻って来て上野駅前の旅館にいるので来てほしいというお鳥の手紙が届く。「何をまだ云やアがるんだい!」。義雄はあの電報を封筒に入れてお鳥に送りつける。〈そして私〔ひそ〕かに無言の緣切り狀、最も安い手切金だと思つた〉。〈自分が舊い責任と云ふ責任をすべて果し得て新たに活動し初めるその勇ましい姿のかたわらに、お鳥が今の緣切り狀を受け取つてその大きな口・・・をぽかんとあけているのを空〔くう〕にゑがいて見詰めてゐた〉。これが「泡鳴五部作」の最後の文章である。金を出してもいないのに手切金云々はなかろうし、責任をすべて果し得て新たに活動し初めるその勇ましい姿などいうのも実にいい気なものだが、これが田村義雄という男なのである。そして岩野泡鳴という男なのである。大杉榮は泡鳴を偉大なる馬鹿と呼んだ。

久しぶりに淀で菊花賞

 私が初めて競馬の馬券を買ったのは1987年の菊花賞。それより以前、学生時代に京都競馬場でアルバイトをしていて、馬が走る姿を見てきれいだと思ったことがある。しかし、競馬そのものに興味はなかった。当時はまだ学生が馬券を買うのは法律で禁止されていたし、たとえ買えたとしても生活費を得るためのアルバイトで得た金をギャンブルに使うはずがなかった。それから20年ほど経ったある朝、新聞(スポーツ紙でなく一般紙)でふと菊花賞の前売りオッズが目にとまり、眺めていたら、こう買えば当たるのではないかという組み合わせが頭に浮かんだ。出走する馬の知識は一切なく、数字だけを見てそう思ったのである。淀まで出かけ、長い列に並んで馬券を2万円購入した。初めてにしては大枚をはたいたものだが、なにしろ当たるという気がしていたのである。レースは見ないで家に帰ってラジオ中継に耳を傾けた。当たった。当時はまだ馬連などはなく単勝複勝、連勝複式(現在の枠連)だけであったと思う。5000円買っていた連勝複式17.4倍があたり8万7千円が戻って来た。このビギナーズラックに騙されてそれから今まで私は競馬と付き合っている。しかも、菊花賞が私にとって特別のレースとなり、これだけは毎年淀に出かけて現場で見ないと気がすまない。ほとんど毎年京都競馬場へ足を運んできた。
 京都競馬場の大改装のため一昨年昨年と菊花賞阪神競馬場で行われた。最近ではしんどくて阪神まで出かけることはない。それにコロナで無観客とかもあって、菊花賞観戦のチャンスはなかった。今年は3年ぶりに京都に戻って来るというので昨日出かけた。4月に新装オープンした京都競馬場もまだ見ていないし、そちらも興味があった。 

☟新しいスタンドのパドック

☟以前のパドック跡。右手の方に新しいパドック

☟新しいパドック。私は前の円形パドックが好きなのだけれど、今度のは他の競馬場
と同じ楕円形。

菊花賞パドックでよく見えたのが12番ハーツコンチェルト(上の写真で左から3番目の馬)。前哨戦の神戸新聞杯は5着ながら、1着のサトノグランツ(今回3番人気)とは0.1秒差。ハーツクライ産駒で長距離血統。距離が2400メートルから3000メートルに延びるのはプラス条件のはず。調教では「馬体を弾ませ」という◎評価。5番人気で単勝9.3倍。これを狙わない手はない。私の選択は極めて合理的なものだと思う。しかし合理性が通用しないのもギャンブル(それでも私は合理性を無視して賭けようとは思わないが)。結果は6着。勝ったのは4番人気のドゥレッツアで単勝7.3倍。

☟最終レースが終わっても混雑は続いているので、人が少なくなるまで少し時間をつぶそうと、昔の京阪淀駅があった所まで行ってみた。下の写真がその駅のあった跡。高架になった京阪電車が上を走るだけの場所で何もない。右手の淀城跡は昔のままである。

京阪電車中書島で降りて、伏見の街を歩いてみた。久しぶりで懐かしい。たそがれて来て、ちょうど橋の袂の灯りがともるころ。この橋を渡ると竜馬通りの商店街。渡って左に折れればすぐ寺田屋

 桃山御陵前から近鉄線で京都駅まで出て、久々の外食を楽しもうと思ったところ、京都駅にくっついている食堂街はえらい混雑。皆さん、店の前に行列を作って待っている。駅からちょっと離れた細い通りに、ふぐ、かに、はも料理を看板にした店を見つけ、大好きな鱧のコース料理とお酒ではずれ馬券に乾杯。ちょっとした旅行気分を味わった。一日を振り返って気になったのははずれ馬券ではなく、今日の入場料が普段の200円でなく、500円であったこと。今まで特定のGⅠの日に入場料を値上げするなんてことはなかった。セコイじゃないかJRA。それにもうひとつ、新装なったスタンドの屋外席が有料化されたこと。ガメツイぞJRA。と、この点は文句を言いたい。

「泡鳴五部作」(その1)

 岩野泡鳴といえば自然主義を代表する作家の一人。しかし、昨今では自然主義の小説を読む人は少なかろうし、泡鳴など明治文学の研究者か愛好者か、あるいはよほどの暇人でもなければ読まないのではないか。暇人である私は読んでみた。本棚を眺めていたら「泡鳴五部作」という未読の本が目にとまり、なんとなく手に取ったというだけのことであるが、結構おもしろい。
 主人公は田村義雄。父が死んで下宿屋を相続したが〈實行刹那主義の哲理を主張して段々文學界に名を知られて来たのであるから、面倒臭い下宿屋などの主人になるのはいやで〉、そちらは妻に任せて、自分は勝手次第な事ができるという思いを抱き、〈自分自身の新らしい發展が自由に出來るのを幸ひにし〉ている。實行刹那主義とは何なのかよく分からないが、とにかくそういうことを唱えて有名になりつつある文学者であるらしい。そのうえ〈自分の妻子――ほとんど十六年間に六人の子を産ませた妻と生き残つている三人の子供――をも嫌つてゐた〉とある。この田村義雄という男、家族を犠牲にしたうえで文学の道に自分の新しい発展を求めようとする自分勝手な人間であるらしいと見て取れる。いったい何をやらかすのか。
 「泡鳴五部作」は『發展』『毒藥を飲む女』『放浪』『斷橋』『憑き物』の5作から成る。書かれた順序はこの順序ではなく発表時期も多少の隔たりはあるが、読むのはこの順序で、しかも一続きの物語として読んでまったく問題はない。物語はこの順序で進行する。今回は最初の2作だけを取り上げる(その1)。
 田村義雄はかつては詩を書いていたが今では哲学めいた評論や小説を書いて新聞や雑誌に売り込み、その原稿料が収入。それともうひとつ商業学校で英語を教えていて、こちらは原稿料などより安定した収入かに思えるが、週3日だけ出勤ということなので正規の教員ではないらしい。微々たる報酬か。妻千代子に任せている下宿屋の収入を入れても生活は楽ではない。
 千代子は義雄より3歳年上。恋愛結婚であった。しかし〈おも長の上品に艶々しい顔に、姉のやうな優しみを帯びて、その着物の着こなしさへ、他の田舎出の女學生などとは違ひ、如何にもしなやかな姿に義雄は引かれた〉のは16年前のこと。今では所帯じみた妻を義雄は婆々アと罵倒し、己の身勝手を批判されると平気で殴りつける。円満な夫婦関係や穏やかな家庭などという考えはおろか、父親であるという自覚さえ彼の頭にはない。妻や子供は彼にとって邪魔者でしかない。じゃ、なぜ結婚したのかと尋ねたいところだが、そんな問いは彼にとっては蛙の面に小便であるだろう。千代子はひとりで子供を育てなければならないどころか、邪険に子供を扱う夫から子供をかばうことさえしなければならない。
 相続した下宿屋には4年ほど前、裁縫学校に通う娘が間借りしていたことがあった。いったん故郷の紀伊田辺に帰り結婚したらしいが、それに破れて再び上京し、また昔の下宿に戻りたいという葉書をよこす。この娘は淸水鳥という名で、年は現在21歳である。義雄は4年前の彼女を知らないが、彼の父親の後妻(義雄の継母)は彼女をよく知っていて、あんまり好かないと言う。千代子は葉書の字を下手な字だと言う。しかも継母は「若し義雄さんにでも引ツかかりができたら」などという危惧さえ千代子にむかって口にする。最近も芸者とひと悶着あった義雄の女癖の悪さは暗黙の了解になっているらしい。それに実際のお鳥を知っている継母は何か感じるところがあるのかもしれない。そしてお鳥がやって来る。千代子が受けた第一印象はよくない。「いやな女よ――それは意地の悪そうな眼付きをして――おほでこでこのひさし髪で――」。茶飲み茶碗が足もとにころがっていても直そうとしないお鳥の態度についてもやはり千代子は「なんて無淸な女でしよう、ね、あんなだから嫁に行つても追ひ出されたのでしようよ」と非難嘲笑する。部屋代にも事欠くほどのお鳥は歓迎されざる間借人。
 お鳥は知り合いのところへ出かけたりして働き口を得ようとはするのだが、うまく行かない。文無しの割にはどこまで真剣なのか疑わしくもある。途中でいったん知り合いの同郷人夫婦のところへ転居するのだがすぐに戻って来る。義雄の継母の話では、そこの奥さんが焼きもちを焼いたとか。さらに千代子は、お鳥が友達の兄で妻子持ちの男をだまそうとしたらしいという話もする。真偽は不明。
 そして案の定お鳥は義雄の妾となる。といっても彼女が美人で義雄がゾッコンというのではない。〈義雄が直接に向ひ合つたその顔を見ると、圓ツこく太つて、色は雪のやうに白いが、平べつたい面積がどことなく締りなく、出過ぎたひさし髪や衣類の着付けがどうしても田舎じみてゐる。その目つきがそこに意地のありそうに見えるのも、ひさしの奥から見つめるから、たださう見えるのだと考へれば考へられないこともない。また、そのしろ目が少しそら色がかつてゐるのも義雄が見て餘りいい感じはしない〉。
 それでも義雄は誘いの手を差し伸べる。いきさつは次のとおり。働き口の決まらないお鳥に知人の小説家の所に住み込みの下女としてどうだという話を持ち掛けた義雄は、彼女が応諾の返事をしたのを聞いて妙な結論を引き出す。〈「いいですか」と渠〔カレ〕が念を押すと、女はまたたやすくいいと答へたので、これは物になるわいと思つた。獨り者のところへ若い女――それを平気で承知するやうなら、渠自身にも占領することが出來ないものでもなかろうと。たとへ田舎じみてゐても、たとへ拙い顔でも、このふツくりと肥えた色の白い女をむざむざと友人の秋夢に渡してしまうのが急に惜しくなつた〉。こういう理屈および心境はなかなか理解しがたいが、ま、これもある種の男の欲望か。秋夢は獨り者だからおまえを口説くかもしれないがいいのかと義雄がかけた鎌にお鳥が構わないと答えたのに対し義雄は「實は、僕も・・・今、誰れかひとり世話して呉れるものを探しているのです。――僕はあの妻子は大嫌ひで、――この家にゐてもゐないでもおんなじことなのだから、――どこか別に家を持たうと思つてるのです」と切り出す。「いツそのこと、どうです・・・僕の――方へ――來て――下さつたら?」「矢ツ張り、口説くかも知れませんよ」。お鳥は無言。こうして愛人契約が成立する。しかし、妻や子のいる家を出て別に家を持つつもりと言ったのは一種の方便にすぎない。義雄は同じ学校の教師をしている知人宅に6畳一間を借り、お鳥を住まわせ、通うだけである。お鳥は不満だが今さら後戻りできない。人から妾と見られることは本意でないが如何ともしがたい。
 お鳥は容姿に魅力のある女ではない。雪のように白い肌以外に義雄が特に惹きつけられるところがあるわけではない。加えて人品も上出来とはいいがたい。言葉使いもがさつである。はっきりいってガラが悪い。それを示す一節を次に引用。最初にその下女に世話しようかと義雄が言っていた小説家の秋夢が二人の所を訪ねて来たときの様子。〈主客が電氣のもとで、涼しい夜かぜを浴びながら、寢ころんでうち解けた話しをしてゐると、かの女も投げ出した足を時々ばたばたさせて、聴いてゐた。「友人には、誰れが來ても、餘り失敬なことをして呉れるなよ。」義雄は秋夢が歸つた跡でお鳥をたしなめると、かの女は顏をふくらして、だらりと横になり、「あんな奴に何で遠慮してやるものか? 人の顏をじろじろ見て、さ。」「そりやア、初めてのことだから、さ。」「初めてダツていけ好かない!」「然し・・・お前はそれでも行くつもりであつたぢアないか?」「そりゃ別な目的があつたから、さ。」かの女は案外感じの薄い笑ひを見せて、「學校へさへやつて呉れるなら、何もあいつやお前に限つたわけではない。」「ぢやア・・・まだしもおれの方がよかつたのか?」・・・「知らん、知らん!・・・そんなおぢイさんなどいやなこツた――まだしも、あいつの方が氣が利いてる。」〉。お鳥自身は自分が美人だと思いこんでいるようである。ある時は「お前のような貧乏なおぢイさんには、あたいのこの顏に免じても、惜し過ぎる」などと言い、言われた義雄は〈吹き出してみたいほどをかしくなつた」。彼の友人の画家曰く「あいつ馬鹿だぜ――少し足りない」。
 こんなお鳥にしかし義雄はけっこう執着する。〈お鳥の眞ツ白な肌の匂ひに接している間は、かの女の気儘も缼點もいやなところも、すべて忘れることが出來るのである〉。そして、彼女の身持ちがよくないのではないかと疑り、さかんに嫉妬する。自分より先に弟と関係していたのではないかとか、千代子の話していたように妻子持ちの男をだましたのではないかとか、二人で鹽山温泉に逗留したときに同宿していた職工頭に気があるのではないかとか、別れた紀州の元夫とひそかに連絡を取っているのではないかなど。これらはあくまで義雄の疑心暗鬼であって、事実であるという裏付けはない。しかし事実であるかどうかはどうでもよく、義雄がそのように疑り嫉妬しているという点こそが重要である。そもそもお鳥を口説いたのも、友人の秋夢に彼女を渡してしまうのが惜しいと義雄がふいと考えたからであった。ルネ・ジラールの模倣欲望理論を持ち出すほどではないが、義雄はお鳥への執着を持続するために空想上の競争相手を必要としているのではないかと解釈してもあながち的外れではなさそうである。嫉妬あってこその執着。白い肌だけでは十分でない。
 さて、そんな二人の関係をもう少しドロドロしたもの、あるいは危ういものにする事態が発生する。義雄の性病(淋病らしい)がお鳥にうつるのである。〈「痛いの。」「どこが?」「・・・・」「えツ?」渠はかの女の無言なのが萬事を語ると思つた。あれだけ、これまで用心してかかつてゐたのに――! 渠はかの女の枕もとに坐わつたまま顏を反むけて、暫らく自分の三四ケ月以前までの苦しみと不愉快とを考へた〉。どのように用心したのかの説明はない。現代の小説ならそのあたりは詳しく記述するだろうが、明治時代にはその手の露悪趣味はなかった。それはともかくとして、医者通いも奏功せず、以後お鳥はずっとこの病気に悩まされる。「お前のせいだ、病気を直せ」と義雄を責めるのが彼女の口癖となる。義雄のほうも〈心は段々現在からお留守になつて、こんな事情のもとにあるお鳥のからだなどは、暗い物置のやうな小部屋にほうり込んで置けばいいやうな氣にもなつた〉。それでもお鳥の治療費は出さないわけにはいかない。精神的にも経済的にもお鳥を重荷と感じることが多くなる。〈労力に報いるだけの報酬が取れないやうな原稿などは書くのもいやになることがあると同時に、お鳥のやうな女にかかり合つてゐるのも馬鹿々々しい氣がする〉。それでも彼はお鳥のもとへ通わずにはいられない。肉体関係はもちろん沙汰止みではあるが。
 経済的な逼迫の度合いも増してきて、義雄は労多くして益少ない売文業に替わる金儲けを模索する。起業しようというわけである。蘭貢米〔らんぐんまい〕の輸入とか九州の無煙炭の販売とかが候補に挙がるが、最終的にたどり着いたのは樺太での蟹の缶詰製造である。父から相続した家を抵当に借金をして資本をこしらえ、樺太で缶詰職人をしているいとこと組もうというのである。しかしこんな思い付きみたいなことが成功するとは誰も考えない。すでにこの話は父親の存命中にも持ち出して、父親から相手にされなかったのである。今度も、妻の千代子をはじめとして周囲の誰もが冷たい目で見ている。読者の私たちも同様である。作品中では言及されていないが、時あたかも日露戦争の直後で南樺太が日本領となり、一獲千金を夢見る連中が樺太を目ざした時代だったのかもしれない。
 義雄が商売の相談相手に選んだのが小学校からの友人で加集泰助。〈いろんな社會へ首を突ツ込んで、口錢取りをしてゐる〉男である。義雄は彼を〈口さきばかり上手な男〉だが、〈いろんなことを實地に就いて調べて來て呉れるのが、調法だし、また、第二流、三流の實業家なら大抵の人を知つているから、いざと云ふ場合の橋渡しにはなりそうだ〉と考える。現代ならさしずめコンサルタントの端くれとでもいうところか。しかしこのコンサルタントはあまり商売の面では役立たず、むしろ義雄とお鳥のあいだに挟まって別の役割を果たすことになる。
 妻の千代子も義雄の浮気を放任しているわけではない。できてしまったものは仕方がないが、だからといってそれを甘受する法はない。彼女は夫の横暴に泣き寝入りするような弱い女ではない。夫を責めもするし、お鳥を面罵しもする。責められた義雄が千代子を気ちがいとか軌道を外れた人間などと呼んで自分を正当化しようとするのが滑稽だし(軌道を外れているのは彼のほう!)、慈悲で今まで離婚せずにきてやったのだと居直るのも噴飯ものだが、彼のほうにはとんでもない哲学があるのである。「わたしが附いてゐなけりやア、あなたのやうな向ふ見ずは立つて行かれなかつたんです!」と千代子に言われて彼が持ち出した理屈は以下のよう。「おれの向ふ見ずは・・・一般人のやうな無自覚ではない」「身づから許して自己の光輝ある力を暗黑界のどん底までも擴張する・・・」「人間の光明界と暗黑界、云ひ換へれば、霊と肉とは自我實現に由つて合致される・・・」。何を言うてんのやら田村義雄(岩野泡鳴)。常人には理解不可能。
 お鳥も千代子を義雄と同じように気ちがいとか婆々アとかと悪し様に呼び捨てにして敵対感情を露骨に示すし、面と向かって罵倒されれば負けずに言い返す。しかしやはり心は打撃を受けるのである。千代子が義雄を詰問すべく彼女の所までやって来たおりにお鳥へも非難の矛先を向けたのは当然のこと。「あなたもあなたでせう、うちが困るぐらゐのことは氣が付かないことアないだろう!」「自業自得で因業な病気にかかつて、さ、入らないおかねまでつかはせたんですよ!――その衣物〔きもの〕だツて、拵へて貰つたんだろう!・・・圍ひ者氣取りで、三味線など弾いて!」。お鳥はこんなことを言われたくらいでへこむような女ではないが、ちょうど心が折れる限度にさしかかっていたのだろう。千代子が帰った後で早くあの女を追い出せと義雄に迫るが、例によって法律が許さないなどと言い訳する義雄を置いて外へ出て行き、近くの山で首を吊ろうとするのである。たまたま義雄がやって来て未遂に終わる。本気かどうか義雄は疑うが真偽は不明。
 自殺未遂以後もお鳥の病気は治る気配を見せないし、本妻にしろとせっついてもその気のない義雄は聞く耳をもたない。「もう、別れさせて貰ふ」「あたいが紀州を出て來たのが惡かったんや」とは言うものの具体的な方策があるわけではない。神経も過敏になり、ひどい風邪で寝込んだときには熱にうなされて夢に母親を呼んだり、突然身を起こして「畜生! 殺すぞ」と叫んだりすることもあった。殺したい相手は義雄だったのか。多分そうだろう。そしてとうとう、義雄の枕元で出刃包丁を手にするという事態が発生する。ただし、〈蒲団がめくられたかと思ふと、やがてひイやりした物が軽く、義雄の左から右の方へ、その喉の上を横ぎつた。・・・するりと顏をかの女の方から遠ざけて起き上り、「なによウする!」 「殺してやる! 殺してやる」 その時は、もう、出刃は義雄の手に在つた。そして暫く、二人は無言で、睨み合つてゐた〉ということで、これ以上の刃傷沙汰に発展することはなかった。この描写からはお鳥がどこまで本気であったかの判別は難しいが、少なくともその瞬間には義雄を殺したいと思うまでに憎悪が高まっていたということだけは確かだろう。
 今や樺太での蟹缶詰事業が最大の関心事になっている義雄は商業学校の教師も辞め、夏が来れば樺太へ出かけるつもりでいる。追加の資金が必要となり、その相談で加集と会うことが頻繁になっていて、会うのはお鳥の所である。加集は義雄が留守のときにもやって来るようになり、義雄はお鳥と加集の仲を疑いだす。「けふも、おれの留守に來やアがつたと云ふ加集の奴、たうとう物にしたのぢやアないか?」。そしてなんと、壁に描いた悪魔が姿をみせるのである。お鳥と加集が男女の関係になる。しかし実はこれは義雄にとって悪いことではない。樺太に行ってしまえばお鳥を厄介払いできると考えていた彼にすれば好機会が向こうからやって来てくれたようなもの。こうなれば、別れる条件として病気が治るまでの治療には責任を持つと一旦は約束していたのも反故にしてかまわない。お鳥を加集に押し付けてしまえば自分は責任のない自由の身となって樺太で存分に蟹の事業に邁進できる。出刃包丁騒ぎの翌朝、義雄は二度と戻らないと心に決めてお鳥の下を立ち去る。ではこうしてお鳥を捨てたのかといえば、話はそれほど簡単には進まない。彼はお鳥にまだ未練があるし、加集に嫉妬するしで、加集の下宿やお鳥の所にノコノコ出かけて行ってはグダグダやる。お鳥を加集に押し付けようとしているのか取り戻そうとしているのかよく分からない。お鳥をさっさと捨てることのできない義雄って意外と誠実なのかもしれない。いや、そんなことはないか。
 義雄と加集の間で板挟みとなったお鳥がとった行動は何か。自殺である。紀州で医者をしている兄の所で手に入れたというアヒサンを彼女は所持していたのだが、それを飲む。早く発見され、医者が下剤をほどこし、助かる。これで2度目の自殺未遂。回復したお鳥と義雄は結局よりを戻す。義雄は彼女をかつての約束通り学校に入れてやり(ただし予定変更して裁縫学校ではなく写真学校)、3カ月分の生活費を渡して自分は樺太へと向かう。
 以上、「泡鳴五部作」の最初の2作『發展』『毒藥を飲む女』の中心をなす義雄とお鳥の物語の概要を私の解釈感想を交えながら紹介してみた。『放浪』以下の作品については(その2)で取り上げたい。

夏の詩歌

 酷暑がなかなか終わってくれない。手元にある詩集や歌集をパラパラめくりながら、夏の暑さを罵倒したり呪ったりした作品ってあるのだろうか探してみたが、見つからない。もともと、冬や秋に比べると夏をテーマやモチーフにした詩歌は少ない。それに、暑くてたまりませんなどと詩や短歌で文句を言ってみても始まらない。見つからないのも当然か。というわけで、最初の趣旨に沿う作品は見つからなかったが、せっかくだからいくつかの夏の詩と短歌を拾ってみた。以下、そのいくつか。(*は私の注釈や感想)
◇◇◇
村野次郎

土用照朝よりきびしひとむらの茅萱〔ちがや〕炎となりて目に来る

びわれて土熱〔ほ〕めきたつ日の盛り風死して目に動くもの見ず

*このように夏の暑さを純粋にうたったものは珍しい。しかし、炎となった茅萱や風の死を凝視する歌人の強い視線も感じられて、純粋に風物をうたった歌と断定すべきでないかもしれない。
◇◇◇
   夏が来たら------      
             山崎栄治
夏が来たら------
私は鍔ひろい麦わらの帽子をかぶるだろう。
私の高い頬骨が鳶色に日に灼けるだろう。
蝉が啼いて、私は白絣を着て、その下でまた     
  汗ばむだろう。
そうして、私の経た一切の失意を、一切の不  
  運を忘れるだろう。
夏が来たら------
夏はあの盛りあがる草木と、かがやく雲と、
 雨と、砂塵と、花籠いっぱいの困惑とを   
 持ってまたやって来るのだろう。

(そのあいだにも、おおぜいの人は、つぎ
   つぎに、この地上から消えるのだが------)

*私のような老人はもはや夏の到来を待ち望むことはないが、子供や若者は輝ける季節としての夏を待ち受ける気持ち「夏が来たら------」が強いだろう。麦わら帽子、日灼け、蝉、白絣、汗といったイメージによって呼び起こされる開放的な夏。しかしこの詩では、開放感が海や山とのみ結びつくことはない。夏は、盛りあがる草木やかがやく雲とともに花籠いっぱいの困惑をつれてくるのである。夏は開放だけではなく、むしろ過去に味わった失意や不運からの解放の季節でもある。しかも、すべての人間にとって避けることのできない死(究極的な解放!)さえも予感させつつ。
◇◇◇
   倒〔さか〕さの草
             小山正孝
草むらに私たちは沈んだ
草たちは城壁のやうに私たちをくるんだ
倒さの草たちのそこの空に白い雲が浮んで
 ゐた
青ざめたほほと細いあなたの髪の毛と
草の根方を辿つてゐる蟻と蜘蛛と
しめつた黒ずんだ土と------
暑い暑い夏の日だつた
あなたとはもう縁もゆかりもないけれど
今も思ふ
純粋とはあれなんだ
起きあがつた時のあなたの笑顔とすずしい
  風と
美しいくちびるの色!

*動物は発情期があって一定の季節に恋をするのだが、人間は年がら年中恋をしている。とはいえ私たちのイメージのなかでは夏が恋ともっとも結びつきやすい季節であろう。この歌もそんな夏の恋の歌。私の好みでは「あなたとは・・・純粋とはあれなんだ」の3行は削りたい。恋人と別れたという現状報告も純粋という説明も蛇足である、と私は感じる。これに替わるピリッとした1行はないのか。
◇◇◇
   夏花の歌 その一
             立原道造
空と牧場〔まきば〕のあひだから ひとつの
  雲が湧きおこり
小川の水面に かげをおとす
水の底には ひとつの魚が
身をくねらせて 日に光る

それはあの日の夏のこと!
いつの日にか もう返らない夢のひととき
黙つた僕らは 足に藻草をからませて
ふたつの影を ずるさうにながれにまかせ
 揺らせてゐた

------小川の水のせせらぎは
けふもあの日とかはらずに
風にさやさや ささやいてゐる

あの日のをとめのほほゑみは
なぜだか 僕は知らないけれど
しかし かたくつめたく 横顔ばかり

*おりから湧きおこる入道雲を映した小川にふたりは並んで足をひたしているという情景。藻が足にからみつくのをそのままに、ふたりは何かおしゃべりするのでもなく、自分たちの影を見つめるだけである。「ずるそうに」というのは、互いの心を確かめる勇気さえなかったという意味だろう。そしてお互いの顔を正面から見ることもなかった。「あの日のをとめのほほゑみは・・・かたくつめたく 横顔ばかり」である。
◇◇◇
小野茂
あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ

*こちらは正面から見つめあうこともあったであろうふたり。この歌を私は40年ほど前に初めて読み、短歌の表現力を実感した。上に挙げた小山正孝や立原道造の詩が伝えたいのと相似の心情を三十一文字で表現し、余韻はそれ以上。作者が交通事故で若くして亡くなったこととは無関係に絶唱
◇◇◇
   蝉頃〔せみごろ〕
             室生犀星

いづことしなく
しいいとせみの啼きけり
はや蝉頃となりしか
せみの子をとらへむとして
熱き夏の砂地をふみし子は
けふ いづこにありや
なつのあはれに
いのちみじかく
みやこの街の遠くより
空と屋根とのあなたより
しいいとせみのなきけり

*夏といえば蝉は外せない。そして蝉取りといえば私は木にとまっている蝉を網で捕まえるのを思い浮かべるが、ここで「せみの子」といわれているのは蝉の幼虫のことなのだろうか。それが土から出て木をよじ登っているのを手で捕まえるのだろうか。犀星は子供の頃、金沢でそんな蝉取りをやったのかもしれない。などと些細なことに引っかかってしまった。でもやはり、「せみの子」はことばのあやであって、「砂地をふみし子」は木で鳴いている蝉を捕まえているのだと素直に理解しておきたい。かつて蝉を追いかけていた子供であった詩人は今では故郷を離れたみやこにいて、どこか遠くから聞こえ来る「しいい」という鳴き声に耳を傾けている。
 なお、2行目は「啼きけり」と漢字、最終行は「なきけり」とひらがなになっているが、これは犀星流の些事にこだわらずということか。特に意味はないと思う。
◇◇◇
   蝉
             三好達治

蝉は鳴く 神さまが竜頭〔ねじ〕をお捲きに  
 なつただけ
蝉は忙しいのだ 夏が行つてしまはないうち 
 に ぜんまいがすつかりほどけるやうに
蝉が鳴いてゐる 私はそれを聞きながら つ  
 ぎつぎに昔のことを思ひ出す
それもおほかたは悲しいこと ああ これで
 はいけない

*蝉があんなにせわしく鳴いているのは神様が捲いたぜんまいを捲き戻しているのだとは知らなかった。なるほどそうだったのか。それにしても、その蝉の声を聞きながら悲しい昔を思い出して、これではいけないと嘆いている三好達治という詩人は悲しい人ではある。私なんぞ蝉の鳴き声で思い出すのは網とかごを持って蝉取りに熱中した子供の私である。
◇◇◇
   夏草
             黒田三郎

真昼の原っぱに
人影はなく
忘れられた三輪車が一台
その上を
ゆらゆらと
紋白蝶がとぶ
激しい草いきれのなかで
思うことは
何もない
むなしく滅びたもの
かつては血と汗と泥にまみれたもの
地から出て地にかえったもの
すべては夢のように
ただ
紋白蝶が
もつれてとぶばかり

*朝のうちは三輪車で遊んでいた子供も暑さを逃れて家に帰ったのだろう。誰もいない原っぱに残された三輪車の上をとぶ紋白蝶。うるさく鳴く蝉とは無縁のもうひとつの夏。無言の世界。感じられるのは暑熱だけ。過去の世界からは、むなしく滅びたもの、血と汗と泥にまみれたもの、地から出て地にかえったものがよみがえる。しかしすべては夢のように茫漠としている。だから思うことは何もない。紋白蝶がもつれてとぶばかり。
 間然するところのない詩だと思う。大げさな言い方をすれば、平凡な語彙を巧みに使った詩の小宇宙。
◇◇◇
   布良海岸
             高田敏子

この夏の一日
房総半島の突端 布良の海に泳いだ
それは人影のない岩鼻
沐浴のようなひとり泳ぎであったが
よせる波は
私の体を滑らかに洗い ほてらせていった
岩かげで 水着をぬぎ 体をふくと
私の夏は終っていた
切り通しの道を帰りながら
ふとふりむいた岩鼻のあたりには
海女が四、五人 波しぶきをあびて立ち
私がひそかにぬけてきた夏の日が
その上にだけかがやいていた

*これも、間然するところのない詩であると思う。小野茂樹の口真似をしてみたくなる。「わたくしの数かぎりなきそしてまたたつた一つの夏そっと行く」。
◇◇◇
8月も下旬というのに熱中症警戒アラート状態が続いている。最後に、酷暑退散を待ちつつの一首。

吉田正俊

蜩〔ひぐらし〕のこゑにかはりし暁〔あかつき〕の虫々のこゑききて目ざむる

 

レマルク『西部戦線異状なし』

  
 レマルク(1939年)


 エーリヒ・マリーア・レマルク(1898-1970)の小説『西部戦線異状なし』は1928年に新聞に連載され、翌29年に単行本として出版された。右翼からはドイツの前線兵士たちの思い出を汚すものであるという批判、左翼からは戦争の原因が追究されていない、平和への志向が欠如しているといった批判などがなされたようであるが、1930年の6月にはミリオンセラーとなった。小説冒頭の「この本は訴えでもなければ告白といったものでもない。戦争によってだいなしにされた、たとえ彼らが榴弾を免れた場合でも、だいなしにされた一世代について報告する試みにすぎない」という著者の控え目な前書きはそのまま受け取るべきだとしても、しかし、そのことはこの小説を反戦小説として読むことに矛盾するものではない。少なくとも『西部戦線』を読んだ後で戦争は素敵だとか、戦争にも一理あるとか考える人はいないはずである。
 時代は第1次世界大戦の中頃から終盤にかけての1915∼18年ごろ。主人公パウル・ボイマーは志願兵としてドイツとフランスの北部国境に延びた西部戦線にいる。彼は多くのクラス仲間とともに教師のカントレックの演説に愛国心と義勇心を煽られ、祖国のために戦うことを志願し、学業を中断して今ここにいるのである。しかし、彼も級友たちも当初の高揚した心は早くも失せている。クラスメートのなかで最後まで志願を渋っていたベームはすでに戦死している。国家に対する最高の務めなどという理念も前線で敵の銃撃や爆撃に出くわせばたちまち消え去る。死は具体的な事実としてすぐそばにある。彼らは死の恐怖に脅かされながら戦闘に従事している。パウルによる一人称の語りで物語は進行する。
 NHK映像の世紀』第2集「大量殺戮の完成 塹壕の兵士たちはすさまじい兵器の出現を見た」によれば、第1次世界大戦は新たな大量殺戮兵器の使用によって戦争のシステムを一変させたということである。大砲を敵陣へ撃ち込んで打撃を与えた後、騎兵と歩兵が突撃して決着をつけるというのが従来の戦争(ナポレオン戦争普仏戦争)のやり方であったが、それが機関銃(当時のもので1分間に745発の弾丸を発射したとか)の登場によって通用しなくなった。塹壕が前線に張り巡らされることになる。機関銃やその他の砲弾から身を守りつつ敵陣へ近づくためにである。兵士たちは大戦開始当初は布と皮でできた帽子をかぶっていたが、じきに鉄兜にとって代わられる。毒ガス、戦車、火炎放射器空爆も第1次世界大戦で初めて登場する。
 塹壕戦について『西部戦線』は詳しく書く。この塹壕というやつ、しかし、あまり役に立っているようには思えない。いくら敵陣に近づいても最後は塹壕を出て敵の塹壕へ攻め込まなくてはならない。やはり敵の機関銃に身をさらすしかないのである。兵士たちは次々に倒れる。人海戦術である。100人が突撃して50人がやられても残りの50人が敵の塹壕へ飛び込んで敵と切り結べばよいという戦術だとしか思えない。また、自軍の塹壕にいても安全ではない。敵が防御を破ってこちらの塹壕に飛び込んできたら肉弾戦の修羅場だが、そうでなくても命を失う危険は大きい。塹壕の中にいても敵の砲弾や銃弾は飛んでくる。退避壕はあってもコンクリート製なら上等な部類で、なかには木製のもある。大砲の砲弾が直撃すれば簡単に崩れ落ちる。パウルは語る。「2,3カ月前ぼくは退避壕にいてトランプをやっていた。しばらくして立ち上がり、別の退避壕の知り合いのところへ出かけた。戻って来ると、さっきの退避壕は跡形もなかった。大きな命中弾でボロボロにやられたのである。2番目の退避壕へ取って返すと、それも土に埋もれていて、ぼくはそれを掘り出すのを手伝うのになんとか間にあった」。加えて塹壕には水が溜まり、塹壕戦は泥水との戦いでもある。『映像の世紀』では塹壕足といって水虫と凍傷に兵士たちが悩まされる様子が映し出されている。
 塹壕戦は肉体のみならず精神をも破壊する。やはり『映像の世紀』にはシェルショック(砲弾神経症)で神経をやられた人たちがうまく歩けずに転んだり地面を這いまわったりするショッキングな姿が映し出されている。砲弾が絶えず飛びかい、砲弾の音が絶えず聞こえる塹壕滞在によって神経がまいってしまうのである。患者はイギリスだけでも12万人だとか。『西部戦線』では、退避壕の中で耐えることができず、表に飛び出そうとする兵士についての記述がある。これはUnterstandsangst(退避壕不安)と作品中では呼ばれている精神状態で、集団発生することもある。ある時、パウルのいる退避壕が砲弾を受けるが、崩れるまでには至らない。しかし3人の兵士が外へ飛び出そうと暴れ出す。1人は外へ駆け出してしまう。さらに1人が逃げ出そうとするのでパウルは止めようと追いかけるが、「その時、ヒューと音がした。ぼくは身を伏せた。それから立ち上がると塹壕の壁は熱い骨のかけらと肉片と軍服の切れ端が一面に張り付いていた。ぼくは這って戻った」。『西部戦線』では恐怖のあまり失禁する新兵も出てくる。これはKanonenfieber(砲弾熱)と呼ばれている。名称はいろいろでも、戦場において精神の損傷される点において大同小異である。
 『西部戦線』はすでに出版の翌1930年にアメリカで映画化されている。1979年にはアメリカとイギリス合作のテレビ映画が作られたとか。ドイツで映画化されたのは昨年2022年が初めて(ただしNetflixオリジナル作品ということなのでドイツ映画といえるかどうかは分からない。まあ、インターナショナルか)で、アカデミー賞の国際長編映画賞その他を受賞している。この作品はもちろんのこと、1930年のアメリカ版もネット配信で見られる。1930年版はおおむね原作に忠実であるのに対し、2022年版は原作の多くのエピソードを省略し、大幅に手を加えている。
 2022年版映画は、戦場で兵士たちが次々と倒れるシーンから始まる。倒れた兵士の着ていた軍服が回収され、クリーニングされ、修繕される。こうしてリサイクルされた軍服が新しく兵士になる青年たちに渡される。主人公パウル・ボイマーが受け取った軍服には戦死した青年の名前のタグが付いたままである。パウルが他人のではないかと申し出ると係官はタグを引きちぎり、サイズが合わなかったのだろうと言って、パウルにそのまま渡す。こうしてリサイクル可能な軍服とリサイクル不可能な人間の命がアイロニカルに対比させられる。これは原作にないプロットである。この映画は原作にいろいろ手を加えているが、なかでも最も大きな変更点はドイツ政府とフランス政府の停戦交渉という原作にはまったくないプロットが挿入されている点である。
 映画だけに登場するマティアス・エルツベルガーという人物は、停戦交渉にたずさわり、協定文書に署名した実在の政治家である。連日報告される死者数の多さに心を痛める彼は一日も早い停戦を実現しようとするが、軍部は容易に同意しない。フランス側の要求はあまりにも過酷であり、停戦は事実上の無条件降伏である。エルツベルガーはドイツをフランスに売りわたす売国奴社会民主主義者と罵られながらもなんとか停戦に持ち込む。1918年11月11日午前11時をもって停戦の合意がなされる。しかし、前線で指揮にあたる将軍が戦争のことしか頭にない根っからの軍国主義者で、敗戦をいさぎよく受け入れようとはしない。自分の父親は軍人として3回ビスマルクの下で勝利し英雄となったが、自分は生まれるのが遅かった、ドイツはもう50年も戦争をしていないなどとほざいている。彼は兵士を集め、英雄となりたければ戦えと言って突撃命令を出す。命令に従おうとしない兵士たちはその場で銃殺される。パウルたちは銃に剣を装備してフランス軍塹壕へと向かう。停戦直前の11時15分前にドイツ軍がフランス軍塹壕へなだれ込み、無意味そのものの殺し合いが繰り広げられる。パウルは何人かのフランス兵を倒すが、最後に背中から胸まで貫通する刺し傷を負う。11時に停戦となり、誰も戦う者のいなくなった戦場でパウルはこと切れる。軍国主義の愚かさを強調する脚本である。
 2022年版映画は毒ガスや戦車や火炎放射器の残酷さを映像化することにも怠りがない。毒ガスでは60人の新兵がいっぺんに犠牲になる。連絡の途絶えた彼らを探しに出かけたパウルたちは彼らが全員死んでいるのを発見する。知識不足の新兵たちは防毒マスクを外すのが早すぎたのである。また、戦車はまるで悪魔か怪物のように襲ってくる。人間をひきつぶし、塹壕の上にのしかかり、破壊する。火炎放射器の炎を浴びた兵士は火だるまになり地面を転げまわる。パウルの親友のクロップは原作では脚を撃たれて後方の病院に送られ、脚を切断されるという設定だが、この映画ではパウルの目の前で火炎放射器にやられる。
 原作の多くのエピソードを省いたり変更したりしている2022年版映画だが、パウルと年上の兵士カチンスキ―の友情など原作どおりの部分ももちろんある。なかでも最も忠実に再現されているのはパウルがフランス兵を刺し殺す場面である。
 敵と味方が入り混じった白兵戦で、かつ機関銃が間断なくうなりをあげる絶望的な戦いのさなか、パウルが砲弾でできた穴に身を潜めていると一人のフランス兵が偶然足を滑らして穴に転げ落ちてくる。パウルはとっさにその兵士をナイフで刺す。兵士として普通の行動である。しかし傷は瀕死の傷ではあっても即死に至らしめるほどではなく、兵士は呻きながらしばらくはまだ生きている。パウルは明るくなる前にその場を立ち去りたいのだが、近くに敵の前線があり、姿を見せれば狙撃されることは必至で、穴から出ることはできない。自分が傷つけた兵士と向かいあわざるを得ない状況の中で彼はその兵士をいっきに殺してしまう代わりに水を与えたり、傷口に包帯をあてがったりして介抱する。自分の手にかかって一人の人間が死のうとしていることの重みが彼の心を押しつぶしそうになる。「彼は目に見えないナイフを持ち、それでぼくを刺し殺すのだ」とパウルは考える。「彼の命が助かるならぼくはそのためにいろいろやってみるだろう。そばに横たわって彼の姿を見、声を聞いていなければならないのはたまらなかった。午後3時に彼は死んだ」。
 死んだ兵士の所持していた紙入れには数通の手紙、妻と幼い娘の写真、そして彼の名前と職業などの記入された登録簿がはいっていた。ジェラール・デュヴァル、印刷工。パウルが殺したのは名前と職業と家族を持った人間だったのである。パウルは死者に話しかける。「戦友よ、ぼくはきみを殺するつもりはなかったのだ。きみがもう一度ここへ飛び込んできて、きみにも分別があったならぼくは殺すなんてしないよ。だけどあの時のきみは一つの想念、ぼくの脳のなかに住んで決断を呼び起こす何かの組み合わせでしかなかったのだ。この組み合わせをぼくは刺し殺したのだ。今初めてぼくはきみもぼくと同じ人間だということが分かる。あの時、頭にあったのはきみの手りゅう弾、銃剣、武器なのだ。今、目に浮かぶのはきみの奥さん、きみの顔、共通点。ぼくを許してくれ、戦友よ」。
 『西部戦線』を反戦小説と見なすことが可能なのはこの場面があるからだと私は思う。機関銃で多くの人間がなぎ倒され、大砲や地雷で人間の体が粉々に吹き飛ばされ、血や肉が飛び散る様子を描くことは戦争の残酷さを伝えるうえで必要だが十分ではない。それだけの描写では下手すれば戦記物SFになってしまう。戦争で殺したり殺されたりするのは普通の人間であるという視点を導入してこそ戦争の真の残酷さを伝えることができるのではなかろうか。その方法はいろいろあるだろうが、小説『西部戦線』は真っ向勝負でそのことを伝えようとしている。2022年版映画が、そして1930年版映画も上の場面を原作に忠実に再現しているのはけだし正当な処置といえよう。
 1930年版映画がドイツで上映されたとき、のちのナチスドイツ宣伝相、この時ナチス党のベルリン地区指導者であったヨーゼフ・ゲッベルス妨害工作に乗り出し、上映中止に追い込んだ。その後小説『西部戦線』はナチスによって禁書となり、レマルクは市民権を奪われ、米国へ移り、米国の市民権を獲得する。
 第1次世界大戦の大量殺戮兵器は第2次世界大戦においては原爆という次元の異なる大量殺戮兵器にとって代わられた。核弾頭を搭載したミサイルを地球上のどこへ向かっても撃ち出せる時代となり、核抑止力というなんとも不気味でグロテスクなベクトルが地球を支配している時代となった。小説『西部戦線』を読み、映画『西部戦線』を見ることで、現在起こるかもしれない戦争の恐怖をどれだけ理解できるかには疑問が残る。これが私の率直な感想。しかし、やはり読むことと見ることを勧めたい『西部戦線異状なし』である。

夏目漱石『明暗』:先を超される男、津田

 夏目漱石『明暗』は新聞連載途中で漱石の死によって中断され、未完に終わった小説である。連載188回まで書かれたのだが、そのあと何回まで続いてどういう経過をたどり、どういう結末を迎えることになるのかは誰にも分からないままに残された。
 小説冒頭で主人公津田由雄〔よしお〕が医者から痔の手術が必要なことを告げられる。彼は数日後に手術を受け、引き続き1週間入院する。この入院中に起こる数人の人物のやり取りが小説の中心部を構成する。津田は退院後すぐ湯治場に出かけ、清子に再会するところで小説は中断される。この清子はかつての津田の恋人で重要人物であるはずなのだが、最後のほう、連載176回目になってようやく登場し、登場してすぐに小説が途絶えたため、彼女の重要人物ぶり(これまでの津田との関係、これからの役割)は書かれることなく終わってしまった。漱石があと半年永らえれば小説は完成したはず、最後まで読みたかったという感慨も湧かないことはないが、それは詮無いこと。私たちは現にあるがままの作品を読むのみである。
 読み方はいろいろあろうが、その一つとして「先を超される男、津田」というのを考えてみたが、どうだろうか。津田は自分から行動を起こすことはなく、他の人間から先に行動をしかけられ、それに受け身で答える形でしか行動しない、あるいはそれを受け入れるだけで終わってしまうタイプの人間である。こんな見方はべつに目新しいことではないかもしれないが、以下、私なりに津田と交渉のある4人の人物を通してそのあたりを見てみたい。
【お延】
 津田30才、妻お延〔ノブ〕(延子)は23才。二人は結婚して半年ばかりだから新婚といってよい。ところが、彼らの関係はどことなくぎくしゃくしていて、意思疎通はスムーズさを欠き、互いの気持もちょっとずれている。そのことはお延が最初に登場する場面から始まり、その後もどんどん書き込まれる。
 津田が医者に手術を告げられて帰宅した日の夕暮れ。お延は門の前に立ってこちらをうかがっているが、角を曲がってこちらへ向かう夫の姿を認めると視線をそらし何かを見ている素振りを示す。津田に声をかけられて初めて気がついたかのように「ああ吃驚〔びっくり〕した。――御帰り遊ばせ」と応じる。津田の問いに対して雀を見ていたと答えるが、津田が見上げても雀は見えない。ちょっとおかしい。なぜわざわざよそを見、さらにその場を取り繕うのか。
 帰宅時に津田がお延から受ける奇妙な感じは次の日も続く。〈彼が玄関の格子へ手を掛けようとすると、格子のまだ開かない先に、障子の方がすうと開いた。そうしてお延の姿が何時の間にか、彼の前に現れていた。彼は吃驚したように、薄化粧を施こした彼女の横顔を眺めた〉。夫の先を超すとも気が利いているとも解釈できるこの種の行動を〈津田は時々自分の眼先にちらつく洋刀〔ナイフ〕の光のように眺める事があった。小さいながら冴えているという感じと共に、何処か気味の悪いという心持も起った〉。
 さらに3日目の夜。津田が帰宅すると2階も玄関も真っ暗である。〈彼はがらりと格子を開けた。それでもお延は出て来なかった。昨日の今頃待ち伏せでもするようにして彼女から毒気を抜かれた時は、余り好い心持もしなかったが、こうして迎える人もない真暗な玄関に立たされて見ると、矢張り昨日の方が愉快だったという気が彼の胸の何処かでした〉。
 そして4日目。付き合いたくない知人の小林との付き合いたくない酒の席から彼が遅く帰宅すると門が閉まっているのは遅い時刻としては通例であるが、いつもと違って潜り戸に掛け金がかかっていて開かない。〈彼は手を挙げて開かない潜り戸をとんとんと二つ敲いた。「此所を開けろ」というよりも「此所をなぜ締めた」といって詰問する様な音が、更け渡りつつある往来の暗がりに響いた。すると内側ですぐ「はい」という返事がした。・・・格子がすぐがらりと開いた。入口の開き戸がまだ閉〔た〕ててない事は慥かであった。「どなた?」 潜りのすぐ向う側まで来た足音が止まると、お延は先ずこう云って誰何した。彼は猶の事急〔せ〕き込んだ。「早く開けろ、己だ」 お延は「あらッ」と叫んだ。「貴方だったの。御免遊ばせ」 ごとごと云わして鐉〔かきがね〕を外した後で夫を内へ入れた彼女は何時もより少し蒼い顔をしていた〉。なぜ締め出しを食わせたのだという津田の詰問にお延は下女が昨夕締めたきりで朝外し忘れたのだと答える。〈下女を起こしてまで責任者を調べる必要を認めなかった津田は、潜り戸の事をそのままにして寐た〉。
 津田とお延は表立って諍うわけではない。気持ちが少しずれているだけである。待ち伏せするかのように夫の帰宅を待ち受けていたり、玄関の灯りを点けないままにしておいたりがどこまで意図的ないし自覚的なのかははっきりしない。意図も自覚もなくそうやっているというのがおそらく真実なのだろう。しかし、そのようなお延の行動によって夫婦間のぎこちなさを津田は感じざるを得なくさせられるのである。
 場合によってはお延の行動は目的意識的になることもある。津田が手術を受ける可能性の高い次の日曜日は夫婦が親戚の岡本から芝居見物に誘われている日でもある。お延は自分だけが出かけるわけにはいかない、断っておくからと言う。しかしそう言ったすぐ後で彼女がよそ行きの帯と着物を出して広げている場に津田は出くわす。〈「今時分そんなものを出してどうするんだい」「ただ出して見たのよ。あたしこの帯まだ一遍も締めた事がないんですもの」「それで今度その服装〔なり〕で芝居に出掛けようというのかね」。津田の言葉には皮肉に伴う或冷やかさがあった。お延は何にも答えずに下を向いた〉。そして手術当日の朝。着飾ったお延の姿に津田はびっくりさせられる。夫の伴で病院へ行くには余りにも場違いな盛装ぶりに困惑している津田を、これから着替えるのは大変だからとお延は言いくるめ、その格好で病院へ同行する。手術を終えた津田にお延は岡本が是非芝居へ来いと言うのだが行ってよいかと不意打ちを食らわせる。〈津田の頭に、今朝からのお延の所作が一度に閃めいた。病院へ随いて来るにしては派手過ぎる彼女の衣装といい、出る前に日曜だと断った彼女の注意といい、此所へ来てから、そわそわして岡本へ電話をかけた彼女の態度といい、悉く芝居の二字に向って注ぎ込まれているようにも取れた〉。わざわざ自分から岡本に電話した(でなければ是非来いと言われることもない!)ことについてもお延の言い分はなかなか理屈が通っている。「一辺断ったけれども、模様次第では行けるかも知れないだろうから、もう一辺その日の午〔ひる〕までに電話で都合を知らせろって云って来たんですもの」。ただし、そう云って来た岡本の手紙をお延は津田に示していない、とわざわざ断ってあるところをみると、ひょっとしてお延は嘘も方便を辞さない女であるかもしれないと読者は理解すべきなのか。いずれにせよ、お延は予定通り芝居へ出かける。
【小林】
 津田は実の両親にではなく父親の弟である藤井に育てられた。藤井は叔父というよりむしろ父親というべき存在である。この藤井は「始終貧乏していた。彼は未だかつて月給というものを貰った覚のない男であった。・・・規則ずくめな事に何でも反対したがった・・・一種の勉強家であると共に一種の不精者に生れ付いた彼は、遂に活字で飯を食わなければならない運命の所有者に過ぎなかった」。要するに貧乏文士らしい。
 その藤井を先生と呼び、その家に出入りして雑誌の編集や校正をしているのが小林で、もちろん貧乏。しかも津田の学校時代からの友人である。会社勤めをしていて一定の収入がある津田は彼から見れば余裕のある恵まれた人種であり、その津田から返すつもりのない借金をすることも彼は平気で、むしろ正当な権利くらいに考えている。カネをせびるにかこつけて小林の繰り広げる議論は強引であるが、彼の居直りぶりには論理を超えた説得力もあり、津田はそれにけおされることもある。日本での生活に見切りをつけて朝鮮に渡るという小林をフランス料理店に招いて送別した際に小林は言う。「僕は今君の御馳走になって、こうしてパクパク食ってる仏蘭西料理も、この間の晩君に御招待申して叱られたあの汚らしい酒場〔バー〕の酒も、どっちも無差別に旨い位味覚の発達しない男なんだ。そこを君は軽蔑するだろう。然るに僕は却ってそこを自慢にして、軽蔑する君を逆に軽蔑しているんだ。・・・考えて見給え、君と僕がこの点に於て何方が窮屈で、何方が自由だか。何方が幸福で、何方が束縛を余計感じているか。・・・君の腰は始終ぐらついてるよ。度胸が坐ってないよ。・・・何故だ。何故でもない。なまじいに自由が利くためさ。贅沢をいう余地があるからさ。僕のように窮地に突き落とされて、どうでも勝手にしやがれという気分になれないからさ」。
 安酒場の酒と高級フランス料理のあいだに違いはないという議論を小林は芸者と貴婦人のあいだにも違いはないという議論へと敷衍する。自分は芸者と貴婦人を区別する鑑識眼を持たないし、そんな区別を認めない。女性に対して鑑識眼を発揮せずにはいられない男は、あれは厭、これも厭、あれがよい、これでなくてはならぬ、などと窮屈なところへ自分を追い込むだけである。なまじっか自由が利き、贅沢をいう余地があるがための苦痛である。といった一般論から小林は津田の過去と現在へと話を移す。こちらが本来のねらいであるらしい。「君はあの清子さんという女に熱中していたろう。一しきりは、何でもかでもあの女でなけりゃならないような事を云ってたろう。そればかりじゃない、向うでも天下に君一人より外に男はないと思っているように解釈していたろう。ところがどうだい結果は」「君は自分の好みでお延さんを貰ったろう。だけれども今の君は決してお延さんに満足しているんじゃなかろう」。痛いところを衝かれた津田は小林の言葉を否定できず、「だって世の中に完全なもののない以上、それも已むをえないじゃないか」と一般論であいまいに答えるのみである。
 小林は津田とお延を別として、その次にもっともよく姿を見せる人物である。小林が登場する場面は4回あり、上のフランス料理店での会話は4回目、最後の場面である。1回目は津田が手術前に報告かたがた藤井を訪れ、たまたま居合わせた小林と帰り道を共にしたときで、自分が学生時代に着ていた古い外套をくれと言われた津田は応諾する。そして場末の酒場で飲みたくない酒を飲む。小林が渋る津田をやむなく承知させた殺し文句は「そんなに厭か、僕と一所に酒を飲むのは」であった。朝鮮へ行くこともこのときに聞かされる。
 2回目に姿を見せるのは約束の外套をもらい受けるべく津田の入院中にその留守宅を訪れたときである。応対したお延は津田から話を聞いていなかったので確認のために下女に公衆電話から病院へ電話させる。しかし病院側の不手際などで津田にまで話が届かず、下女が自分の判断で病院まで電車で往復したため帰宅が遅れ、その間お延は小林と二人きりにされ、いやでも彼と対面せざるを得ない。そのなかで小林が漏らした、近頃津田が変わったという言葉にお延は引っかかりを覚え、小林から津田の過去を聞き出そうとするが彼の応答は要領を得ない。はぐらかす。津田が彼を軽蔑している点だけは昔も今も変わらないなどと論点をずらし、さらに、自分は誰にでも軽蔑されている人間だ、世の中全体が自分を軽蔑しているのだなどと自分のルサンチマン的感情まで披露してみせる。小林はお延の心をもて遊び、彼女を翻弄することに陰湿な快感を見出しているようである。お延は〈彼のように無遠慮に自分に近付いてくるもの、富も位地もない癖に、彼のように無暗に上流社会の悪体〔あくたい〕を吐〔つ〕くものには決して会った事がなかった〉。貧乏を逆手にとって相手を攻撃してくる小林のような人間はお延の理解を超えている。彼女はそんな小林を軽蔑するけれども、同時に気味の悪さも感じずにはいられない。
 夫の過去について「あなたの知らない事がたくさんあります」「あなたの知りたいと思っている事がまだ沢山ある」「あなたの知らなければならない事がまだ沢山ある」とたたみかけられたお延は強気に反発しながらも呪縛を逃れることができない。帰りがけの小林を引き止めて説明を求める。「妻〔さい〕の前で夫の人格を疑るような言葉を、遠廻しにでも出した以上、それを綺麗に説明するのは、あなたの義務じゃありませんか」。しかし小林はすべて自分の失言であったなどととぼけて、いなしてしまう。結局、夫の過去について肝心な事は何も分からないままに終わる。小林の立ち去った後お延は〈津田の机の前に坐るや否や、その上に突ッ伏してわっと泣き出した〉。
 しかしお延は泣くだけで終わるような女ではない。存分に泣いた後で机や本箱の抽斗、戸棚の中を調べる。手紙類も調べるが怪しいものは何もない。すると突然記憶によみがえる。かつて津田が庭先で古い手紙の束に油をかけて燃やしていた姿が。いつもは後手にまわる津田だけれど、この点だけは先手を打ったのである。お延は夫の秘密の前に立って、手をこまねいていなければならないのか。
【お秀】
 お延が小林を相手に苦しい心理的戦いを強いられていた同じ頃、病院ではもう一つの心理戦がたたかわれていた。津田と妹のお秀のあいだで。
 お延より一つ年上で24才のお秀はお延とはまったく異なる環境に生活している。既に2人の子持ちであるだけではない。夫の堀は道楽者で、道楽者にありがちな寛大な気性の持ち主であるとの説明がある。〈自分が自由に遊び廻る代りに、妻君にもむずかしい顔をみせない、と云って無暗に可愛がりもしない。・・・呑気に、ずぼらに、淡泊に、鷹揚に、善良に、世の中を歩いて行く・・金に不自由のない・・・〉〈器量望みで貰われたお秀は、堀の所へ片付いてから始めて夫の性質を知った。放蕩の酒で臓腑を洗濯されたような彼の趣も漸く理解することができた〉。美人だから妻にと乞われた彼女は夫のことを知らないままに嫁入りし、結婚後道楽者と知った夫をそれとして受け入れ、夫との密な精神的絆などは求めず、その代わりに一定の自由と経済上のゆとりを享受し、子供に喜びを託しているというのが現在の様子である。そして、姑の他に夫の弟と妹も同居している。たいへんそう。見た目はお延より若く見えるほどなのに内面的には老けるのも無理はない。〈早く世帯染みた〉とある。
 そんな彼女からすれば兄夫婦はあまりにも身勝手な人間としか見えない。彼女は常に批判の眼で彼らを見ている。その端緒は津田が京都の父親から受けている経済援助である。これは月々の不足分を父親からの仕送りで補い、賞与で返済をするという約束で成り立っている。しかし津田はそれをすっぽかして平気でいる。そもそも守る気がないらしい。その約束も堀の口添えでやっと成立したのだが、約束不履行の今、その堀を責任者であるかのように詰責する手紙が京都から送られてくるのもお秀には口惜しい。お延の指にはまっている高価な指環がことあるたびに目について仕方がない。お秀の見るところ元凶は派手好きなお延である。兄は嫁の言うなりである。〈悉く細君を満足させるため〉だというのがお秀の解釈である。お秀は父や母に対して自分の思い込みを伝えることを躊躇しない。
 ところが、入院費用などで出費のかさむ今になって父が送金停止を宣告してきた。お秀が父や母に書き送る兄夫婦の陰口がその決定とどの程度関係あるのかはよく分からないが、確かなのは、お秀が自分の所為だと思われたくないと思っていることである。彼女はたんなる見舞金以上のものを紙袋に包んで持参して来た。「あたしがあなた方の陰へ廻って、お父さんやお母さんを突ッ付いた結果、兄さんや嫂さんに不自由をさせるのだと思われるのが、あたしには如何にも辛いんです。だからその額だけをどうかして上げようと云う好意から、今日わざわざ此所へ持って来たと云うんです」。しかし自尊心の強い津田は妹に頭を下げたくない。金は欲しいが素直に受け取ろうとしない。そこから心理戦争が勃発し、兄と妹の言い争いが不可避となる。根底にあるのは兄夫婦に対するお秀の不満である。
 二人が言い争っているところへお延がやって来る。彼女の関心事は先刻小林に言われた夫の過去なのだが、病院に来てみると兄妹間ののっぴきならない諍いが繰り広げられていて、それに巻き込まれてしまう。もちろん津田の同盟軍としてである。津田は必ずしもお延の戦略通りに動いてくれないけれど、それでも2対1の戦いではお秀の形勢は不利である。お延が津田の言葉をうまく利用してお秀にしかける嫌味たっぷりの攻撃はなかなかの効果を発揮する。イケズといってもよい。お秀の反感はつのるばかり。さらにお延が前日叔父の岡本にもらった小切手を持ち出すに及んで、お秀の「好意」は威力を失ってしまう。お秀は戦意を喪失する。と、まあ、戦争の比喩で眺めると3人のやり取りは分かり易い。最後にお秀は、津田夫妻が自分のことだけしか考えられない人間で、人の親切に応じる資格を欠いた人間で、人の好意に感謝することのできない人間に切り下げられた人間であるという非難と、持参したお金を置き土産にして立ち去る。「私から見ると、それはあなた方自身に取って飛んでもない不幸になるのです。人間らしく嬉しがる能力を天から奪われたと同様にみえるのです」。お秀は人間らしくないとまで言っているのだが、二人は気にする様子はない。
【吉川夫人】
 吉川は津田の勤める会社の重役であり、津田の父親の友人である。父親は吉川に息子を託し、配慮を期待しているらしい。津田は礼儀、義理、利害そして虚栄心のために吉川家を時々訪問し、吉川夫人とも懇意である。津田にとって会社で重役室に尻を据えた吉川に会う機会はあまりなく、むしろ夫人との付き合いのほうが頻繁なのかもしれない。入院のために休暇を取る許可も偶々とはいえこの夫人から先に内諾を得ている。
 夫人は暇を持て余している金持の奥さんで、要するに有閑マダム。人の世話を焼くのが道楽である。頼まれずとも機会を見つけては他人のことに首を突っ込み、〈なにかと眼下〔めした〕、ことに自分の気に入った眼下の世話を焼きたがる〉。津田もそのような眼下のひとりである。夫人は彼を子ども扱いするが、津田はむしろそれを楽しんでいる。夫人の前では自分の大人の部分、それは自己とも自我とも言い換えてよいが、〈その自己をわざと押し蔵〔かく〕して細君の前に立つ用意を忘れなかった〉。〈他〔ひと〕から機嫌を取られ付けている夫人〉を津田は〈一種の意味で、女性の暴君と奉つらなければならない地位にあった〉。    
 津田とお延対お秀の心理戦争があった翌日、最初に病院に姿を見せたのは小林であった(これが彼の3回目の登場)。彼は藤井宅に立ち寄ってからこちらへ来たのだが、その彼の情報では、藤井の家をお秀が訪ねて来て、前日の兄との諍いについて叔父の藤井に訴えていたというのである。それだけでも津田は〈思わず腹の中で「畜生ッ先廻りをしたな」と叫んだ」〉というくらいに臍を噛む思いをするのだが、事態はもっと進んでいる。小林の話ではお秀は藤井へ来る前に吉川を訪ねているのである。津田は虚を衝かれる。吉川とお秀との関わりはせいぜい、津田とお延の婚礼の表向きの媒酌人であった吉川夫妻と新郎の妹という儀礼上の関係であって、とうてい深い交渉があるとは津田は考えていなかった。お秀は吉川のところで何をしゃべったのか。藤井のところでと同じように兄との喧嘩について愚痴を言うためにわざわざ出向いたわけではないだろう。吉川宅でどんなことをしゃべって来たかを藤井の叔父に何か言っていたかと津田が問い掛けると、小林は碌に聞いていなかったと例によってとぼける。そして言う。まもなく吉川の細君がやって来て、その人の口から聞かされるはずと。
 津田が小林を厄介払いした10分ほどあとに吉川夫人がやって来る。彼女は奥歯にものの挟まったようなものの言い方はしない。津田やお延やお秀のようにネチネチとはやらない。ズバリ切り込む。津田がお延をどう思っているのかと問うた後で、津田の辛気臭い対応の先回りをして自ら答えを出す。藤井の叔父叔母やお秀が津田はお延に甘い、大事にし過ぎであると考えているのとは異なって、彼女は津田がそれほどお延を大事にしていないことの欺瞞を見抜いている。「貴方は延子さんをそれ程大事にしていらっしゃらない癖に、表では如何にも大事にしているように、他〔ひと〕から思われよう思われようと掛っているいるじゃありませんか」「あたしは貴方が何故そんな体裁を作っているんだか、その原因までちゃんと知っているんですよ」。    
 その原因を取り除いて津田夫婦を体裁を取り繕う必要のないまっとうな夫婦にしてやろうというのが吉川夫人の目論見、ないし意気込みである。そのためには津田の清子に対する未練にはっきりした解決を与えることが必要である。未練といっても津田は清子への恋情を捨てかねているとか、よりを戻したいとか思っているわけではない。理由を告げずに彼のもとを去って行った清子の心が分らないまま現在に至っている、そのモヤモヤを脱却できない状態を吉川夫人は未練と呼んでいる。そもそも清子を愛するように津田を仕向けたのは吉川夫人であった。〈世話好きな夫人は、この若い二人を喰っ付けるような、又引き離すような閑手段を縦〔ほしい〕ままに弄して、そのたびに迷児々々〔まごまご〕したり、又は逆〔のぼ〕せ上ったりする二人を眼の前に見て楽しんだ〉。それでも最終的に二人を結び付けようと考えていた夫人の思惑はしかし裏切られることとなった。清子は津田に、そして夫人にも背を向けて、関という男に嫁いだ。その後お延が津田の世界に登場し、〈夫人は再び第二の恋愛事件に関係すべく立ち上がった。そうして夫と共に、表向きの媒酌人として、綺麗な段落を其所へ付けた〉。
 綺麗な段落を付けたとはいえ吉川夫人もモヤモヤしているのである。津田の未練は彼女の未練でもある。お秀の訪問をきっかけとして彼女はひとつの解決策へと手を伸ばす。津田は清子から直接に説明を聞かねばならない、というのがそれである。どうしてかは不明だが、彼女は清子についての情報をつかんでいる。現在、湯治場にひとり滞在して流産後の体をいたわっている清子のところへ行けというのが提案である。津田にとって夫人の提案は半ば命令みたいなものであるし、自分も清子に会うことが厭わしいわけでもない。手術後の体を温泉で癒すというのはごく自然であり、周囲にも説明がつくし、費用を吉川夫人が出してやるというのである。津田は了承する。
 こうして津田は一日掛かりで東京から行かれる可なり有名な温泉場へと赴き、清子に再会する。がしかし、ここで物語は中断される。それにしても津田はやはり先を超される男であるようだ。何も告げずに清子に去られたことがまさしくその典型ではなかったのか。                                                                                                                                                                                                                

大津、湖西浄化センターのバラ

 大津の住まいの近くに滋賀県湖南中部流域下水道事務所湖西浄化センターという長ったらしい名前の下水処理場がある。ここにはバラ園があって、結構有名らしい。年に2回、5月と10月にそれぞれ12日間ずつ一般公開され、今年の5月は17日から28日まで。先日自転車でぶらりと出かけてみた。
 帰宅後、写してきた写真とバラを歌った詩を並べてみようかと思い、本箱からいろんな詩集を引っ張り出してページをめくってみたが、バラの詩は意外と少なく、あっても自分の内面をバラに託して表現したものが大半で、バラそのものが中心である詩はとても少ない。結局、以下のように白秋とリルケの詩を選んだ。

   薔薇二曲
          北原白秋

   一

薔薇ノ木ニ
薔薇ノ花サク。

ナニゴトノ不思議ナケレド。

   二

薔薇ノ花。
ナニゴトノ不思議ナケレド。

照り極マレバ木ヨリコボルル。
光リコボルル。

       

   薔薇の葩〔はなびら〕
          リルケ(大山定一訳)
・・・
ごらん、純白の花が幸福そうにそっとひらいているのを。
おおきな満開の花々のなかに 彼女は
まっすぐ貝殻のヴィーナスのように立っている。
やや赤らみかけた花が いささか取りみだしたように
隣の日かげの花に凭れ寄ろうとする。
すると そのすずしげな花はしずかに身をかわす。
・・・

また薔薇は ほとんどありとあらゆるものに変身する。
すっかり開き切ってしまった黄いろの薔薇は
ある果物の外皮だったのかもしれぬ。
そして同じ黄いろが もっと濃く
オレンジの果汁となって 満々と湛えているのだ。
この一輪はおそらくもう開花がささえきれぬのだろう。
名づけようのないみごとなピンク色が空気にさらされて
そろそろ疲れた淡臙脂〔うすえんじ〕のほろ苦い後味に変わろうとしている。
あの白麻のような一輪は 古い池の森のほとりで
朝つゆの木かげに脱ぎすてられた真夏のドレス。
・・・

しかし薔薇は ただもう一途に わが身をささえることに必死なのだ。
なぜなら じっと切なく開花をささえるのは――外部のありとあらゆるものを、
風や雨やなまあたたかな春の焦心を、
罪や不安やどこかにそっと隠れる運命を、
暮れなずむ大地の夕闇を、
雲の流れや飛翔や変化を、
はるかな星のかすかな感応を、
ただ一切を「内部」に変身さすことにほかならぬのだから。

かくて 咲きこぼれた薔薇の葩に 何の不安もなくすべてが宿っていた。

   
   
   薔薇の内部
         リルケ富士川英郎訳)

何処にこの内部に対する
外部があるのだろう? どんな痛みのうえに
このような麻布があてられるのか?
この憂いなく
ひらいた薔薇の
内湖〔うちうみ〕に映っているのは
どの空なのだろう? 見よ
どんなに薔薇が咲きこぼれ
ほぐれているかを ふるえる手さえ
それを散りこぼすことができないかのよう
薔薇にはほとんど自分が
支えきれないのだ その多くの花は
みちあふれ
内部の世界から
外部へとあふれでている
そして外部はますますみちみちて 圏を閉じ
ついに夏ぜんたいが 一つの部屋に
夢のなかの一つの部屋になるのだ

   

   幸福な薔薇よ、・・・
         リルケ(山崎栄治訳)

幸福な薔薇よ、おまえのすがすがしさが
ともすればわたしたちをこんなに驚かすのは、
おまえがおまえ自身のなかで、うちがわで、
花びらに花びらを押しあてて、やすんでいるからなのだ。

全体はすっかり目ざめているのに、奥のほうでは
眠っている、――ひっそりしたそのこころの
数知れぬやさしさは触れあいながら
はずれの口もとまでつづいて。


   〈リルケの墓碑銘〉
Rose, oh reiner Widerspruch, Lust,
Niemandes Schlaf zu sein unter soviel
Lidern.
               
薔薇 おお 純粋な矛盾 よろこびよ
このようにおびただしい瞼の奥で なにびとの眠りでもない
という
                             (富士川英郎訳)